一本の電話
ゆるふわ義妹はハッピーエンドです。
ひかりちゃんの人気のおかげだと思うけど、僕はありがたいことに週末に予定が入ることが多かった。
だけど珍しくその日は、みんな他の用事があって僕はひかりちゃんと二人きりの週末になった。
ひかりちゃんは朝が弱い。
起きてしまえば元気な彼女に戻るんだけど、起きるまでが大変なんだ。
しかも、最近僕が起こしてあげるようになって、ますます自分一人で起きてこなくなっちゃったんだよね。
これだけは、甘やかしすぎちゃったって反省すべきなのかな。
「おはよう、お兄ちゃん~……」
「おはよう、ひかりちゃん」
学校に行くにはずいぶんと遅い時間に、ひかりちゃんは起き出してきた。
キッチンで軽く片付けをしていた僕は、そのままひかりちゃんに抱きつかれてしまう。
「えへ~……」
寝起きのひかりちゃんは、いつもにも増して甘えん坊だ。
僕は内心ではとてもドキドキしつつも、そのまま彼女に話しかける。
「朝ごはん食べる? それとも朝は野菜ジュースだけにしてお昼に食べる?」
ずいぶんと乱れた生活の休日になってるけど、今のところ彼女は学校で眠くなるようなことにはなってないみたい。
それなら別に今のところは、とやかく言う必要はないよね。
「ごめんねお兄ちゃん、ひかりが寝坊したから、一人で食べちゃった?」
「軽くつまむ程度にはね。でもひかりちゃんに合わせるつもりだったし、ほとんど食べてないよ」
僕がそう言うと、彼女はまた無言で僕にしがみついてくる。
いい加減恥ずかしすぎるし、そろそろ彼女も目が覚めてきた感じなので、さり気なく両肩を掴んで押し返した。
「それで、どうしよう? 今から食べる? お昼にする?」
「む~」
僕から引き離されたことで、妹さんはご機嫌斜めだ。
だけど寝坊した負い目があるのか、それ以上は何も言ってこなかった。
代わりに彼女はニコリと笑うと、元気に言う。
「お兄ちゃんが決めて! ひかり、お兄ちゃんが食べたい時にお兄ちゃんと一緒に食べる~!」
何となくそう言われるのを予想していた僕は、すぐに返事をする。
「じゃあ、お昼に食べようか。何か美味しいものを作るよ」
「はーい!」
ひかりちゃんは料理に関しては何のリクエストもしてこない。
ほぼ全面的に僕にお任せ状態だ。
だから僕はその時、なんとなく気が向いたので彼女に問いかけてみる。
「ちなみに、何か食べたいものはある?」
「おにぎり!」
僕はズッコケそうになりつつ、彼女に返事をする。
「……外に食べに行きたいの?」
「え、なんで? ひかり、お家でお兄ちゃんのおにぎりが食べたい~」
「……頑張って作るね」
「やった~!」
日曜日の(家の中で食べる)昼食に、おにぎりを食べたいと言い出すひかりちゃん。
やっぱり彼女は僕にとって、まだまだ未知なる女の子だった。
ひかりちゃんはそれから自室に引きこもり、色々と片付けをしていたようだった。
今日はこのまま別々に過ごすのかなと思っていたけど、その考えはすぐに間違いだったと気付かされる。
お昼にミニおにぎりを食べた後は、ひかりちゃんは僕にベッタリとくっついてきて離れなくなってしまった。
部屋までついてきて、僕の隣に座り込む。
「お兄ちゃ~ん」
信頼しきった様子で、僕に体を預けてくるひかりちゃん。
最近やっと顔が赤くならなくなってきたとはいえ、やはり気恥ずかしい行為だった。
「今日はやけに甘えん坊さんだね」
照れ隠しに、僕はそうひかりちゃんに話しかける。
すると彼女は、ノータイムで返事を返してくる。
「だって好きなんだもん~」
好意百パーセントのその発言は、僕の頭を一瞬で沸騰させた。
僕は何も考えられなくなって、真っ赤になって正面を向く。
「今日はゲームしないの~?」
ひかりちゃんは出会った時から、僕が赤くなってもそれに触れてくることはない。
今もすぐに、別の話題を切り出してきてくれた。
「そ、そうだね。じゃあ始めようか」
赤くなった僕への助け舟なのか、あるいはゲームをしている僕を見たいだけなのか。
はてさてその両方なのか。
とにかく僕はひかりちゃんの意見に従い、ゲーム専用のコントローラーを握る。
そして、昼前のメニューと同じように、僕は再び彼女に問いかけた。
「ちなみに、何かやってほしいゲームはある?」
返ってきた返事は、彼女にしてみれば珍しい小悪魔的な返事だった。
「当ててみて~?」
ニコニコと笑いながら、僕に言うひかりちゃん。
僕は「おや?」と思いながら、ゲームのリストを開く。
膨大な数のゲームを所持している僕は、その中から一つだけを選べと言われても難しい。
でもきっと、ひかりちゃんなら外れても不機嫌になることはないだろうと思って、気負いせずに一つを選ぶ。
「わ、お兄ちゃんすごい。ひかりが考えてたゲームをズバリ選んでくれたんだね~」
兄としての経験が積み重なってきたのか、僕は一発でひかりちゃんの好むゲームを引き当てることが出来た。
それは彼女が人生で初めて遊んだビデオゲーム。
そしてそれは、僕が彼女の前で初めて遊んでみせたビデオゲームでもある。
甘えモードのひかりちゃんなら、思い入れの強いゲームを喜ぶかなって思って選んだんだよね。
「今日はどこ行くの?」
「砂漠でガイアウィルムでも倒そうかなって」
「おー? ……どこ、そこ?」
「タマちゃんが暑い暑いって悲鳴あげてた場所」
「あ! お水いっぱい飲んだあそこなんだね!」
そのゲームは、ひかりちゃんが大好きなペットが登場するゲーム。
何度も何度も遊んできたゲームだけど、不思議とまた遊びたくなるゲームだ。
だけど、それも当然のことかもしれない。
ひかりちゃんも大好きなゲームだし、玖音さんとの交友関係のきっかけともなったゲームだし、凛子さんと珍しい場所で鉢合わせすることになったのもこのゲームが関係している。
「ひかり、ラゼルも好きだけど、このゲームも好き~。まだ帰ってきたくなる思い出の場所って感じがする~」
ちょうどひかりちゃんも僕と同じようなことを考えていたみたいなので、僕はゲームをスタートさせつつ彼女に答える。
「この元々とても良く出来たゲームだったけど、僕たちの関係の潤滑油の役目をしてくれたゲームになったよね。だから余計に思い入れが強くなったんだと思う」
僕の言葉に、ひかりちゃんが頷く。
キャラクターがゲームの世界に降り立ち、BGMが流れ始める。
「僕もひかりちゃんも、何年後かにこのBGMを再び聞き直して、感情が溢れ出ちゃったりするのかな?」
「あー……、ありそう~。ひかり、もうこの曲ハッキリと覚えちゃったもん」
大人のゲーマーの話を聞いてみると、若い多感な時期にハマったゲームの曲は、大人になってもよく覚えているらしい。
もちろんその曲自体がそもそも素晴らしかったり、ゲームにバッチリ合っていたからだったりするんだろうけど、それに思い出も加わり、ずっと忘れられない思い出のBGMになるんだという。
そんなことを考えていると、僕の頭に連鎖的に、ここ数ヶ月のひかりちゃんとの思い出が浮かんでき始めていた。
すると、またもひかりちゃんも同じようなことを考えていたみたい。
彼女は静かな口調で言う。
「なんだかずっとお兄ちゃんと一緒にいるみたいな気がしてるけど、実際にはまだお兄ちゃんと出会って半年も経ってないんだね~」
「僕も同じことを考えていたよ。でも、僕のこの数ヶ月は、今まで生きてきた人生に匹敵するくらい密度の濃い数ヶ月になったと思う」
「ひかりも~」
そこでひかりちゃんは、改めて僕の体に体重を預けてくる。
「ひかりたち、兄妹みたいに見てもらえるようになったのかな~?」
僕とひかりちゃんは、本当の兄妹ではない。
それどころか、まだ親同士が再婚したわけでもなく養子縁組を行ったわけでもない。
書類上ではまったくの赤の他人だ。
だから僕は怒られるのを覚悟で、彼女に言う。
「仲良くしてるけど恋人には見えないだろうから、兄妹かなって思われるんじゃないかな?」
案の定ひかりちゃんは、プクッと頬を膨らませて僕を見る。
でも、彼女も兄妹という繋がりが欲しいからか、兄妹よりは恋人に見られたい、などとは言い出さなかった。
代わりにずっしりと、押しくらまんじゅうをするかのように僕に密着してくる。
「ひかりちゃん、操作しづらいよ」
「じゃあ膝枕して!」
「じゃあって何……?」
言うが早いか、ひかりちゃんは速攻で僕の太ももの上に倒れ込んでくる。
僕は諦めて小さく息を吐くと、ゲーム画面に視線を戻した。
「えへへ~。ひかり、お兄ちゃんの横でゲームを見るのも好きだけど、こうしてもらうのも大好き~」
「恥ずかしいからほどほどにしてね」
「はーい!」
まったく信用ならない彼女の返事を聞きながら、僕はキャラクターを操作していく。
するとひかりちゃんも状況に満足したのか、次第にゲームの方に意識が向いて行き始めた。
「お兄ちゃん」
「うん?」
「どうしてゲームの砂漠って、こんなに生き物が多いのかなー?」
「普通に食物連鎖とかありそうだよね」
雑談をしながら、僕はひかりちゃんの目の前でゲームを遊ぶ。
「お兄ちゃん」
「うん?」
「どうしてお兄ちゃんは、ゲームが好きなの?」
しかし途中で、僕は彼女の質問によって操作の手が止まってしまった。
すぐにゲームを再開しつつ、その質問について考える。
「ゲームの種類によって楽しみ方が違うから、一概には言えないかな」
「そっか~」
「でも共通して言えることは、自分の考えを受け止めてくれるからじゃないかな?」
「自分の考えを受け止めてくれる?」
僕の言葉をオウム返しに繰り返すひかりちゃん。
僕は笑うと、彼女に答える。
「簡単に言えば、キャラクターを操作したり、街を栄えさせるための方針を決めたり敵国に攻め入ってみたり、パズルを解いていったり、流れてくる音符をタイミングよく押してみたり……」
そこで僕はゲーム上で敵に強烈な一撃を食らわして倒すと、ひかりちゃんと目を合わせる。
「要するに、僕の考えをゲームに入力すれば、ゲームはそれに反応してくれるよね」
「なるほど~。そういう意味なんだ~」
読書や映画鑑賞も嫌いじゃないけど、それらは自分の考えがダイレクトに反映されない。
ゲームの良さは、自分の思考がすぐに反映されるところだと思う。
「そしてそのゲームの反応を楽しむんだよね。複雑な操作をすると敵が完封できたり、効率的な指示を出すと街が見事に発展したり。そんな感じだね」
「そっか~」
ひかりちゃんは納得がいったのか何度も何度も頷いていた。
そして彼女は不意に体を起こすと、再び僕の横にピッタリとくっついてきて、言った。
「ひかりも、ゲームもお兄ちゃんも大好き」
どうしてわざわざ僕のことも混ぜて言う必要があったのかなと、疑問に思う。
だけど聞き返すと泥沼になりそうだったので、僕は無言でゲームの操作を続けた。
するとひかりちゃんは、頭を猫のようにすり付けて来ながら穏やかな口調で言葉を付け加える。
「何年か先に、ひかりもお兄ちゃんと一緒に、またこの曲を聞いてみたいな」
その発言には、僕はすぐさま返事を返した。
「どんな感情が溢れ出ちゃうんだろうね。楽しみだね」
「うん」
彼女も嬉しそうに肯定してくれる。
僕は出来れば悲しい感情じゃなくて、楽しい感情が湧き出てほしいなと、隣に座る女の子の体温を感じながら思った。
だけど、その時僕のスマホに一件の着信が入る。
それは珍しく僕のお母さんからの電話で、そして僕とひかりちゃんが、これからも義理の兄妹にはなれなくなった電話だった。
「ごめん空ちゃん、お母さんフラれちゃった」
◇
すぐに僕のお母さんとひかりちゃんのお父さんから、ビデオチャットの申し入れが来て、僕たちはそこで詳しい話を聞かされることとなった。
それを聞いていると、誰も悪い人はいなくて、お母さんたちはすれ違ってしまっただけなんだなと感じさせられた。
二人からごめんなさいと謝られて、チャットを終えたのはもう夕方近くだった。
「お兄ちゃんのお母さんが外国に栄転することになって、ひかりのお父さんはそれを見送るって決めたってことだよね?」
夕飯を作るためにキッチンに入った僕に、ひかりちゃんがそう話しかけてくる。
「そうみたいだね。でも、僕はひかりちゃんのお父さんの気持ち、なんとなくわかるような気がするけど」
「ひかりはわかんない。好きなら結婚してあげたらいいのに」
「現実を考えたんじゃないかな。ひかりちゃんのお父さんは五十過ぎてるし、お母さんと歳は十以上離れてるし、その歳で遠距離恋愛、もしくは結婚してもお嫁さんだけ単身赴任でしょ? それら色々を考えると、止めたほうがいいって判断するのも仕方ないと思うよ」
「む~!」
キッチンの入り口から、不満げな視線を送ってくるひかりちゃん。
僕はその視線を和らげてもらうために、彼女に言う。
「ひかりちゃんのお父さんだって、僕のお母さんのことを考えてないわけじゃないと思うよ」
「それは、そうだろうけど~……」
「どの道、僕たちは関係者ではあるけど、当事者ではないんだ。最後に決めるのはお母さんたちだからね」
「む~……」
ひかりちゃんがしょんぼりと肩を落とす。
実のところ僕もひかりちゃんと兄妹になれないのは悲しいけど、だからといって二人揃ってひかりちゃんのお父さんの悪口を言うわけにはいかないよね。
「それよりひかりちゃん、考えなくちゃいけないのはこれからの僕たちのことだよ。お母さんが外国に行っちゃうとなると、今までどおりの暮らしは出来ないかもしれない」
そこで僕がそうやって問題提起すると、ひかりちゃんはハッとなってこちらを見た。
「僕はひかりちゃんの意見を尊重するよ。ひかりちゃんはどうしたい?」
僕の問いかけに、ひかりちゃんは伏し目がちに悩み始める。
やがて彼女はチラリと僕を見ると、口を開いた。
「お兄ちゃんは、どうしたいの?」
ひかりちゃんは、質問に質問を返す形を取った。
その彼女の仕草から考えて、僕は彼女が本音を言えなかったんじゃないかと思った。
『お兄ちゃんと一緒にいたい』
もしかしたら自惚れかもしれないけど、本当ならひかりちゃんはそう言いたかったんじゃないかな。
でも、ひかりちゃんはそれを言わなかった。
どうしてなのか。それは、自分の発言の影響力を考えたんだと思う。
自分から一緒にいたいと言い出しちゃうと、優しい僕が心を押し殺してでも一緒にいてくれる。
そう、ひかりちゃんは考えたんじゃないかな。
でも、それは二つの意味で間違いだ。
僕もひかりちゃんと一緒にいたいのは同じ気持ちだし、僕は全面的に優しいわけじゃなく、優柔不断だったり臆病だったりもするんだよね。
僕は一つ息を吸い込むと、言葉を選んで彼女に答えた。
「僕はひかりちゃんがご飯を美味しいと言って食べてくれるのが好きだし、いつも帰ってきたら明るく出迎えてくれるのも嬉しい。それらがなくなるのは、正直寂しいかな」
ひかりちゃんが目を見開くのを見て、僕は笑う。
「だから、これからも一緒に一緒にいたいかな」
それを聞いたひかりちゃん、何も言わずに僕の方に歩いてきて、その勢いのまま抱きついてきたんだ。
「ひかりも、一緒にいたい」
僕の体に顔を押し付けながら、ひかりちゃんもそう言ってくれた。
今日は本当に甘えん坊だねと思いつつ、僕は明るい声で彼女に言う。
「じゃあ、これからも二人で一緒にいられるように、色々話を詰めていこうか」
僕とひかりちゃんは兄妹になるのは難しくなったけど、離れ離れに引き裂かれるわけじゃない。
僕たちの意見は尊重してくれるらしいから、二人で一緒にいたいという意志さえ確認できれば、後は住む場所や保護者等の法的な問題、金銭について詳しい話を決めていけばいいはずだった。
だけど、そこでひかりちゃんが僕の体から顔を離し、不安そうな顔でこちらを見る。
「でもお兄ちゃん、本当にひかりと一緒でいいの? 空気読んで答えてくれたんじゃないの?」
僕は苦笑した。
ひかりちゃんも着実に、僕という人間をわかってくれてきたみたいだった。
降参したように、僕は彼女に言う。
「ひかりちゃんの言う通り、空気を読んだのは本当だよ。ひかりちゃんは僕と一緒にいたいって言うような気がしてたんだ」
「だったら――」
「でも、僕が言ったことも本当だよ。ひかりちゃんが僕のご飯を食べてくれている姿は大好きだし、玄関で出迎えてくれるのも帰り道の途中から楽しみになるんだ」
抱きついたまま間近で見つめてくるひかりちゃんのことは恥ずかしかったけど、僕は頑張って話し続けた。
「だからひかりちゃんも、変に気を回して自分が重荷になってないかとか考えなくても良いんだよ。世間一般から見れば、僕がひかりちゃんのことを面倒見てあげてるように見えるかもしれないけど、僕だってひかりちゃんから色々なものをもらっているんだから」
僕がそこまで言い切ると、ひかりちゃんの目にみるみる涙が溜まっていった。
彼女は不意に目をつぶると、再び僕の体に顔を押し付けてくる。
「…………」
僕は言いたいことを言い切ったし、ひかりちゃんも何も答えなかったので、しばしの間キッチンは沈黙に包まれる。
でもやがて、恥ずかしくなった僕が今一度口を開いた。
「やっぱり今日はどこか甘えん坊さんだね。でも、恥ずかしいからそろそろ離れてくれないかな」
「ヤダ」
「あはは、また言われちゃったね、それ。でも、そろそろ夕飯も作りたいし、ね?」
僕がそう言うと、ひかりちゃんはゆっくりと体を離してくれた。
少し泣いちゃったみたいで、彼女の目には涙の跡があった。
「お兄ちゃん」
「うん?」
「大好きです」
そこで僕の妹さんは、唐突――でもないのかな?
とにかく、とても答えづらい発言をし始めた。
僕はすぐに食材に視線を向けると、大きな声を出す。
「さあ、夕飯作るよ。最近寒くなってきたから、今日はお鍋だよ」
露骨な誤魔化し方だったけど、ひかりちゃんはそれ以上何かを言ってくることはなかった。
どんな表情をしていたかは、怖くて確認出来なかった。
僕はひかりちゃんから贈られた包丁を取り出してきて、食材を切り始める。
すると、ひかりちゃんはいつものようにキッチンの入口という定位置に戻り、そこから僕の様子を見守り始めてくれた。
僕はそんな彼女のことを嬉しく思いながら食材を切り――そして、ふと思った。
ひかりちゃんは、僕のことを大好きだと言ってくれる女の子だ。
そんな女の子と、僕はこれからも同じ屋根の下で暮らしてもいいのだろうか。
今までは兄妹という免罪符があった。
でも、その免罪符は今日なくなってしまった。
これからは、仲が良いだけの赤の他人となってしまうひかりちゃん。
僕はそんな女の子の好意に、どう答えたらいいんだろう。
そう考えた瞬間、僕は人生で初めての失敗をしてしまった。
「痛ッ!」
気が付けば、包丁の刃が指先をかすめていた。
あっという間に痛みが広がっていくと同時に、僕の手がみるみる鮮血に染まっていく。
「お、お兄ちゃん!」
ひかりちゃんが贈ってくれた包丁は、とても良く切れる包丁だ。
少しの油断だったけど、ちょっと派手な怪我になったようだった。
「大丈夫。少し切っただけだよ。心配しないで」
「でも、血が、血が……!」
手から流れ出る血を見て、ひかりちゃんが慌ててしまう。
僕はなるべく穏やかに笑い、彼女を安心させようとした。
「ごめんね、心配させちゃったみたいだね。でも、幸い傷は深くないみたい。これから病院に行かなくても大丈夫そうだよ」
僕はすぐに傷口を洗おうと、流水に手を突っ込んだ。
すると痛みのせいで、貼り付けていた笑顔が剥がれ落ちてしまう。
「お、お兄ちゃん!」
再びひかりちゃんの悲鳴のような声が上がる。
僕は痛みに耐えながら、それでもなんとかもう一度笑ったんだ。
「大丈夫。ちょっと沁みるだけだよ。綺麗に洗って止血できたら、傷口を縫う必要もなさそうだ。心配しないで」
ひかりちゃんは、またも目に大粒の涙を溜め込み始めていた。
僕は思わず、空いている方の手で彼女の頭を撫でる。
「本当にごめんね。僕は今までこんなミスはしたことなかったんだけど、今日はついうっかりしちゃったみたいだね」
なるべく自然に笑いながら、僕はひかりちゃんにそう言った。
そうしたら、ひかりちゃんの悲痛な表情に、暗い影が落ちる。
「……ひかりが、変なこと言っちゃったから?」
なんとも間の悪いときに怪我をしてしまったものだ、と僕は思った。
ひかりちゃんがそう考えても仕方のない間の悪さだった。
僕はさっき以上に、気持ちをこめて彼女の頭を撫でる。
「今日の話で動揺していたのは間違いないけど、怪我をしたのは僕の不注意だよ。ひかりちゃんは余計なことを考えなくていいんだよ」
「でも、でも……!」
とうとうひかりちゃんが、涙を零し始める。
それを見た僕も、なんだか胸が締め付けられる思いがした。
「泣かないで、ひかりちゃん。僕まで悲しくなっちゃうよ」
「ひかり、やっぱり、お兄ちゃんの重荷に」
本格的に泣きそうになったひかりちゃんは、スムーズに言葉を喋れなくなってしまう。
僕は首を振ると、彼女に笑いかける。
「大丈夫。ひかりちゃんは重荷なんかじゃないよ」
「でも、お兄ちゃん、優しい、から」
「ひかりちゃんだって優しいじゃない。僕はひかりちゃんとは兄妹になれなかったけど、ひかりちゃんに会えて本当によかったと思ってるよ」
彼女の涙を止めたくて、僕は必死な思いでひかりちゃんに話しかける。
だけど、僕の言葉には失言が混ざっていたようだ。
兄妹になれなかった。そのフレーズを聞いたひかりちゃんは一瞬、魂が抜けたように放心してしまう。
「ひかりも、お兄ちゃんと兄妹になりたかった~!」
そして彼女は次の瞬間、大きな声で叫んで、堰を切ったように泣き始めた。
後は僕はどうすることも出来なかった。
僕はただひかりちゃんの頭を撫で、背中をさすり、なんとか泣き止んでもらえるようにするだけだった。
怪我の血は間もなく止まってくれたけど、その日のひかりちゃんは、初めて僕の前で子どものように止まることなく泣きじゃくったんだ。




