年に一度の特別な日
朝からみんな、僕と目が合うと微笑んでくれる日だった。
いくら年に一度しかない一日だとしても、僕には過ぎた対応だった。
早速アイリさんに怒られてしまうかもしれないけど、でも、僕はこれだけでも本当に嬉しくて「ありがとう」と言いたくなってしまうんだ。
しかし、みんな微笑んではくれるけど、誰一人今日が何の日かは口にしなかった。
あれだけバレバレな行動を取っていたひかりちゃんも、この話題には触れてこない。
そんな中で、僕から「ありがとう」と切り出すわけにもいかないよね。
僕は仕方なしに、みんなから微笑まれるたびに言いたくなる言葉を飲み込み続けていた。
朝ごはんにメグさんの切ったサラダを食べ、玖音さんが作ったスープを飲み、そしてなんとひかりちゃんが焼いてくれたパンを食べた。
まあ、ひかりちゃんはお手伝いさんが麓のパン屋さんで買ってきたパンをトースターに入れただけみたいだけど。
とにかく、僕は朝から大満足の一日だった。
まだ朝が終わったばかりで祝いの言葉一つも聞いてないけど、すでに心はかなり満たされていた。
でもひかりちゃんたちからすれば、これからが本番だった。
朝の食事が終わり一段落した頃、突然彼女たちが言い出した。
「お兄ちゃん、近くをお散歩しよ~」
「センパーイ、森林散策もいいものデスよ。大丈夫デス。歩道はしっかりしてますし、昨日降った雨も心配しなくていいはずデース」
「ちゃんと準備していきますので、気持ちいいと思いますよ」
彼女たちに連れられて、僕はメグさんの別荘の敷地内を散策し始める。
たしかに整備された道は歩きやすく、そして夏の太陽に照らされ、地面はみるみる乾かされていっていた。
「でも、本当に晴れて良かったですね」
「クオンの言う通りデース! メグはとても心配デシタ!」
「曇ってたら、お空が見えなくなっちゃうもんね。せっかくのお兄ちゃんの誕生日なのに――、おっとととと、危ない危ない~!」
ひかりちゃんを見て、みんなが苦笑する。
危ないというか、もうそれアウトだと思うよ、ひかりちゃん。
「……僕自身の話なんだけどね、母さんが言うには、僕の名前は一時期『太陽』で決まっていたんだって」
ひかりちゃんの話を流すために、僕はそんな話をし始めた。
空気を読んで話に乗ってくれるかなとは思ったんだけど、意外なことにメグさんには普通に面白い話だったみたい。
「ぷっ。センパイが太陽……? うぷぷ。そ、そーりー。ちょっとメグのイメージと違っていたデスから」
「そのまま笑ってもらっても構わないよ。僕自身、似合ってない名前だなって思ってるから」
夏の日のイメージ。
照りつける太陽と真っ青な空。
もしかしたら、大きくて白い入道雲からも何かヒントを得ようとしてくれていたのかな。
「太陽というお名前が似合わないわけではないでしょうけど、私もお兄さんは今の名前が一番似合っていると思います」
「ありがとうございます玖音さん。僕も今の名前を付けてもらえてホッとしてます」
僕は空という名前が嫌いじゃない。
太陽という名前を付けられていたら人生が変わっていたのかもしれないけど、空の人生だって悪くない。
何より、今はひかりちゃんたちにも出会えたしね。
「でも~、ひかりもその話は初めて聞いたよ~。ねぇお兄ちゃん、ひかりはお兄ちゃんのことがもっと知りたい。他のことも色々話して~?」
「えええ……? も、もうないよ」
「む~」
しかし、ちょっと話題を逸らすだけのつもりだったのに、僕は想像以上にガッツリと食いつかれてしまった。
ひかりちゃんが頬をまんまるに膨らませているのを見て、僕は困ってしまう。
そして思い付いたのは、他に聞いたことがある幼い頃のエピソードだった。
「あ、ぼ、僕は喋り始めるのが遅かったみたいだよ。当時からコミュ障だったんだね。筋金入りだよね。あはははは……」
「……む~!」
でも、僕の渾身の冗談は、義妹の子には不評だった。
ひかりちゃんはますます不満そうな顔になっていく。
「アハハハハ! センパイが太陽! アハハ! ダメ、お腹痛いデス! 太陽! アハハハハ!」
あっちはあっちでツボにハマったのか、洋風美少女がお腹を抱えて笑い転げていた。
いや、僕としてもあんな風に笑い飛ばしてもらえるほうが嬉しいんだけどね。
「み、みんなにもそんなエピソードないの? 僕にも聞かせてよ」
ひかりちゃんの視線に耐えられなくなった僕は、玖音さんやメグさんを見回しながらそう言った。
すると何故か玖音さんが、ボッと火が付いたように一瞬で赤くなった。
僕は青ざめてしまう。
玖音さんのこの反応。どうやら僕は地雷を踏み抜いてしまったらしい。
すぐに僕は別の話題を探そうと考えたんだけど、その前に僕の顔色を見たひかりちゃんとメグさんが、玖音さんの変化にも気付いてしまった。
「ち、違う話にしようか! 今日はいい天気だよね! やっぱり晴れてよかったよね!」
僕はとっさにそう言った。
でも、僕にはやはりコミュニケーション能力がないみたい。天気の話しか出てこなかったよ。さっき話したばかりなのに。
「あ、あの……! 私にはそんなエピソード、あります……!」
ところがそこで玖音さん、真っ赤な顔で俯きながらも、しっかりとした声でそう言った。
「く、玖音さん? 無理に僕の話に合わせていただかなくても……」
「い、いいえ。私も早く皆さんに自分のことを知っていただきたいので……!」
僕が止めても、玖音さんの決意は変わらないようだった。
彼女は真っ赤な顔をしたまま目を閉じ、『そんなエピソード』を暴露した。
「わ、私はおねしょの癖が治らなくて、十歳くらいまでずっとオムツを穿いていました……!」
それは、聞いた僕も目をつぶりたくなるような発言だった。
玖音さんと同じように、僕も顔が真っ赤になった。
これからどう答えればいいのかわからない状況。
僕は困り果てていたけど、でも、意外な人がポンと玖音さんの肩を叩いた。
「クオン、メグも同じデース!」
ハッとなって顔を上げる玖音さん。
そこにはさっきまで笑い転げていたはずのメグさんが、グッと親指を立てながら爽やかな笑顔を見せていた。
「メグも十歳でおねしょしたことがありマース! それは、今でもよく覚えていマース!」
「は、はぁ……」
玖音さんがメグさんの勢いに流されるように相槌を打つ。
一方のメグさんは、そんな玖音さんを置いてモノローグへと突入していった。
「あれは十歳の冬のことデシタ。メグはその日久しぶりにアイリと一緒に寝ていたのですが、その時恐ろしい夢を見てしまったのデス」
僕と玖音さんは、やや唖然としながらメグさんの話を聞く。
ひかりちゃんはにこやかに微笑みながら、メグさんを見ていた。
「ご存知の通り、メグは日本から出ないと決めてマース。ですがその日メグは夢の中で、アイリにジユーの女神像に連れて行かれそうになっていたのデース!」
同行していたアイリさんに(この時は黒服だった)、僕と玖音さんの視線が向く。
アイリさんは視線に気が付いていたけど、軽く会釈をするに留まった。
「メグはそれがどうしても嫌で嫌で、船から飛び降りて泳いで帰ろうと思ったのデース!」
僕たちの中で、話が繋がる。
そしてメグさんは、予想した結末を言ってくれた。
「メグはそうしてアイリから泳いで逃げていたら、いつの間にかお布団が温かくなってて、そして急に冷たくなって、おねしょしてると気付いたのデース! アハハハハ!」
「ちなみに私はその時、メグ様の運転するペダルカーを追いかけていたら、水溜まりに突っ込まれて水を掛けられる夢を見ておりました」
メグさんの発言に、アイリさんがクールに一言付け加える。
ちなみにペダルカーとは、足で漕ぐオモチャの車のことだ。
「だからメグとクオンはおねしょ仲間デース!」
「……はい。私とメグさんはおねしょ仲間です」
玖音さんは少し混乱していたようだけど、メグさんに仲間だと言われて嬉しくなったみたい。
優しく微笑んで、自分からもメグさんに仲間だと告げていた。
でも、おねしょ仲間っていうのは他じゃ言えない仲間だと思うな。
「……ひかりちゃんは、どういう子どもだったの?」
僕はなんとなく居心地の悪さを感じて、優しく見守るように玖音さんとメグさんと見ていたひかりちゃんに声をかけた。
彼女はすぐに振り向くと、元気良く答えてくれた。
「ひかりはね、すぐに寝る子だったみたい!」
「そ、そうなんだ?」
「うん! 元気に遊んでたと思ってたら、いきなりうつ伏せになってそのまま寝ちゃったりしてたんだって。すごいでしょ!」
「す、すごいね。よく遊んで、よく寝てたんだね」
「うん!」
さぞかし見ている側はハラハラする子どもだったんだろうなと思った。
あれ、それって今もあまり変わらないのかな?
◇
午前中は会話をしながら散策を楽しんだ僕は、そのまま別荘の敷地内にあるバーベキューが楽しめる場所に連れてこられた。
普段メグさんたちは利用していなかったみたいだけど、「センパイは男の子だから好きデスよね!」とお肉を焼いてもらった。
女の子たちに焼いてもらうお肉は、もちろん質が良かったのもあるけど、とても美味しかった。
実は彼女たちが火傷をしないかずっと心配してたんだけどね。
口には出さないように頑張ってたんだけど、顔色を見られて結局笑われちゃったっけ。
「皆さんで手巻き寿司をいただいていた時にも思っていたのですが、食事とは不思議なものですよね。ただ美味しい料理を食べるだけに限らないのですね」
「うん、わかる~。お外でお肉焼いて食べるのも、すごく美味しいよね~」
「メグの狩猟民族の血が騒ぐのデショーか? この開放感とお肉が焼けていく充実感はたまりマセーン!」
みんなもバーベキューが気に入ったみたいで、来年はクラスの子たちともやってみようかという話も出ていた。
僕はその話を聞いていて、祝ってもらえなくてもいいから来年も彼女たちと居たいな、と思った。
お昼のバーベキューは腹八分目で済ませ(それでも大満足)、次に僕たちは本館と呼ばれているメグさんの別荘、その中で一番大きな建物へとやって来ていた。
クラスの女の子たちはここに招かれたらしく、たしかに何十人もの人数を受け入れられるほど、広くて立派な建物だった。
「え、何ここ、小さな音楽堂? というか、多目的ホールなのか。本格的なんだなあ。すごいねメグさん」
建物を軽く案内してもらうと、それだけで色々な設備が充実しているとわかって本当に驚いた。
ここに来る前に「ビリヤードとかどうデスか?」とか聞かれていた意味がわかったよ。ここで遊べたんだね。僕は断っちゃったんだけどね。
「毎年ひかりたちのために、色々な人を招いてくれているんだよ~」
「夢を壊すようで恐縮なのデスが、こちらも純然たる慈善事業をしているわけではないのデス。コネクションを作ったり新人教育の研修の場にしたりなどデス。色々と大人の世界は難しいのデース」
「あはは、メグちゃんっていつもそう言ってるんだよ~。お金払ってないみんなに気を遣わせないように~」
同じクラスになった女の子たちを、毎年無料で別荘に招待しているメグさん。
それがどこまでメグさん一人の裁量で行われているのかはわからないけど、彼女はその場を上手に使っているみたいだ。
ひかりちゃんの話を聞いていると毎年みんな満足してるみたいだし、Win-Winの関係でいいんじゃないかな。
「しかーし! センパイには申し訳ないのデスが、今回は誰も招いていないデース。ガッカリさせてしまったのならごめんなさいデース」
多目的ホールを見せてくれたのに、誰も招いていないと言ったメグさん。
僕が興味深そうにしていたのがいけなかったのかな。案内させちゃってごめんね、メグさん。
「全然気にならないよ。部屋を見せてくれただけでもありがとうって思う。僕一人のために誰かを招待してもらうのも悪い気がしちゃうしね」
僕は心からそう言った。
それを聞いたメグさん、ニッと笑って僕の手を取る。
「ではセンパーイ! 次の場所に行くデース! 次はセンパイ一人のためだけに用意した場所デスよ。そろそろお腹も熟れた頃デスし、ネ!」
僕は首を傾げた。
お腹が熟れた頃に向かう僕一人ための場所ってなんだろう?
少し考えてみてもわからなかったけど、たしかにそれはメグさんの言う通りの場所だった。
お風呂はご飯食べてすぐに入っちゃダメだよね。
カポーンという音すら聞こえてきそうな豪華なお風呂。
僕はその広々としたお風呂を、贅沢にも独り占めして湯船に浸かっていた。
「あー、気持ちいいー……、でも、どうしても落ち着かない……」
僕は元々恥ずかしがり屋だし小心者だから、裸になるのも一人で何かを独占するのにも慣れていない。
誕生日だしせっかくの機会だから、と一念発起して湯船の中央に来てみたはいいけれど、まるで大海原の真ん中で遭難したような気持ちになってしまった。
「あそこの彫像とか掃除が大変そう。それも含めて僕へのお持て成しなんだろうけど、やっぱり悪いなあ」
僕は自己評価が低すぎると言われている。
でも、だからといって、こんな風にお大尽扱いされることには一生慣れることが出来ないと思う。
「偉そうにふんぞり返ってひかりちゃんに命令する僕……、ダメだ。全然想像できないや」
ふうと息を吐いて両手で顔を覆う。
そろそろ僕の誕生日も中盤かなと、ふと思った。
だけど、お風呂から出たところに待っていたのは、今までと打って変わって悪夢のような持て成しだった。
「し、死ぬ……」
「も~。お兄ちゃんそればっかりなんだから~。痛くはないんでしょ~?」
「心臓が痛い……」
「あはは、お兄ちゃん上手だね~」
「いや、本当なんだよ……?」
服装は浴衣。場所は和室。
畳の上にうつ伏せに寝かされた僕は、ひかりちゃんたちにマッサージと称されてもみくちゃにされていたんだ。誰か助けて。
「センパイは、ホントこういうの全然ダメデスよね」
「…………」
「アハハハハ、喋らなくなったデース! 面白いデース!」
プールの時にも思ったけど、こういう時に鼻血でも出てくれたらそれを理由に中止にしてもらえると思う。
でも、あいにく僕の体に目立った異変は起こっていない。せいぜい顔が耳まで真っ赤になっているくらいだ。
こんなに心臓がドキドキしてるのに、自分の体が恨めしいよ。僕の体は思っている以上に丈夫なのかな?
「で、でも、さすがに自重したほうが良くないですか? お兄さんいつも以上に顔が真っ赤になられてますよ?」
「そう言いつつも、クオンも手を止めてないデース」
「こ、これは……、いつもありがとうございますというお兄さんへの気持ちの表れで……」
「アハハ、メグだって同じデース!」
体中をトントンと叩かれたり、優しく揉みほぐされたり。
細心の注意を払ってくれているのか、不快な気持ちは一切感じることがなかった。
それは確かに気持ちよかったけど、でも、やっぱり恥ずかしかった。
女の子のテンションは妙に高かったし、ベタベタ触られるし。
僕は考える。
早く終わらないかな?
マッサージって十分、二十分くらいでも十分だよね?
それくらいやってもらったら、もう音を上げてもいいよね?
女の子にマッサージをしてもらっていた僕は、そんな感じで一杯一杯だった。
状況を楽しむなんて、もっての外だった。
しかし、風向きが少し変わる。
その切っ掛けは、つぶやくようなひかりちゃんの声だった。
「お兄ちゃん、いつもありがとう。お疲れさま。ひかりにはこんなことくらいしか出来ないけど、一生懸命頑張るよ」
僕の体をゆっくりと手のひらで押していきながら、妹ひかりちゃんはそう言った。
それを聞いたメグさんも玖音さんも、落ち着きを取り戻していく。
「フフッ。メグもそろそろ真面目に、一生懸命頑張るデース……」
「私も、頑張ります……」
さっきまでも気持ちのいいマッサージだったけど、それがさらに心地良いものへと変わってきた。
彼女たちは真剣に、僕のことを想って頑張ってくれているみたいだった。
僕も彼女たちの気持ちに応えて、リラックスしてマッサージを楽しもうかという気持ちになってくる。
でも、そんな風に前向きになれたのは、やはり一瞬だけだった。
やっぱり無理。こんなの恥ずかしすぎてリラックスなんで出来るわけがない。
「……お兄ちゃん、寝ちゃったのかな?」
「どうデショウ。ノックダウンしているだけだと思いマス」
「気持ちよくなっていただけていたら良いのですが……」
ひかりちゃんたちの小声が聞こえてくる。
僕に返事をする余裕はなかった。
ひかりちゃんの発言に乗っかって、寝たふりをすることにする。
いや、メグさんが言っているように、バレバレだとは思うけどね。
「お兄ちゃん、気持ちよくなってね」
「センパイ、メグはあなたに感謝しています」
「いつもいつも、お疲れ様です。お兄さん」
再び彼女らが、小声で僕にそう囁きかけてきた。
寝たふりをしていてよかったと思った。
「お兄ちゃん、元気にな~れ~。元気にな~れ~」
「メグは肩叩きは得意だと思うのデスが、揉むほうはよくわからないのデスよね。エイッ」
「きょ、今日くらいは、もう少し触ってもいいですよね……?」
女の子たちは小声で喋りながら、僕の体のマッサージを続けてくれる。
それは終わってみれば、恥ずかしさより気持ち良さが、ちょっとだけ勝っていたような気がするマッサージだった。




