神様、
神様って、僕の心を一番大きく占めているもののことだと思う。
神様って、きっと僕のことを救ってくれるはずだよね。
神様って、なんなんだろう。
「あれ、佐々木?」
金曜日の午後十時。見知らぬ町のコンビニで雨宿りをしていたら声をかけられた。
「……あ、お久しぶりです。」
持っていた雑誌を棚に戻して軽く会釈した。声をかけてきたのはバイト先の先輩だった。
「びしょ濡れだけど、雨宿りしてるの?」
「そうです。先輩もそうですか?」
「いや、俺は牛乳切らしてたから。」
先輩は左手の牛乳パックを少し持ち上げた。
「家から近いから買いに来たんだ。」
言われてみると、確かにコートの下からジャージのようなズボンがのぞいている。先輩の少し長めの茶色の髪はしっとり濡れていて、先輩も多少は雨に濡れたようだった。
「佐々木の家はここから近いの?」
「あぁ……、まあまあですかね。多分歩いて二時間ぐらいかと。」
「ふうん。雨が止むまでいるつもり?」
「はい。実は財布を忘れちゃって、傘も買えなくて。早く雨が止むといいんですが。」
苦笑いすると、先輩は入り口近くに大量に置いてあるビニル傘に目をやった。
「そうだね。傘を買ってあげたいところだけど、生憎持ち合わせじゃ足りない。」
“590円+税”と赤いマーカーで書かれたポップが説明するように、ビニル傘はジャンプ機能やらなんやらで決して安価なものではなかった。
「あ、いえ、全然大丈夫なので気にしないでください。」
「でも夜だし、雨宿りでも気をつけなよ。」
「はい。ありがとうございます。」
これ買って帰るね、とレジに向かう先輩を見送って読みかけの雑誌に手を伸ばした。
相変わらず外の雨は激しい。叩きつけるようではないが、安定した勢いで降り続けていることが分かるその雨音に、家に帰れるのはいつになるのだろうかと不安になった。集中しようにも気が散って、雑誌の内容が全く入ってこない。しばらくするとビニル袋が擦れる音がして、雑誌から顔を上げると真っ暗な窓ガラスに先輩がはっきりと映っていた。
「あ、おやすみなさい。」
真隣に立っていたから、敢えて先輩の方へ向かずに映っているガラス越しに軽く会釈した。先輩は少し躊躇うようにそこに立っていたが、やがて口を開いた。
「佐々木さ、やっぱここで一夜明かすことになったら危ないし、雨が止むまでうちにいなよ。」
「……え。」
思わない提案に、思わず振り返った。
「いいんですか。」
「いいよ。ここで佐々木を置いていくと、家に帰っても雨が止むまで気が気でなくなっちゃうからね。」
先輩はそう言って笑うと、コンビニから見えるアパートを指さした。傘がないからあそこまでダッシュだよ、と告げる先輩は、その時は神様のように見えた。
「……お先にすみません。」
先輩の好意に甘えて家に上がって、勧められるがままにシャワーまで借りてしまった。
冷たい体にかかる熱めのシャワーは今一番欲しかったぬくもりに似ていて、不謹慎だけどそれが少し嬉しかった。“雨が止むまで”という大義名分の下に先輩の家に居座れる奇妙な心地良さのようなものさえ感じ始めている始末だ。僕は先輩に傘を借りてそのまま家に帰る、という単純かつ常識的な選択肢に気がつかないふりをし続けていた。
「じゃあすぐに髪乾かして、濡れてる服とか全部ドライヤーかけなよ。風邪引いちゃ意味がないから。」
そう言うと先輩はスマホから目を離して僕を振り返った。 部屋は間接照明でオレンジ色に染まっている。先輩はソファーの上で寝ころんでいた。
「ね?」
「はい。ありがとうございます。」
僕は言われた通り服をドライヤーで乾かして、先輩がシャワーを浴びるというからそれが終わるとリビングのソファーに腰掛けてぼんやりとテレビを見ていた。
「佐々木、ホットミルクいる?」
そう聞きながら先輩は既に二つ目のマグカップに牛乳を注いでいる。
「あ、じゃあ頂きます。」
「はーい。」
先輩は二つのマグカップを電子レンジに入れると時間設定のダイアルをくるくると回した。スタートボタンを押すと、先輩はリビングの机の上に広がっていた雑誌類を一箇所にまとめて僕に椅子に座るよう促した。思ったよりも長い間チンされたホットミルクは、くつくつと音を立てていた。
「はい。ちょっとやり過ぎた。熱いの気をつけてよ。」
「いえ、どうも。」
立ち昇る湯気を吸い込みながらマグカップに口をつけた。僕に渡されたマグカップは藍色で、先輩のは桃色だった。どちらも牛乳の柔らかい白さが映える良い色だと思った。
「どう?」
「美味しいです。なんかほっとしますね。」
「それは良かった。ところで、今十二時前だけど、雨が止んだら帰るつもり?」
「はい。」
僕は先輩の言葉の意図が汲めずに、頷いた。
「それが深夜でも?」
「……あ。」
流石に深夜に家を抜け出すのは迷惑だ。僕は楽観的で自分勝手な考えを持っていたことが恥ずかしくなった。
「すいません、先輩の好意に調子乗ってたみたいです。今から帰るので、傘を貸して下さい。必ず返しに伺うので。」
「……それがね、実はこの家には傘がないんだ。だからさっきも傘さしてなかったろ。この間誰かに貸してから返ってこないんだよ。」
「そうなんですか。……あ、でも大丈夫です。今すぐ帰ります。本当にお世話になりました。ありがとうございます。このお礼も後日しますので、」
焦って早口になった。立ち上がる僕を先輩が手で制した。
「そうじゃなくて、佐々木。今日は泊まっていったら?」
「え……。」
二度目の思いがけない提案に、僕は固まった。
「明日に不都合がないなら、泊まっていきなよ。」
「いや流石にそれは、迷惑じゃ……。」
「俺は別にいいよ。寝袋が一つあるから、それ使って。」
「寝袋……。」
寝袋なら、先輩にも迷惑をあまりかけなくてもいいかもしれない。また好意に甘えて泊まってしまおうかという緩い考えが僕の中に広がった。
「佐々木が嫌なら、俺が寝袋で寝るよ。」
「あ、いえ、そういう意味ではないです。本当に泊まってっていいんですか。」
「いいよ。」
僕は少し考えて、その場で深くお辞儀をした。
「……では、お世話になります。」
「いいってば、顔あげなよ。」
困ったそぶりで先輩は僕を座らせた。いつもより優しい先輩が、僕はまた神様みたいに思えた。
「それよりさ。」
「はい。」
「話、聞いてあげるよ。」
「話?……なんのことですか?」
先輩は薄暗い照明の中で優しい笑みを浮かべた。
「きっとあのコンビニにいたのは偶然じゃないんだろ。聞いてほしい話があるなら、俺が聞くよ。」
「……。」
頷きながら大粒の涙を零した僕に先輩は慌てた。
「え。ほら、大丈夫?」
「全然、大丈夫です。ちょっと先輩の言葉に感動しちゃって。」
……やっぱり先輩は、本当に僕の神様なんじゃないかな。こんなに優しい人を僕は知らない。すっかり参ってしまっていた僕は先輩のくれた温かい言葉に強く惹かれた。そして優しくて心地いい先輩の眼差しに、まるで神様に縋るように気を許してしまったのだった。