旅の終わり
音大時代の後輩である恵の実家へとやって来ていた私は、和室を寝室として貸していただいた。
しかし、いろんなことがあったためか、布団には入っているものの全く眠れる気がしなかった。
和室には仏壇がある。
そちらの方を向くと、仏壇の横の小さめのテーブルに置いてあった恵の夫と息子と思われる写真が目に入った。ご主人はハンサムだし、息子さんは恵に似た可愛らしい目をしていた。
私はやるせなさで胸がいっぱいになった。
この感情をどう処理してよいのか分からず、ただただ布団を強く握りしめた。
そしてちょうどその時。
私は、あの日の夜のことを思い出した。
「花びらを 集めて早し 目黒川―――――」
そう、これはあの日恵が詠んだ歌だ。
そして、その先は確か・・・
「わが命も 大洋に消ゆ」
私は気がつくとそうつぶやいていた。
実はあの時、私はか彼女の歌に違和感を覚えていた。
というのも目黒川は東京湾という海に注いでいるが、東京湾はわだつみと呼ぶには少々小さい気がしていたからだ。しかし、この下の句をあの上の句にあてはめればすべての合点がいった。
「浄土浜 出づる三月は 愛子かな 我が命も 大洋に消ゆ」
私は思わずそうつぶやいた。
そして、気がつくとメモ書きをテーブルの上に残し、ヴァイオリンケースを持って恵の実家を飛び出していた。
東の空がだんだん明るくなっていて、今にも日が昇りそうな様子だった。私は地図で浄土ヶ浜の位置を調べた。幸い、ここからそう離れてはいなかった。
しばらく歩いていくと、あの白い綺麗な浜が見えてきた。そしてそれと同時に東の水平線から朝日が出てきた。あたりにはウミネコがたくさんおり、彼らが各々鳴き声を上げていた。
私は浜の上にケースを置くと中からヴァイオリンを取り出した。
およそ、十年ぶりの演奏だ。
ウミネコたちも少しは空気を読んでくれたようで、気がつくと鳴き声はほとんど気にならなくなった。指が全く動く気がしないが、私は弦に弓を当てると海に向かってその音色を響かせた。
曲は恵が最期に弾いてくれたショパンの「別れの曲」だ。
やはり、相当のブランクがあるので指はうまく動かなかった。それでも、私はこの曲を彼女に捧げんと一心不乱に弾いた。
途中、私の頬を涙が伝っているのが分かった。
気持ちは演奏に完全に入り込んでいる。自分だけの世界にいるはずなのに、涙が止まらなかった。
私も、私のヴァイオリンも泣いていたのだ。
そしてすべてを出し切った時。
私はだらりと腕を落とすと天を仰いだ。
辺りには波の音だけが響いている。
不格好な演奏だったが、私は人生の中で一番本気の演奏をしたという気がしていた。
もう、すべて出し切った。
もう、この世に思い残すことは何もなかった。
気がつくと私はヴァイオリンをケースに戻していた。
「久しぶりにお前に会えて嬉しかったよ・・・でもお別れだね・・・いい人に拾われるんだよ」
私はそう言いながら相棒の体をそっと撫で、ケースのふたを閉めた。
そして、一度だけ深呼吸する。
「恵ちゃんのバカ・・・」
私は海に向かってそうつぶやいた。
私は彼女が許せなかったのだ。
最初から彼女のことを憎んだりなどしていなかったのに、それなのに勝手に迷惑だと思い込んで黙って死んでしまったのだ。
一言文句を言ってやらねば気が済まなかった。
「あっちに行ったら、まずはお説教だね。それから・・・」
私は笑顔でそんな独り言を言いながら海へと吸い込まれていった。
「また一緒にヴァイオリンを弾こうね・・・」
気がつくと私は腰のあたりまで海水に浸かっていた。不思議と冷たいという感覚があまりなかった。それよりも、この先で彼女に会える。そのことに対する喜びで頭がいっぱいだった。
体はみるみる海水に浸かっていく。そして、いよいよ口元に海水が当たった時だった。
「何やってんだ!!」
そんな声を聴いたと思った瞬間、私は何者かに思い切り羽交い絞めにされた。
私は突然のことで驚いたが、恵との逢瀬に邪魔が入ったことに不快感を覚えた。
「放してよ!!私は恵に会いに行くんだ!!」
「何言ってんだお前!!死ぬぞ!!」
姿はよく見えないが、どうやら声からして男性のようだった。
「もういいの!!死なせてよ!!」
「ダメだ!!いいから暴れるな!!」
数十秒にわたって彼と格闘したが流石に体格差もあったためか、私はあえなく岸へと引きずられていった。私は波打ち際にへたり込むと、号泣してしまった。そんな私の様子を見た彼はたいそう困った様子だった。
「お前何考えてるんだよ・・・」
彼は息も絶え絶えといった様子だった。
しかし、私は何も返すことができなかった。
「お前、家どこだよ・・・」
「ない・・・」
「はぁ!?」
男は呆れかえっていた。
しかし、こんなやり取りをしているうちに私は猛烈な寒気に襲われた。
暖かくなってきたとはいえまだ3月。
宮古の海は冷たかった。
「お、おい・・・お前震えてるぞ大丈夫か!?」
しきりに心配してくれる彼だが、顎ががくがく震えてうまく声が出せなかった。
すると、男は自分が着ていたウィンドブレーカーを私に着せてくれた。
「とりあえず、これ・・・貸すから」
そう言うと、男は私に背を向けてスマホをを取り出し連絡を取り始めた。
そして話が一段落すると思いもよらないことを口にした。
「お前とりあえず家に来い!!」
彼はそう言いながら私を背負った。
いきなりのことに私は思わず驚いてしまったのだが、自分で歩こうにも腰を抜かしたのかとても歩ける気はしなかった。
それと同時に私は大事なことに気がついた。相棒がすぐ横に置き去りになっていたのだ。
「あ、あの・・・あれも・・・」
私は彼の肩をトントンと叩き、ヴァイオリンの方を指さした。
「あ~もう!面倒くさいなぁ!!」
しかし、男はそう言いつつもケースを持ってくれた。
彼は成人女性一人分の重さを背負いながら、浄土ヶ浜の遊歩道をひょいひょいと登っていった。何かスポーツをやっているのか、彼の足取りや背中から盛り上がった筋肉は普通の人のそれではなかった。
ウィンドブレーカーを着せてもらってから幾分か寒さは和らいだが、それでも震えは止まらなかった。そんな私の様子を背中越しに感じたのか、彼は道中何度も気を使ってくれた。
そういえば、こんな風に人と関わるのはすごく久しぶりな気がした。
浄土ヶ浜からおよそ徒歩10分。私はその男の家へと連れられていた。
その家は古めかしい木造二階建てで、家の横の納屋には網や浮きなどの漁業で使う道具がしまわれていた。
そうか、この男は漁師なのか。
その時私は、彼の並々ならぬ体格に合点がいった。
「母さん!ただいま!」
男はそう言うと玄関に私を下ろした。すると奥から彼の母と思しき女性が出てきた。
「母さん、この人さっき電話で話した自殺未遂の人。風呂までは俺が連れてくから、着替えとか頼むわ」
「う、うん・・・分かったよ」
彼の母親はひどく困惑しているようだった。
それもそうだ、早朝に全身ずぶ濡れの見ず知らずの自殺未遂女が現れたら誰だってこうなる。
私は脱衣所まで担がれると、そこで下ろされた。
「風呂は沸いてるから、ちゃちゃっと入ってくれよ」
彼はそう言うと脱衣所を出て行った。
何から何まで申し訳ない気持ちになったが、寒くて仕方がないのでお言葉に甘えることにした。
海水に浸かったせいで肌はべたべたするし、髪もぎしぎしだった。
私は洗い場に置いてあったシャンプーを借りた。
そして体を軽く洗うと湯船につかった。
湯船につかったのはほぼ半年ぶりだった。母が病気をしてからというもの、わざわざ風呂を沸かすこともしなかったのだ。私は久々に入った風呂の感覚に思わずうっとりした。お風呂はこんなにも気持ちのいいものだったのか、と改めて思い知らされたのだ。
すると脱衣所の方から声が聞こえてきた。
「あ、あの・・・タオルと着替え、ここに置いておきましたから・・・」
少しおどおどした様子の彼の母はそう言うと私の返事を待たずに姿を消した。
冷静に考えてこの状況はヤバいよなと思った。どう考えても私は頭のおかしいやつだった。冷静になれば冷静になるほど、どうしよう・・・と思うのだった。
しかし、私を助けてくれた彼もまた寒い思いをしているはずだ。早々に風呂を明け渡してやらねばと思い、私は湯船から出ると体を軽くすすぐと浴室を出た。そして脱衣所にあったバスタオルで体をふくと、用意されていた服に着替えた。とはいえ用意されていたのはおそらくあの男の人のものだった。確かに早朝に現れた意味の分からない女に服やら何やらは貸せないよな、と冷静に悟った。しかし下着だけはなぜか新品の女性ものだった。
脱衣所を出てこの家の居間と思しき場所に入ると、男はストーブの前で火に当たっていた。
「お!やっと出てきたか・・・湯冷めしたら困るから火に当たってな」
男はそう言うと私をストーブの前にあった座布団の上に座らせた。
私はバスタオルで頭を拭きながら正座で待機していた。すると今度は彼の母が奥から温かいお茶を持って出てきた。
「あ、あの・・・突然、すみませんでした・・・」
私は一旦立ち上がると深々と頭を下げた。
「あなたはあの子の友達・・・ではなさそうね」
「はい・・・」
「まぁ、詳しい話はあとで聞きますから。とりあえずコレ」
彼女はそう言うと温かいお茶をくれた。
「それと服は今洗濯していますから。本当は私の寝間着でも貸そうかと思ったんだけど、あなた背丈があるから合わないかなって・・・とりあえず今はあの子の服で我慢して頂戴ね」
「何から何まで、本当にすみません・・・」
私はそう言うと再び深々と頭を下げた。すると、さっき風呂に向かったばかりの彼がもう戻って来た。
「ふぅ~さっぱりした~・・・あ、そうだ親方に今日は遅れるって連絡しなきゃ」
そう言うと彼は携帯を取り出した。
「もしもし・・・八重樫です。今日のお仕事なんですけど、実はちょっと海でおぼれている人を助けまして・・・少し遅れそうです。すみません」
私は彼のスケジュールを狂わせてしまったことに申し訳なさを感じた。すると、なにやら彼が私の方をちらちら見ながら電話をし始めた。そして電話をいったん耳元から話すと、私に話しかけてきた。
「なぁ、あんた・・・佐々木恵って名前?」
私は初対面の彼の口から自身の名前が出てきたことに驚きを隠せなかったが、黙ってうなずいた。すると、彼はまた電話に戻った。
「はい・・・はい・・・え!そうだったんですか!?はい、分かりました・・・では後程そちらにお送りします・・・はい、失礼します」
彼はそう言うと私の向かいに座り込んだ。
「あんた、昨日笹木さんとこにお世話になってたんだってな」
「はい・・・」
「んなことより何であんなことしたんだよ!!危うく死ぬところだっ・・・」
すると、彼の後頭部を彼の母がパシンと叩いた。
「いてぇーな母さん!何すんだよ!!」
「そんなこと聞くもんじゃありません。それよりご飯できたからこっちに来なさい。あなたも、食べていくでしょう?」
「い、いえ・・・その」
私は親子のやり取りにたじたじになってしまった。
「どうせ服乾くまで帰れないんだし・・・飯食っていきなよ」
彼はそう言うと、ひょいっと身軽な動作で立ち上がった。
私はダイニングに通されると、椅子に腰かけた。
そこにはすでにご飯とみそ汁と焼き魚、それにほうれんそうのお浸しに納豆が置いてあった。
そして間もなく、私という謎の人物を含めた三人での朝食が始まった。
すると即座に彼が質問を浴びせてきた。
「あんた、恵姉ちゃんの友達なんだってな・・・」
彼のその言葉に向かいに座っていた彼の母親もはっとした様子だった。
「はい・・・恵ちゃんは音大時代の後輩でした」
私はそう答えるとみそ汁を飲んだ。
どこか懐かしい、家庭でしか出すことのできない味だった。
「そう・・・あなた、恵ちゃんのお友達だったのね・・・」
そうつぶやく彼女はどこかしみじみとした様子だった。
なぜ二人がこのような反応をするのか気になった私は思わず尋ねた。
「あの、お二人は恵ちゃんのお知り合いなんですか?」
二人は一瞬きょとんとした表情でお互いを見合ったが、すぐに男が笑ってみせた。
「あっはっは!知り合いも何も親族だよ!死んだ兄貴のお嫁さんだったの!」
私はこの男のお兄さんが恵の旦那さんであったということを知った。そして、その旦那さんがすでに亡くなっていることまで一瞬で理解ができた。
思わず言葉を失ってしまった。
すると、そんな様子の私を見て呆れたように男が話し始めた。
「何暗い顔してんだよ・・・海と生きてりゃ、海で死ぬことだってあるよ。あんたがそんな風に気を使う必要はないんだ」
すると、今度は母親の檄が飛んだ。
「あなた彼女に向かってあんたあんたって、さっきから失礼よ!あなたより年上なんだから!」
「いーじゃん別に!年上って言ったって4~5歳くらいだろう?」
「ごめんなさいね・・・この子去年高校を出たばっかりで、まだガキなの」
私は言葉を失った。
お母さんすみません。
5歳どころか10歳くらい違います。
彼が未成年ということが確定したので、ここからは彼のことを少年と呼ぶことにする。
「ところであなたのお名前は?」
私はこの時まだ名乗っていなかったことに気がついた。
「佐々木恵です。佐々木は人偏に左って書く佐で、名前は恵ちゃんと同じ漢字です」
「へぇ・・・じゃああなたたちほぼ同姓同名みたいな感じだったのね」
「はい・・・そもそも名前が似ているっていうのが仲良くなったきっかけでした」
そのあとは、恵ちゃんの話で盛り上がった。
大学時代はこうだったとか、宮古で教師をやっていた時代はこうだったとか。しかしそういう話をすればするほど、私は恵が死んでしまったということを認識せざるを得なくなった。
そして気がつくと私の頬を涙が流れていた。とめどなく涙が流れた。鼻水も大量に出てきた。すると、少年がすかさずティッシュを渡してくれた。
「おいおいいきなりどうした!まさか、海でどこかぶつけてたのか?俺のせいか・・・」
彼はオロオロした様子で心配してくれた。
私は内心、この子はなにを言っているんだと笑っていたが、それでも涙が止まらなかった。
「違うの・・・違うのよ・・・あなたのせいじゃないの。恵が手紙を・・・でも死んじゃってて・・・」
話したいことがたくさんあるのに、考えが一向にまとまらなかった。
するとお母さんが隣にやって来て背中をさすってくれた。
「落ち着いて・・・ゆっくりでいいから」
私はその優しい言葉にさらに涙を流してしまった。
この人たちだって、家族を失っているのに。
そんな人たちが泣いていないのに、私が号泣することがどこか申し訳なかった。
しばらくして、大分落ち着きを取り戻した私は、いかにしてここ宮古の街までやって来たかの経緯と恵がおそらく自ら命を絶った旨を話した。それと感情に任せて私も母を半年前に亡くし、今は独り身だというどうでもいいことまで口走ってしまった。私の話を聞いた二人は少しだけ沈んだ表情をしていた。しかし、二人とも恵の死を受け入れているようだった。
「恵ちゃんは二人に会いに行ったのね・・・私にはできなかったことだわ」
お母さんはそうつぶやいた。
彼女の言う通り、恵の歌には愛しい人を意味する「愛子」という言葉があった。
「私もこの子がいなかったら、同じ道をたどってたかもしれないわ・・・」
お母さんは伏し目がちにそう言った。
すると今度は少年がムスッとした様子で話し始めた。
「自殺なんて、俺は絶対にさせないからな・・・」
私は覚悟のようなものがこもった彼のその言葉を素直にかっこいいなと思った。きっと、実の親なら嬉しい一言だろう。
するとお母さんはにやりとした。
「ふふふ・・・あなたみたいな落ち着きのない子がいたら、おちおち死んでもいられませんよ」
「なっ!!」
少年は不服そうな顔をしていたが、お母さんの表情は穏やかそのものだった。
大丈夫だよ少年、君の思いはしっかりと伝わっているよ。
そうこうしているうちに、私の服が乾いた。
脱衣所で着替えさせてもらいいよいよ恵の実家へと戻る。少年が送ってくれるそうなので、お言葉に甘えることにした。
そしていざ出発と軒先に出た時。私はお母さんに呼び止められた。
すると彼女は私の手を握ると優しく語りかけてきた。
「生きていたらいいことがあるなんて無責任なことは言えないけれど・・・あなたを見ていたらどこか他人事と思えなくて。その、何か辛いこととかがあったら遠慮しないでいつでもうちにいらっしゃいね」
「・・・ありがとうございます」
私は深くお辞儀をした。
今朝初めて会ったのに、こんなにも良くしてくれるなんて本当に胸の中が暖かいもので満たされていくような。そんな感覚になった。
恵の実家は少年の家からそれほど離れておらず、徒歩10分ほどの道のりだ。恵とこの一家が幼馴染の関係であることを考えると、それはさして不思議なことではなかった。道中、彼に名前を尋ねた。すると彼は少しだけ照れくさそうに「伸」だと教えてくれた。
「八重樫伸っていい名前だね」
彼は自身の名前を褒められると、なおのこと照れくさそうにしていた。やはり年相応というか、かわいいところのある少年だった。
恵の実家に到着すると、恵の母が出迎えてくれた。彼女はひどく心配してくれていたようで、私が帰ってきたことをすごく喜んでくれた。
「ご迷惑おかけして、すみませんでした・・・」
私は深くお詫びした。
ましてや、自殺未遂など。もしあれで私が本当に死んでいたら、恵の家族にも嫌な思いをさせてしまうところだった。
結局、私はその日東京には帰らなかった。
明日も欠勤すると会社に連絡しようかと思ったが、スマホが水没して使い物にならなかったので急にどうでも良くなってしまったのだ。まぁ、明日の一日くらい無断欠勤しても良いだろう、とそんな風に考えるまでになっていた。
その日は、恵の父母といろんな話をした。
彼女の幼少期の話。少女時代の話。そして、大学時代以降の話も。
そこで一つ分かったことだが、彼女はすごく私を慕ってくれていたようだった。晩年も、私のことを気にかけてくれていたらしい。それと同時に、命の恩人にこんなに早く死んだら怒られてしまうね、とも言っていたようだ。
それゆえに、私は彼女を遠ざけてしまったことをひどく後悔した。しかしもう後悔しても遅かった。過ぎ去ってしまったことは、二度とやり直すことはできないのだ。
翌日の正午ごろ。
私は恵の実家の和室で手を合わせていた。
一度も会ったことない彼女の夫と息子に、そして恵にまた来るよと挨拶を済ませる。
行方不明者に死亡認定が下るのは災害や事故などの特別な場合を除き7年らしいが、恵の父母曰く、近々親族だけで簡単な葬儀をするそうだ。遺書的には入水自殺を伺わせるが、目撃者もいない上にすでに失踪から2週間以上が経過しており生存の確率はほとんど皆無だった。
ちょうどそんな話をしているときに、玄関の戸が開く音がした。
直後に居間へと入って来たのは、昨日私を助けてくれた八重樫伸だった。恵の父が彼を迎え入れた。
「おお、来たか」
「親方!なんで俺が盛岡まで運転するんですか!?」
彼は入って来るなりそんなことを言い始めた。
「だって俺、この後漁協の会合があるし・・・それに、こいつも盛岡に買い物に行きたいって言ってるし、お前の運転の練習にもなるだろう」
「そうかもしれないですけど・・・」
どうやら私を盛岡まで送ってくれるという話のようだ。
そのついでに恵の母が盛岡でショッピングをするらしいのだが、そのドライバー役として伸くんが召喚されたという訳だ。
「よろしくお願いしますね・・・伸くん」
「・・・分かりましたよ」
彼は私のその一言に観念したようだった。
私、伸くん、恵のお母さんの三人で家を出ると、各々伸くんの車に乗り込んだ。彼の車はワゴンタイプの軽自動車だ。そして窓を開けると恵のお父さんに挨拶をした。
車は恵の実家を出ると宮古市中心部へと向かった。そこで、私は後部座席から身を乗り出すと彼に話しかけた。実は街を出る前に寄ってほしいところがあったのだ。
「あの、盛岡に向かう前に浄土ヶ浜に寄ってもらってもいい?」
「え・・・」
彼は私のその言葉に少し固まった。
私は彼が何か誤解している気がしたのですかさずフォローを入れる。
「大丈夫・・・少しやり残したことがあるだけよ」
その一言に少し安心したのか、彼は車を浄土ヶ浜へと向けた。車ではあっという間の道のりだった。駐車場からは徒歩になるのだが、しばらく歩いていくとあの白い石の浜が見えた。
今日もウミネコが気持ちよさそうに鳴いていた。
しかし、すっかり信用を失ってしまったのか、伸くんも私の後ろをべったりと付いてきていた。
今日も貸し切りと思いきや、浄土ヶ浜には先客がいた。
そこにいたのはヴァイオリンを弾く制服姿の女学生だった。
丁度演奏を終えたところなのか、彼女は肩の力を抜くとふぅーと深く息を吐いていた。
私は思わず後ろから賞賛の拍手を送った。突然の拍手に彼女は驚いたように振り返った。
「恵ちゃん先生・・・?」
私は彼女のその問いかけに驚いてしまった。なぜこの子が恵を知っているのだろうか。しかし彼女は今度は怪訝そうな表情を浮かべた。
「すみません・・・人違いでした。でも、そのヴァイオリンケース・・・」
彼女はそう言うと私のヴァイオリンケースを指さしてそう言った。
私は一連のやり取りで彼女が恵の教え子だということが何となく分かった。
「ええ・・・これは私がかつて恵ちゃんに託したヴァイオリンよ」
すると彼女はさらに驚いたような表情になった。
「では、あなたが恵ちゃん先生のお師匠様なのですか!?」
私はきらきらとした眼差しを向けられ思わずため息をついた。
恵はこの子に私のことをどんな風に言っていたのか・・・
「まぁ・・・そんなところかしらね」
私はそう言うと、ケースからヴァイオリンを取り出した。
演奏には演奏で返してやらねばと思ったのだ。
私は、真っすぐと太平洋の水平線を見つめると弓を構えた。そして絹糸にそっと指を添えるがごとく、優しい手つきで演奏を始める。
曲はドビュッシーの「月の光」だ。
今は昼だから月は見えないはずである。しかし私の目には水平線から昇ってくる月が、愛しい人の姿がはっきりと映っていた。昔のように思うがままというようには弾けないが、それでも今引き出せる最高の演奏をやってのけた。
「陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑ(え)に 乱れそめにし われならなくに」
私は演奏を終えた直後にそうつぶやいた。
すると、後ろで聞いていた女学生と伸くんが拍手をくれた。
「ドビュッシーの月の光ですね・・・それと古今集」
彼女は俯きながらそう言った。
「ええ・・・」
私はそう返すとどこまでも続く海をしみじみと眺めた。そしてふと振り返ると、その女学生が泣いていることに気がついた。
「どうしたの!?」
私は、突然のことに驚き思わずそう尋ねる。
「あなたは本当に先生のお師匠様なんですね・・・それに恵ちゃん先生は・・・」
私はこの子の繊細さに驚いた。
私から放たれる雰囲気や眼差し、ヴァイオリンの音色からそこまでを正確に読み取ったのだ。
正直、感性の豊かさが並外れていると感じた。
その後は三人で歩いて駐車場まで戻った。その間にその女学生の感情も少し収まったようだったが、て別れ際に彼女は私に不安そうな様子で尋ねてきた。
「あの・・・私、東京の音大に行くのが夢なんです・・・笑われるかもしれませんが・・・」
そう言う彼女は自信のない不安そうな表情だった。しかし私は彼女の恐るべきほどの表現力と共感力を目の当たりにしたばかりだった。それに彼女は・・・
「あなたは恵ちゃんの教え子よ。絶対に行けるわ」
私は彼女の手を取ると真っすぐ彼女の目を見てそう鼓舞した。
元来、物事を冷ややかに見がちな現実主義者の私がこう言うのだ。それは自分でも驚くべきことだった。そして私は手帳のメモページをちぎると自分の電話番号を書き彼女に渡した。
「何かあれば、いつでも連絡してきて・・・ヴァイオリンのことでも、そうじゃなくても」
彼女は一瞬驚いたような顔をしたが、素直に私のメモを受け取るとぺこりと頭を下げ、遊歩道の入口にとめてあった自転車にまたがると颯爽と走り去って行った。
その後はまた少しわがままを言って、伸くんの実家に寄らせてもらった。そして伸くんのお母さんにも挨拶をした。
「昨日は本当にありがとうございました」
「いえいえ・・・何も気にしなくていいのよ・・・また、是非うちに遊びに来てね!」
「はい、また来ます!」
伸くんのお母さんは、お菓子やら何やらを持たせてくれた。宮古に来てから、本当にいろんな人にお世話になりっぱなしだ。
そしていよいよ盛岡までのドライブだ。盛岡まではおよそ100㎞で、国道106号線で2時間の道のりだ。その道中、私は恵の母と共に伸くんに高校時代はどうだったのか、今の漁師の見習いのお仕事はどうなのかなどを質問しまくった。一方の伸くんは、年上の女性二人から質問攻めにされたあげく、慣れない運転を強いられていてなかなか心労が絶えない様子だった。
そうこうしているうちに、北上高地をくねくねと突き抜け、私たちは盛岡の街へと到着してしまった。そして、駅前の駐車場に車を停めると三人で駅舎の中へと入った。東北地方のハブ駅として機能してるだけあって、やはりそれなりに盛岡駅は大きい。私が乗るのは15:17分発のはやぶさ30号だ。出発まであと10分ほどあるが、少し早めにホームで待つことにした。
私は改札前で見送りに来てくれた二人の方を振り返ると、深々とお辞儀をした。
「本当に、ありがとうございました」
「こちらこそありがとう・・・あなたの顔が見られて嬉しかったわ」
恵の母はそう言ってくれた。すると、伸くんが何やら私の方へと歩み寄って来た。
「これ・・・」
そう言って渡してきたのは彼の電話番号だった。
「あんた、何か見てて危なっかしいんだよ・・・帰ったら絶対連絡しろよ」
「分かったよ・・・でも、携帯買い替えてからね」
私はポケットから水没したスマホを取り出すとニコリと笑顔を向けた。
「それと・・・また、何か辛いことがあったらいつでも来なよ!盛岡くらいまでなら、迎えに来てやるから・・・」
彼はそっぽを向きながらそう言った。
「ふふ、伸くんは優しいね・・・分かった・・・じゃあ、また死にたくなったら来るね」
私は少しだけ彼をからかうようにそう返した。彼も私のその返答に少し呆れたような表情をしていた。
そして、乗車券を改札に入れる。
恵の母と伸くんの二人はここまでだ。そう本当にお別れだ。ここからは一人の旅路なのだ。
私はもう一度お辞儀をすると、二人に手を振った。二人もにこやかに手を振り返してくれた。
ホームに上がって数分。東北を駆け抜ける、緑の新幹線がやって来た。
かつては何時間もかけて上野まで行っていたという東北本線。しかし、今では東京駅まで僅か2時間と15分だ。本当に、宮古の人たちが恋しくなったらいつでも来られてしまう。
私は新幹線に乗り込むと予約していた窓際の席に座った。
いよいよ出発だ。警笛と共にドアが閉まる。そして緑の新幹線はゆっくり南へと走り始めた。
新幹線はすぐさま周りの景色が流れるように見えるほどに加速し、盛岡の街をあっという間に抜けてしまった。そして往路で訪れた平泉の高台を横目に見たかと思えば一ノ関の駅を爆速で通過し、40分程で仙台についてしまった。
私はその時、仙台駅の反対側のホームに数日前の自分の影を見た気がした。あの時の私は何も知らない幸せ者だったが、中身は何もない空っぽの人間だったように思う。それでもなぜか、根拠はないのだが、今の自分はホームの反対側にいた自分よりも少し前に進めている気がするのだった。
そこからは大宮までノンストップで行く。さすが最速達便だなと思わず感心してしまう。そして往路で見た景色を見ながら、この四日間の旅に思いをはせた。思えば、色々な人に会ったし、迷惑をかけた。
恵のいたずらのような計画だったが、私は心から楽しんでいたし、不思議と後悔は全くなかった。迷惑をかけた人達にはいずれご挨拶に伺えばいいか程度に考えられるほど、この旅行を通じて私は随分と図々しくなってしまった。これほど童心に帰った旅行は久しぶりだったのだ。
東京駅には17:30過ぎについた。本当にあっという間の電車旅だった。そのあとは、往路と同じ路線に乗って帰宅した。中目黒に着いたのは、なんだかんだで18:00を回っていた。
そして家の前に着いた時、私はあたりが少し騒々しいことに気がついた。なにやら警察のような人が私の家の前にいるのだ。思わず私は若い警察官に声をかけた。
「あの・・・わたしの家に何かご用でしょうか?」
彼はきょとんした顔でこちらを見たかと思うと、すぐさま上司と思しき人を呼びに行った。
「佐々木恵さんですか?」
「はい、そうです・・・」
私はベテランの雰囲気を醸し出す警察官に免許書やなにやらを提示させられた。
「間違いなさそうですね・・・いや、あなたの勤務先から捜索願が出ましてね。今自宅を捜索させてもらっていたところなんです」
「え・・・」
そこで私は今日無断欠勤をしたことを思い出した。
いやしかし一日無断欠勤した程度でこんなに騒ぎになるとは・・・
「それと・・・」
ベテラン警察官にはまだなにか気がかりなことがあるようだった。
「室内に吊るされていた縄なんですが・・・」
私はそこで、旅の出発前に死のうとしていたことを思い出した。
あのままで家を出てしまったのだ。
「大丈夫ですか?」
その警察官は少し心配そうに尋ねてきた。
しかし、不思議と今の私に死ぬ気はあまりなかった。
「ええ・・・傷心旅行に行ってきたので、もう大丈夫です」
私はにこやかにそう返した。とりあえず警察沙汰はこれで一件落着した。そして翌日、会社でこっぴどく怒られたことは言わずもがなだろう。
これが、Kの手紙を巡る奇妙な3日間・・・いや、正確には無断欠勤した分を含めて4日間のみちのく旅だ。
あの4日間は、間違いなく私の人生を変えた。
あの旅行がなければ今私はここにいないだろうし、そもそも生きていなかっただろう。
私は、白い石の綺麗な浄土ヶ浜から海を眺めていた。
あれから7年たった今、私の生活は目まぐるしく変わった。
まずは、会社を辞めた。
ブラックだったとかパワハラがひどかったとか、そういうわけではない。ゆえに同僚に辞める旨を伝えた時はとても驚かれた。
もちろん過去の反省を生かして退職後に蒸発したりはしていない。円満にやめたので今でもかつての同僚たちとは頻繁に連絡を取っているし、東京に行くことがあれば会ったりもしている。
ではなぜ会社を辞めるに至ったのか。
その理由は簡単で、単にもう一度音楽をやってみたくなったからだ。
もちろん、プロのヴァイオリニストになるわけではない。音楽教師にでもなってみようかな、と思いついたのだ。
幸い私は音大に3年いたことで音楽教師の2種免許は取れた上に、その後再入学した大学で国語教師の1種免許を取る資格があった。若い時にフラフラしていたおかげで、何かと今頃になって役に立ったのだ。2種免許は1種に格上げするように努力義務があるが、それも何とかなった。
という訳で、今は音楽教師ときどき国語教師として生きている。生徒からは「めぐちゃん」と呼ばれている。まあまあ慕われていると信じたい。
「ママー!!」
すると私の後ろからそう叫びながら白いワンピースをきた女の子が走って来た。
「佳織ちゃん~~!!」
私はそう叫ぶと彼女を抱き上げた。この子は私の愛娘の佳織だ。今では昔の私からは想像もできないほど親バカを晒している。そう、生涯独身、天涯孤独だと思っていた私をもらってくれる人が現れたのだ。
佳織に遅れて小さな男の子を抱いたハンサムな色男が現れた。
「佳織~走ったら危ないぞ~」
甘い声でそう娘を諭す彼はここ宮古で漁師をやっている男、そして私の夫だ。
「慧太もご機嫌ね~」
私は夫の腕に抱かれている愛息子の頬をぷにぷにすると猫撫で声を出した。
「じゃあ伸くん・・・佳織ちゃんお願いね」
私はそう言うと愛娘を夫に預けた。
そして、足元に置いてあったケースから長年愛用のヴァイオリンを取り出した。
ヴァイオリンを構えると私は集中力を高めた。
不思議とこの場所は私の集中力を高めるのにはうってつけの場所なのだ。
そして、弦に弓を当て演奏を始める。
3月のこの時期になると私は決まって浄土ヶ浜に来て海に向かってヴァイオリンを弾くのだ。私は一人でも構わないのだが、伸くんは絶対にそれを許してくれない。おそらく、彼とのなれそめがあまりにも衝撃的だったので、彼の中でも人生最大級でトラウマになっているのだと思う。本当にそのことについては色々な意味で申し訳ないと思っている。
あの奇妙な旅を終えてからというもの、私は自分の元に戻って来た相棒に触れる機会が格段に増えた。そのおかげかは分からないが、指は大分動くようになっていた。
そして全身全霊の演奏を終えると私は水平線の方へと目をやった。
すると伸くんが話しかけてきた。
「ねぇ・・・それって違う曲を弾いたりとかしないの?」
そう彼の言う通り。
3月のこの時期にここで弾く曲はドビュッシーの「月の光」と決めている。しかしこれにこだわる理由が分からないとは、彼もまだまだ乙女心が分かっていないようだった。
「これでいいの・・・これがあの子との絆だから」
「ふぅーん・・・」
伸くんは子供たちと戯れながら、聞いているんだか聞いていないんだかよく分からない返事をした。
「それと・・・君とのね」
私は聞こえるか聞こえないかくらいの声でそうつぶやいた。
「え?なに?」
しかし、やっぱり彼の耳には届いていないようだった。だが、これでいいのだ。
これがKこと恵ちゃんとの約束だから。
こうして私の幸せそうな姿を定期的に見せびらかしてやっているのだ。
これは私に黙って勝手にいなくなった彼女への私からの罰なのだ。
そして彼女からの罰は私が天寿を全うした後に受けるであろう。
伸くんは二人の子供を連れて駐車場へと続く遊歩道へと歩いていた。すると、彼がこちらを振り向いて声をかけてきた。
「おーい!そろそろ行くぞ!!葬式の準備もあるんだから!!」
未練がましく海に気を取られている私を心配してくれているのだろう。つくづくかわいいご主人だこと。まるで3人目の子供みたいな気分だ。
そして私も彼に続いて浄土ヶ浜をあとにしようとした時だった。
そこに、恵ちゃんの幻影を見た気がした。
そうか、恵ちゃんもひょっとしたら私たちのことを見ているのかもしれない。
そんな風に思った。
そして去り際に一言だけ。
「私は幸せだよ・・・」
晴天の浄土ヶ浜には、まるで炭酸水がはじけるような波音と気持ちよさそうに鳴くウミネコの声が響いていた。