Kからの手紙
私は今、岩手県宮古市の浄土ヶ浜という場所へとやって来ている。浄土ヶ浜は白い流紋岩でできた浜と同じ色の島が海からいくつも生えている三陸海岸屈指の景勝地だ。その景色はその名の通り極楽浄土そのものだ。
私は白い石の浜辺から、美しい白の小島と、どこまでも続く青い太平洋の大海原を眺めていた。あの奇妙な3日間から早7年。私は友人であるKとの約束を確認するためによくここを訪れている。
「私はあなたとの約束を守れているのかな・・・」
そう独り言を言うと、私は7年前に思いをはせた。
7年前の3月某日。私は死のうとしていた。
何か辛いことが特にあった訳ではない。いや、確かに仕事が多忙とか身内の不幸とか。辛いことが全くないかと言われればそれは嘘になる。しかし、それくらいの悩みの一つや二つなら誰にだってあるし、死ぬことでしか逃れられない苦しみなのか?という問いに対してははっきりそうだと答えられなかった。
どちらかと言うと「生きている意味」が分からなくなったのだ。
ただ、こんな私にもかつては誇れるものがあった。それこそ「生きている意味」というのを明確に持っていた。
それはヴァイオリンだった。元々はテレビに映っていたヴァイオリニストに興味を抱いた私が、母にヴァイオリンをやりたいとねだったことがきっかけだったらしい。しかし、好きこそものの上手なれとはよく言ったもので、私はみるみるその頭角を現したのだ。
母も家計が苦しい中、金はかかるのに金にならない音楽なんぞをよく私にほどこしてくれたなと感じたこともある。しかしその反面、楽しそうにヴァイオリンを弾く私を眺める母の姿を見ると、もっともっと上手くなりたいと思ったものだった。全国レベルのコンクールでも賞を取ったこともあり、そのたびに母はよく褒めてくれた。
ここで私事なのだが、実は私には父がいない。父は私が3歳の頃に事故死したため、それ以来母は女手一つで私を育ててくれたのだ。父の顔はよく覚えていないし正直そこまでの思い入れもない。そのせいか、母親にはずっとべったりだった気がする。今考えると私たちは共依存の関係だったのだなと率直に思う。
そして、12年前。私はとある音大に次席で入った。当時私は音楽家として飯を食っていくのだと当然のように思っていた。しかし、神様は残酷である。不幸なことに私は交通事故に遭い、その後遺症で左手に麻痺が残ってしまったのだ。一時期は懸命にリハビリに励んだりもしたのだが、結局以前のように意のままに指を動かすことができなくなった。
悔しさがなかったかと言えば嘘になる。しかし、私以上に悲しんでいる母の様子を見ると悲しんでもいられないな、と思ってしまったのだ。それに私が怪我をしたことで、その時一緒にいた後輩の命を救うことができたのだ。彼女の命と私の左手が同価値なのかどうかは分からないが、とにかく私は自身の境遇を妙に納得してしまったのだ。
結局その後は音大を中退。母に無理を言って普通の文系の大学に改めて通わせてもらった。そして、無難に勉強し、無難に就活をした。ただ、その時くらいからだろうか。私は常に心のどこかにぽっかりと大きな穴が開いた感覚を持ったまま、その日その日を生き続けていたのだ。
しかし何の所以か分からないが、大学卒業後に日本人なら誰もが知る一流企業への就職が決まったのだ。ひょっとすると、神様というのはそこまで残酷ではないのかもしれないとその時は思った。
相変わらず母は私以上に私の就職を喜んでいるようだった。私としても喜んでくれる母を見るのは悪い気はしなかった。しかし、長年のハードワークで心身ともに疲れてしまったのか晩年は昔ほど活動的ではなくなってしまった。
そして今から1年ほど前。母はクモ膜下出血を患ってしまった。
おそらく原因は長年のストレスだろうと私は勝手に思っていた。医師による懸命な治療が施されたものの後遺症によって母の衰弱はその勢いを増し、介護の甲斐もむなしく終ぞ半年前にこの世を去ったのだ。
母の死は悲しくはあったが、それと同時にこんなに早く死んでしまうなんて人間とはあっけないものだな、と冷静な感情もそこにはあった。もっと言えば、母の介護から解放されたと安堵する心すら抱いていたのだ。ただ、少し残念だったのは孫の顔を見せてあげられなかったことだろうか。
私はそのような感情が胸の中に湧き起こるたびに、こんなにも薄情な人間だったのかと自分自身が嫌になった。そして、私が「生きる意味とは何なのだろう」と常日頃考えるようになったのも丁度この頃だったと記憶している。母の死後少しの間考えてはみたものの、そのことについては結局答えが出なかった。そもそも生きている意味なんてものはないのかもしれないし、死んでみないと分からないものなのかもしれない。
そんなとき、ふと昔どこかのアーティストが
『生きていることがつらいならいっそ小さく死ねばいい。恋人と親は悲しむが三日たてば元通り』
と歌っていたことを思い出した。いっそ小さく死んでみるかと思ってはみるものの、私の死を三日も悲しむ人などいないだろうし、そもそも恋人や親などというものは私にはいないのだ。
そう思うと何だかむなしくなってしまった。スマホでも自殺関連のものを調べることが多くなり、いよいよ死に魅了されていた頃。私は「自殺掲示板」というもので一人の女性に出会った。女性と言っても性別はもちろん不詳だ。ただ、その人の文章の雰囲気から女性なのだろうと感じた程度のものだ。彼女は自身を「K」と名乗った。最初は本名の頭文字か何かかと思ったが、少しずつやり取りをしていく中でKの趣味が読書と分かった。同じ趣味を持つ者として勝手に親近感を抱いていた。
「なるほど、夏目漱石か・・・」
Kの最期を知る自殺願望者である彼女が、自らを「K」と称するのはなかなか粋だなと感じた。
波長が合うというか、不思議な縁で結ばれているな、と私は感じていた。会話が弾み、文章に加えて写真のやり取りなども何度かした。私は近所の目黒川の写真なんかを送った。桜の時期にはまだ早かったので、昨年撮った綺麗な桜並木の写真を送ったのだ。彼女は、都内の大学の出身らしく目黒川の桜にはたいそう喜んでいたようだった。一方、彼女からは海や港の写真が送られてきた。詳しい場所はよく分からなかったが三陸海岸のどこからしかった。
しかし、二週間ほど前。ついにKからの連絡が途絶えた。直感的に私はKが死んだのだな、と思った。
寂しさは少しあったが、そもそも私たちは「死ぬ」という共通の目的を持った悪友のようなものだったのだ。過度に悲しむというのも野暮な気がした。
そして、二週間ほど遅ればせながら私は自宅の自室で首に縄をかけようとしていた。なぜ首吊りで死のうかと思ったのかについての理由は特にない。なんとなく自殺と言えば首吊りだろうと思っただけなのだ。
それと、自殺に際して有給を三日とった。
三日にした理由は明日出社しなくても会社からは連絡が来ず、死後も少しの間だけ静かに過ごせるだろうという気持ちがあったのと、例の歌の歌詞が三日たてば元通りと言っていたからだ。
そしていよいよ縄を首にかけ、あとは椅子から足を外すだけとなったその時。
家のインターホンが鳴った。
私は出ようか出ないか一瞬迷った。
しかし、またこの後何度も来られてもいやだなとか、後でここから死体が出たということを扉の向こうの人が知って、感じる必要のない罪悪感に苛まれるのはかわいそうだなとか。まぁ、死んだら私は何も感じないんだし、どうでもいいことではあったのだが。とにかく、今死ぬという時に雑念は極力振り払っておきたかった。
「はい・・・どちら様」
私はゆっくりと扉を開けた。そこには若い男性の郵便局員が立っていた。
「書留郵便です。サインをお願いします」
「書留?」
私は思わず聞き返した。書留郵便なんてものを私に送り付けてくるような友人に心当たりがなかったからだ。
送り主は岩手県に住む女性だった。こんな人、知り合いにいたかなと思った。正直、全く身に覚えがない。
「ありがとうございました~」
郵便局員ははつらつとした挨拶をすると家を出て行った。
人が死のうとしているときに茶々を入れられた気分だったが、差出人が誰かも分からない書留郵便に私は少し興味を抱いていた。死ぬのは中身を見てからでもいいだろう。そう思った私は、封筒を開いた。中には一枚の便箋と仙台行の新幹線の乗車券が入っていた。何で乗車券なんだ・・・と不思議に思いつつもとりあえず手紙の内容を読んだ。
そこには「自殺掲示板」で私が使っていたハンドルネームが書いてあった。そして内容は
「あやめ草 足に結ん 草鞋の緒」
私に会いに来てください、薬師堂で待っています。
という文があるのみだった。そして、差出人の名前には「Kより」とだけ書かれていた。私は、Kが生きていたのだと思い嬉しい気持ちになった。それはお互い自殺を志願する悪友として、とても不思議な感覚だった。
そして、この「あやめ草 足に結ん 草鞋の緒」という俳句はあの有名な松尾芭蕉が仙台を去る時に別れを忍んで詠んだ句だ。さしずめ、おくのほそ道にちなんだ彼女からの挑戦状と言ったところだろうか。
私は少し楽しくなっている自分に気がついた。この三日間をKの道楽にささげてもいいかなと思ったのだ。死ぬのはそれからでも遅くはなかった。
それから私は、手短に旅行の準備をすると家を飛び出した。最寄りの中目黒駅で地下鉄日比谷線に乗り、霞が関で丸ノ内線に乗り換え東京駅へと向かった。そして、NewDaysで軽食を買うと12:00ちょうどのやまびこ号に飛び乗った。
「待ち合わせの場所は陸奥国分寺の薬師堂か・・・」
窓際の席で窓にもたれかかると私は手紙に向かってそうつぶやいた。