翌日
僕とひかりちゃんが兄妹になれそうになくなったという話は、瞬く間に知り合いに広がっていった。
「ねえ、ひかり大丈夫なの? 昨日は終始元気なかったって聞いてるけど」
週明けの学校で、僕は早速凛子さんに事情を聞かれていた。
「今朝はそれなりに普通っぽかったよ。僕が部屋に行かなくても、自分一人で起きてきてたし」
「……あなた、いつもはひかりのことを起こしに行ってあげてるの?」
「の、ノーコメントで……」
一瞬凛子さんが黒いオーラを纏ったような気がしたけど、彼女はすぐに首を振った。
「手、見せて」
そして、彼女は唐突に僕の手を取る。
凛子さんが見ているのは、真っ白な包帯で巻かれた僕の指だ。
「大丈夫なの? 結構派手に切ったって聞いてるけど」
「うん、大丈夫だよ。切った範囲は広いけど、傷自体は深くなかったからね。日常生活に問題はないよ」
「何かあったら、遠慮なく頼ってよね。わ、私だって簡単な料理くらい出来るんだから」
凛子さんが頼もしいことを僕に言う。
でも、僕は彼女に笑って答えた。
「ありがとう。でもその気持ちだけで嬉しいよ。昨日の夕飯も結局僕が作ったし、少々手を切ってもなんとかなるものだよ」
「……怪我をした矢先に、あなた自身が作ったの?」
「簡単なものだけどね。いざというときのために色々冷凍してあるし、常備菜も作ってたし、やっぱり備えあれば憂いなしだね」
「そ、そう……」
そこで凛子さんは、僕から目をそらして下を向いた。
どうしたのかなと思っていると、隣から別の人の手が伸びてきて、僕の手が痛くないように凛子さんを引き離した。
「残念だったね、あかりん。ダーリンに手料理食べてもらうチャンスなくなっちゃったね」
「べ、別に私はそんな下心があったわけじゃ……」
手を伸ばしてきたのは凛子さんの友人、愛さんだ。
彼女はそのまま凛子さんを抱え込むようにして顔を寄せて、彼女たちのいつものやり取り――内緒話を始める。
「あと、さすがにやりすぎじゃない? 他の人がいる前で、堂々と手を取って話してるとかさ」
「あ、あなただって最近、誰にでも彼のことをダーリンとか言ってるじゃない」
「一応使い分けてるってば。冗談のわかる相手か、あかりんのことを応援してくれる人だけにしか言ってないよ?」
「でも、ダーリンって言いながら愛が空と仲良くしてるのも見られてるし、愛もその気あるんじゃないって話にもならない?」
「…………」
「ちょっと、目をそらさないで」
二人の内緒話は長く続かず、急に愛さんは凛子さんの体を離すと、僕に向き直る。
「でもダーリン、結構込み入った話してるけど、私も聞いていいの?」
「ああうん、愛さんなら平気だよ。……それより後ろの凛子さんがすごい顔で愛さんを見てるんだけど、大丈夫なの?」
「大丈夫。私と凛子は愛ちゃんあかりんと呼びあう仲だし――ぐえ!」
発言の途中で、凛子さんが愛さんを羽交い締めにする。
哀れ愛さんは、女の子らしからぬ悲鳴を上げた。
「でも、実際ひかりは大丈夫かしらね。ひかりってばちょっとお兄ちゃんっ子過ぎるところがあったから……」
「ひかりちゃんは前向きな女の子だと思うから、大丈夫だと思うよ。それに、僕たちが引き裂かれるってわけじゃないからね。今までどおりに行かないこともあるかもしれないけど、本質はあまり変わらないんじゃないかな」
僕は凛子さんの発言に楽観的な自分の意見を言う。
そうしたら凛子さんと、そして解放された愛さんも微妙そうな顔でこちらを見つめてくる。
「……僕、無神経すぎるかな? もっとひかりちゃんのことを心配したほうがいい?」
彼女たちの視線を受け、僕はすぐにフォローを入れた。
それを聞いた凛子さんは苦笑しながら、僕の心配を始めてくれたんだ。
「ひかりだけじゃなくて、あなたも一応運命に翻弄された側でしょ?」
「その表現は大げさかもしれないけど、まあそうだね」
「なら、自分の心配もしなさいよ。指切っちゃったの、その話の直後だったんでしょ?」
「うん……」
僕が視線を自分の手に落とすと、再び凛子さんがその手を取る。
「大変かもしれないけど、私はあなたの味方だからね」
それは実に頼もしい言葉だった。
凛子さんを頼りにクラスメイトが集まってくるのも、納得だよね。
「何かあったらすぐに言ってきてよね。遠慮されるほうがイヤなんだからね」
そう言って笑う凛子さん。
僕はこの人の隣の席に座ることが出来て、本当によかったと思わされた。
しかし、僕がちょっと感動に浸っていると、再び隣からスッと手が伸びてくる。
「はいはーい。私を忘れていい感じにならないでくださーい」
そう言いながら、愛さんが僕たちの間に割り込んでくる。
再びムッとした表情を向ける凛子さん。
だけど愛さんは、その凛子さんに小さな声で耳打ちをする。
「だから教室はマズイでしょ。ダーリン悪目立ちし過ぎちゃうよ」
「むむ……。またお昼休みに連れ出すしかないのかな」
「また部長に掛け合って、部室使わせてもらいますかね」
愛さんは何かを言って凛子さんを説得したようだった。
そしてその後、僕に話しかけてくる。
「でも実際問題として、ダーリンのお母さんは外国に行っちゃうんだよね? じゃあダーリンたちは、これからどうなっちゃうの? たしか、日本には残れるんだよね?」
愛さんも凛子さんと同じく、僕を心配してくれているようだった。
だから僕は彼女たちを安心させるように、出来るだけ頑張って微笑む。
「僕のお母さんはまだどうなるかはわからないけど、実は僕たちのことはもう大まかなところで話がついているんだ」
「そうなの? どうなるの?」
愛さんだけでなく、凛子さんも興味深そうにこちらを見る。
昨日遅くに話しがまとまったから、この話を彼女らにするのは初めてなんだよね。
「僕たちは未成年だから、保護者がいなくなっちゃうと色々と困っちゃうよね?」
「そうだね」
「だからひかりちゃんの友達の女の子の家がね、僕のお母さんが海外に行っちゃったら、ホームステイのように僕たちの保護者役を引き受けてもいいって言い出してくれたんだ」
「おー。なるほどー」
真っ先にその案を出してきてくれたのは、メグさんのお手伝いさんのアイリさんだった。
少し後で同じような提案を玖音さんの家からも受けたけど、アイリさんの提案のほうが段違いにすごかった。
保護者役としてメイドさんを一人担当に付けて、僕たちが今住んでいる部屋をお母さんから借り受ける――。
アイリさんはそんなことを提案してきてくれたんだよね。
最悪今の部屋が使えないことになっても、同じマンションに別の部屋を用意してくれるという破格の提案。
だから僕とひかりちゃんは、これからもほとんど変わらない生活を送れるっぽいんだよね。
「じゃあ結局、兄妹になれなくなったってことと、ダーリンのお母さんと会いづらくなるってだけが今回の変化なの?」
「まあ、今のところはね。細かいところはまだ何か変わるかもしれないけど、大きく変わることはそれくらいじゃないかな」
凛子さんと愛さんは僕の説明を聞いて、一先ずは胸を撫で下ろしたようだった。
しかし、すべての不安が解消されたわけではなかったみたいで、凛子さんはもう一度僕を見る。
「それで、あなたはこれからの生活に目処がついて、少しは気が楽になったの?」
「そうだね。全然楽になったよ。やっぱり将来が見通せない状況にいるのは、色々と大変だからね」
今も凛子さんたちにしてもらったけど、僕は昨日から色々な人に心配してもらって、手を差し伸べてもらっている。
それはとても嬉しいことで、改めて自分が幸せ者だなと実感できたんだよね。
「今も凛子さんに味方だって言ってもらえたし、僕は本当にみんなに感謝してるんだ。だからもう僕は大丈夫だよ。ありがとう、凛子さん、愛さん」
僕がそう言うと、愛さんがそれに反応する。
「わ、私だってダーリンの味方だからね。なんならウチに下宿してもらってもいいし。ダーリンが厨房役で、ひかりさんがウェイトレス。こりゃ商売繁盛間違いなしですよ」
「あはは、ありがとう」
愛さんが冗談めかしてそう言って、僕は笑う。
すると何故か凛子さんが何度目かのムッとした表情を見せて、愛さんに詰め寄る。
「その場合、愛はどうするのよ」
「私はオーナーとして左団扇……。ああウソウソ。ちゃんとあかりんもダーリンと一緒の厨房で雇ってあげるから」
「それはちょっといいかも……。って、そうじゃないでしょ!」
「あはは」
二人のじゃれ合いを見て、僕はもう一度笑った。
昨日は指を切る失態をしてしまった僕だけど、本当にもう大丈夫。気持ちの整理はついた。
ふと、愛さんがそんな僕を見て、なんだかニヤリといたずらっぽく笑う。
「ねえダーリン、やっぱりあれほどの美少女と兄妹になれなくて、残念だった?」
不意を突かれた僕はちょっとビックリしたけど、すぐに笑顔を返すと彼女に言う。
「残念だったよ」
それは、僕が一晩考えて出した答えだった。
僕とひかりちゃんの仲は変わらないと思うけど、それでもやはり兄妹という絆がなくなったのは事実だ。
だから、残念。肩書一つだけかもしれないけど、僕とひかりちゃんの繋がりは薄くなっちゃったんだから。
でも、二度言うことになるけど、僕はもう気持ちの整理はついている。
兄妹になるかもしれないから、妹のように可愛がってあげてねということで始まったひかりちゃんとの生活。
なら僕は、これからも彼女を妹として笑顔にさせてあげられるように頑張るだけだと考え直したんだ。
「…………」
しかし、愛さんはまたも僕の返事が変だったのか、微妙そうな顔で僕を見つめてきていた。
そんな愛さんに、凛子さんは手を伸ばしてポンと肩に手を置く。
「残念だったわね、愛。空にその手の発言は効かないみたいよ」
「マジレス返ってきたわー。天才キャラやり辛いわー」
「この場合、天才キャラ関係あるのかしらね?」
恒例の内緒話をした後、凛子さんは改めて僕を見た。
「でも、あなたは本当にふっ切れてそうね」
「うん。もう昨日のような失敗はしないよ」
僕は宣誓をするように、凛子さんに言った。
彼女は苦笑すると、小さく息を吐く。
そして凛子さんは、遠い目をしてあらぬ方向を向いた。
「となると、やっぱり心配なのはひかりのほうね……」
僕は首を傾げる。
「ひかりちゃんは今回のことでメソメソするような女の子じゃないと思うけど。……もちろん僕も注意しておくけど」
二人離れ離れに引き裂かれるならともかく、これからも僕とひかりちゃんは一緒に暮らしていけそうなんだ。
そんな状態で、ひかりちゃんがふさぎ込むような姿は想像ができない。
「……私はまだ付き合いが浅いからハッキリとは言えないけど、女ってそういう繋がりがなくなるのは嫌なものなのよ」
「うーん……」
凛子さんにそう言われ、僕は考え込む。
僕だって偉そうに言えるほど、ひかりちゃんと長く一緒にいるわけじゃない。
だからひかりちゃんがどういう反応を見せるのか、未知数な部分もある。
それでも僕は、ひかりちゃんが周囲を遮断して殻にこもる姿は想像できなかったけど……。
「まあ、しばらくはひかりちゃんのことも注意深く見守っていくことにするよ」
僕はそう答えた。
凛子さんはまだ納得できない様子だったけど、僕と同じようにこれ以上の話し合いは無駄だと考えたようだった。
「……そうね。私の思いすごしかもしれないしね」
そこで凛子さんは三度僕の手を取り、ニッと笑う。
「ひかりのことをよろしくね、お兄ちゃん。そして、何度も言うようだけど、私はあなたの味方だからね」
彼女は僕の手を強く握りしめると、そうエールを送ってくれた。
今度は愛さんもそれに手を添えて、言葉を続けてくれる。
「私も、ダーリンの味方だから」
「ありがとう、凛子さん、愛さん」
僕は心から彼女らに感謝しながら、お礼を言った。
この時僕は、ひかりちゃんがちょっと凹んでいても、こんなに素晴らしい仲間がいるから大丈夫だろうと感じていたんだ。
だけど凛子さんが言っていたことは的を射ていたらしく、学校を終えて帰宅した僕は、超真剣な顔付きのひかりちゃんに新たな絆を求められることとなる。
「お兄ちゃん、ひかりと結婚してください!」
僕は頭を抱えた。
予想通りメソメソすることはなかったひかりちゃん。
だけど、彼女は前向きすぎることがあるということを僕は忘れちゃってたみたい。




