青空の写真
今日は、よく冷える。
少し前まで、日中は日差しが暖かくて、たまに吹く風に体を縮こませるくらいだった。
雲一つない青空は、窓を突き抜けて、この病室に冷気を運ぶ。
明かりは点いているはずなのに、心なしか少し暗い。
唯一の家族である妹がこのベッドで横になり、どれだけの年月が過ぎただろうか。
人工呼吸器から伸びるチューブは、鼻から喉へ通じており、彼女をこの世に繋ぎ止めていた。
「う…ぅ…」
一日一回、呻き声を漏らしながら涙を流すので、僕はそれをハンカチで拭ってやる。
今日は、その手が震えた。
妹は僕とは対照的で、とても活発的な性格だった。
愛用のカメラを持っては、とりあえずどこにでも行ってみたいと言う子だった。
親代わりの兄は、運転手としてそれに同行するのだ。
父も母もいないのに、いつも明るく楽しそうだった。
森の木々、賑やかなビーチ、山から見る雲海、川で転びかける僕、いろんな写真をアルバムに挟んで、何冊も本棚に並べていた。
そういえば、冬の天気の良い日に、一度だけ不思議な写真を撮っていた。
冬空は見上げると雲が少なく、透き通った青空が広がっている。
彼女はそれを見上げて、シャッターを切るのだ。
出来上がった写真は、当然ながらただ青いだけ。
言われなければ、それが青空かもわからないようなものだった。
そして、それはアルバムには入らず、二人だけの家族写真と一緒に財布にしまわれた。
「もっと周りの風景も入れたほうがよかったんじゃない?」
そう言ってみたが、妹は首を横に振った。
「これでいいの」と、満足げに笑っていた。
僕は、病院の裏庭のベンチに腰掛けていた。
冬の冷気が肌を刺すようだけど、合間を縫うように差し込む日差しは暖かく、時間の流れがゆっくりと流れているようだった。
深く吐いた息は白く、時間をかけて空へと消えていった。
「風邪引いちゃうよ」
コーヒーの香りと共に、落ち着いた低い声がした。
白衣の上からダウンを羽織った男性は、湯気の立つ紙コップを二つ持っていて、一つを僕に差し出した。
「ありがとうございます」
それを両手で受け取ると、良い香りがして、温かくて、胸が詰まった。
妹の担当医である先生は、隣に腰掛け、コーヒーを口に含んだ。
白い息が広がった。
「こういう時は、温かいものを飲まないと」
微笑む先生に続いて、僕もコーヒーに口をつけるが、まだ熱くて舌の先がひりひりした。
悴む手を温めながら、僕は湯気を眺めた。
その向こうに、点滴を押しながら今にも倒れそうな足取りで歩くお年寄りが見えた。
看護師が側にいて、背中を優しく支えながら何か話しているようだが、微笑む年寄りは頷きもせず、口を噤んだまま足元を見ていた。
沈黙の中、落ち葉と青空とコーヒーを楽しんでいた先生の白い息が、やがてため息となった。
「本当に、大丈夫かい?」
ゆっくりと放たれた言葉が、僕の手元にすとんと落ちてきた。
小さく折られた写真が、僕の右手に握られていた。
僕は一言だけ、「はい」と頷いた。
会話を区切るように一度俯いてから、先生は口を開いた。
「一つだけ、約束してほしい」
木枯しが止み、落ち葉が静まる。
一瞬、日に雲が重なり、薄暗くなる。
僕は、手に持つコーヒーにゆっくりと口をつけた。
もうすっかり冷めていたが、時間をかけてそれを喉に流し込んだ。
空になった紙コップの底に、溶け切れなかったコーヒーの粉が残っていたから、何となく見つめていた。
「妹さんと一緒にこれからも生きていく。そう約束してほしい」
口の中の苦味が消えなくて、上顎に舌を擦り付けていた僕に、先生は力強く言った。
深く鼻から息を吸い込んだが、上手く吐き出せず、呼吸が止まった。
素直な言葉を出してはいけないと、辛うじて揺れるように小さく頷いてみせた。
先生は、そんな僕の背中を優しくさすった。
手から震えが伝わってきて、熱を帯び、耳鳴りがした。
車椅子を押しながら、帰路を歩く。
病院から家まで近いので、妹と歩いて帰りたいという僕の要望は叶った。
大きな機材は、先生が後ほど車で運ぶとのことだ。
もう日は暮れ、冷え込み、足先が悴んでいた。
僕の手袋を妹にはめてやったので、指先もじんわりと痛むが、あまり感覚がなかった。
茜色の空は、僕らの今日に、終わりを告げているようだった。
人工呼吸器の稼働音だけが、僕らを生かしている。
僕は立ち止まり、妹のカメラを通して、夕空を見上げた。
シャッターは切らずに、そのままカメラを下ろした。
それに「鳥」と名付けた。
カラスの鳴き声が聞こえてきたからだ。
明日には、きっと青空を羽ばたいているだろう。
僕は、妹にカメラを返した。