ゲームの帰還と、ゲームからの帰還
異変に気付いたのは、森に入って間もなくのことだった。
遠くにわずかに動く影を見つけた気がした。気のせいであってほしいと願った瞬間、その近くで同じように動く影を見つけてしまう。
ただの見間違いではなかった。しかもどうやら複数体が、僕たちの様子を窺っているようだった。
「(そこまで大きな影じゃなかったけど、影の動きは素早かった。さあどうする僕。まだ彼女たちを怖がらせないほうがいいかな? それとも注意喚起して走り始めるか?)」
心音がドキドキとうるさく音を立て始めた。
出来れば最後まで彼女たちを不安がらせずに帰らせてあげたいけど、のんびり構えていて全滅したら元も子もない。
「(そもそもまだ敵性生物と決まったわけでもないし、いや、それは楽観的すぎるよね? やっぱり不安がらせちゃうかもしれないけど、ここは声をかけるべきか――)」
しかし、僕が口に出さずに悩んでいたのは裏目に出た。
暗いというだけで、生き物が近付いていることすら知らされていなかった彼女たちは、さぞかし驚かされたことだと思う。
僕が思考している最中に、それは起こる。
闇夜に響き渡る音。「アオーーーン」という獣の遠吠えだった。
「え、な、なに?」
ひかりちゃんが足を止めて周囲を見、直後に怯えたように僕の方に近付いてくる。
玖音さんもメグさんも驚いた様子で足を止めてしまった。そして、僕は人知れず奥歯を噛み締める。
遠くに見えていた影はオオカミだった。
厄介な敵に見つかってしまったと思った。巨大な熊に襲われたような派手さはないかもしれないけど、状況的にはそれに匹敵するくらい最悪だった。
オオカミはゲームでもプレイヤーに襲いかかってくる敵として登場することが多い。
しかしそれは大抵序盤以降の敵としてであり、最序盤に雑魚敵として出てくることは滅多にないと思う。
ボスではないけど手強い雑魚敵。そんな位置づけにされていることが多い気がする。
このゲームのオオカミもそんな感じだ。
一匹、もしくは少数だと襲いかかってこないけど、プレイヤーの数より多ければ多くなるほどオオカミは凶暴性を増して襲いかかってくる。
しかもオオカミは群れでチームプレイを心がけ、プレイヤーを取り囲み厭らしいタイミングで四方八方から襲ってくる。
今の僕たちは全滅させられても不思議ではない、まさに強敵なのだ。
「(囲まれる前に逃げないと。でも、それをどうやって彼女たちに伝えよう?)」
このまま立ち止まっているのは悪手そのものだけど、かといって「走れ」だなんて言っちゃうとパニックになっちゃうよね。
僕は大きく息を吸うと、なるべく明るい声で彼女たちに話しかけた。
「ゲームもなかなか味な演出をしてくれるね。あれはオオカミだよ。みんなはホラー映画とか平気?」
その言葉に視線は集まったけど、誰一人として返事はくれなかった。
僕は改めて笑って、最後尾を歩いていた玖音さんと位置を入れ替える。
その際にさり気なく、みんなのツールにコツコツと自分のツールを当てておいた。
「さあ、とりあえず歩きながら話そう。玖音さんは帰り道わかりますか?」
「こ、このまままっすぐ行けばいいのですよね?」
「はい、その通りです。暗い森なので迷いやすいかもしれませんが、少々方向がずれても海岸にさえ出られたらそれでいいので、お願いしますね」
僕の言葉で再び彼女たちの歩みが戻った。
やはり走ってもらうことも考えたけど、ひかりちゃんのことを考えるとそれは止めたほうがいいかなと思い直した。ひかりちゃんは、まだ移動には慣れていない。
ビクビクしながら歩き始めた彼女たちに、またも遠吠えが襲いかかる。
僕にはそれが、仲間を呼び集めている遠吠えに聞こえていた。
「たいまつをしっかりと持っていたら大丈夫だよ。それより驚いて立ち止まるほうが危ないからね。玖音さんにピッタリついていこうね」
不安がらないように、僕はすぐにそう声をかける。
でも、群れになったオオカミにはたいまつの炎なんておまじない程度にしかならない。あくまで落ち着いて行動してもらうための発言だった。
事態はかなり逼迫している。襲われることなく無事に逃げ切れる可能性はとても低くなってる。僕はそう考えていた。
でも、不幸中の幸いとして、オオカミなどのAIが現実世界に則したAIになっているということが挙げられる。
僕一人が足を止めて囮になれば、オオカミたちは僕を確実に仕留めようとして逃げていくひかりちゃんたちを追うのを止めたりすることがあるんだよね。これなら全滅は免れられる。
ひかりちゃんたちは僕がやられちゃうとショックを受けちゃうかもしれないけど、僕がすぐにリスポーン(復活、あるいはゲームの世界に再出現)して「いやー、やられちゃったよ」などと言ってあげればショックも和らぐと思う。
とまあ、彼女たちの行進は今のところ乱れている様子はない。怖い思いをさせちゃってるかもしれないけど、操作に支障をきたすほどではないようだ。
このまま行けば、最悪僕一人が犠牲になれば家までたどり着くことが出来るだろう。
「(でも、僕は他にも考えなくてはならないことがある。そのことで、今すぐに出来ることは思いつかない……)」
僕が不安に、そして申し訳なく思っていることがある。
それは少し前から考えていたこと。いい方法が思い付かなくて、ついつい甘えちゃっていたこと。
それは――。
「クオン、大丈夫デスか? メグもまっすぐ歩くだけなら出来ると思いマース。クオンはセンパイと同じジョーカーデス。今は少し休んでてクダサーイ」
「あ、え、えっと……」
メグさんが玖音さんに声をかける。
それこそ、まさに僕が心配していたことだった。さっきから僕は、玖音さんに色々頼りすぎている気がしていたんだ。
メグさんがそう言ってくれたのは助かった。僕はこの役割を他の誰に任せるかで困っていたのだ。
「ごめんなさい玖音さん。メグさんの言う通り、玖音さんはいざというときの切り札です。お願いした僕が言うことではないかもしれませんが、ここはメグさんに甘えて少し休むのも手だと思います」
「…………」
玖音さんは歩きながら、考え込んでしまったようだ。
でも、さっきから僕は玖音さんに無茶をさせすぎていた気がしていた。ここはメグさんに先頭を任せて、玖音さんには一度気を落ち着かせてもらったほうがいいと思った。
しかし、玖音さんを見ていたのは僕とメグさんだけではなかった。
そこへ僕の義妹のひかりちゃんが、凛とした声で話し始める。
「くおんちゃんは強い子だから、だいじょうぶだよ」
「ヒカリ?」
歩みを止めてはいけない場面なのに、僕が思わず驚いて足を止めそうになってしまった。
ひかりちゃんはみんなの注目を浴びながら、それでもしっかりと話し続ける。
「ひかり、ずっとくおんちゃんのことも見てたもん。くおんちゃんはクラスで一人でいることが多かったし、話しかけられたら困った様子で小さくなったりもしてたけど、毎日ちゃんと背筋を伸ばして学校に来てたし、瞳もしっかりと前を見てたんだよ~」
彼女のその言葉に、僕たちは言葉を失った。
反対にひかりちゃんは一人、楽しそうに笑い始める。
「それにね、やっぱりくおんちゃんはゲームが上手なんだよ~。メグちゃんが頼りにならないわけじゃないけど、やっぱりここはお兄ちゃんとくおんちゃんに任せておいたほうがいいと思うんだ~」
それを聞いたメグさん、彼女もゆっくりと頬を緩ませ、玖音さんに言った。
「クオン、どうしマスか?」
玖音さんはメグさんの問いにすぐには返事をしなかった。
前を向いて、無言で先頭を歩き続ける。その表情を見ることが出来たのは、誰もいなかった。
そして唐突に、彼女はハンドガン型の万能ツールを前方に向けて、トリガーを引いた。
ヒュッという風切り音とともに、離れた位置の草むらが揺れ、同時に一つの影が慌てて離れていくのが見えた。
「ごめんなさいメグさん、せっかくの申し出なのですが、今回は私も譲れないみたいです。だって、私の数少ない見せ場ですからね」
彼女はもう一度トリガーを引く。
ハンドガンのような形をしたツールから、再び何かが発射させる。
それは石だ。玖音さんは僕が何も言わなくても、その機能を使いこなしてくれていた。
そして、その二度目の投石を受けて、またも別の影が遠くに離れていく。
「弾数が少ないので、次からは当てますよ。オオカミさん、覚悟してくださいね」
ひかりちゃんの言葉通り綺麗に背筋を伸ばし、そう宣言する玖音さん。
思わず見とれてしまうほど格好良く美しく、そして頼りになると実感させられた。
「……残念デース。次はメグも活躍できるように、ゲーム上手くなりたいデース」
メグさんは本当に残念っぽくにそう言った。
でも、それはきっと本心からの言葉ではないだろうし、それを証明するように言われた玖音さんもひかりちゃんも笑っていた。
「――よし、じゃあ少し走ってみようか。オオカミは仲間を呼んで僕たちを取り囲もうとしている。包囲される前に、森を抜けよう」
僕は彼女たちにそう声をかけた。
ひかりちゃんはすごい。さっきまで漂っていた不安な雰囲気はもうなくなっていた。
だからこそだと思う。僕の走ろうという提案に、皆が力強く頷きを返してくれた。
◇
「さっきのね、玖音さんがやってた石を撃ち出す機能、あれ、ひかりちゃんもメグさんも出来るから!」
「ワォ! ホントデスか?」
「うん、さっきコツコツとツールを当てていったでしょ? あの時に渡しておいた。でも玖音さんが言ってた通り、弾数は少ないから本当に追いつめられた時に使ってね!」
「は、はーい!」「わかりマシター!」
僕たちは夜の森を駆けていた。
危惧していたひかりちゃんの遅れも今のところない(僕が頑張ってフォローしてあげている)。それでも状況は予断を許さない状況だった。
僕が走ろうと言い出さなくてはならないくらい、オオカミたちはたくさんの仲間を集めていた。
徐々に僕たちとの距離も詰められていて、とうとうたいまつの灯りに照らされ、いくつもの瞳が不気味に闇夜に浮かび上がるほどになっていた。
「お、お兄ちゃんはそんなに撃ってもいいの? ひかりたちを守るため?」
ひかりちゃんが心配そうな声を上げる。
彼女の言う通り、僕はさっきからひっきりなしにオオカミたちに石を撃ち出していた。今や森の中はオオカミの唸り声と悲鳴で溢れていたのだ。
「僕はいい。僕だけは弾がいっぱいあるんだ。ほら、僕はみんなと違って何も掘っていなかったでしょ? その分余った石を渡してもらっていたんだ」
本当はいざというときには捨て石になる予定だった僕。
だから死んでも被害が少ないように、採りやすい石ばかり持っていたんだよね。
「そ、そっか~。――きゃっ!」
「危ない!」
ひかりちゃんの足元に近付いたオオカミを、石礫で撃退する。
「あ、ありがとうお兄ちゃん」
「気にしないで。ちゃんと前を向いて、落ち着いて操作してね」
「う、うん、わかった~!」
「お兄さん! 石ください!」
「わ、わかりました!」
玖音さんに弾の譲渡を要請された僕は、少し当てずっぽうでも周囲にたくさんの石礫をバラ撒いた。
そうしてオオカミの包囲網が広がったところで、素早く玖音さんに手を伸ばす。
リレーでバトンを受け渡すようにして、ツールとツールをぶつけ合った僕と玖音さん。
実は玖音さんのツールが一番石を持てる割合が少ない。彼女が一番生き残れる可能性が高かったから、彼女のツールに一番貴重品を詰め込んであるんだよね。
まあ、今さら後悔しちゃっても仕方ないけど。
「ありがとうございます!」
「ど、どういたしまして!」
それにしても、さっきから玖音さんは生き生きと先頭を走っている。
なんだか僕のほうが圧倒されちゃってる。
「クオン! 森はあとどれくらいデスか?」
「も、もう少しで抜けると思うのですが」
「なら、もうメグだって全力出しマース! シュート! シュート! アッチ行けデス! アハハハハ!」
投石にメグさんも加わり、僕たちは死力を尽くして戦い始める。
しかし、石をぶつける程度ではオオカミもなかなか引いてくれない。事態は消耗戦の様相を呈してきた
「がんばれ……、みんながんばれ~……!」
ひかりちゃんは祈るようにみんなを応援する。
そんなひかりちゃんの周りに集まるオオカミを、僕は何度も何度も退けていく。
「アー、もうなくなっちゃいマシタ。弾切れ早いデース」
「はい、メグさん、ツール出して」
「……ありがとデス。でも、メグもういいデース」
「え?」
激闘の最中、突然メグさんは攻撃手段を要らないと言い出した。
驚く僕に、メグさんは困ったように笑う。
「そんな顔しないでクダサーイ。メグは諦めたわけではないデス。むしろ逆デース。メグが下手なテッポー撃ってると、センパイが足を引っ張らてしまいマース」
メグさんのその言葉に、僕は言葉を失った。
気分が乗って集中したときには驚くほどの才能を見せてくれるメグさん。
彼女はその観察眼で、自分と僕との射撃の命中率を知ってしまったみたい。
「センパイも玖音もすごいデース。これ、弾はまっすぐ飛んでいかないデスし、出てから当たるまでも時間はかかりマース。メグには上手に当てることが出来なかったデス」
人間が石を投げるのを、ツールが代わりにやってくれているような今の状況。
火薬を使って弾丸を撃ち出す銃とは違い、石は放物線を描いて落下していくし、速度も遅くて着弾までにかなりのズレがある。
しかも、相手は素早く動くオオカミだ。メグさんはゲーム初心者だし、いきなり僕たちと同じように当てるのは難しかったみたい。
彼女のセンスなら、きっと少し練習すればすぐに命中させられるようになるとおもうけど、今のメグさんは大人しく身を引くことを選んだみたい。
僕はそんなメグさんの前で、左右から同時に迫り来るオオカミたちに素早い動きで命中弾を送り込んだ。
「じゃあメグさんには、はいこれ。今はちょっと弾を補充してあげる時間がないから、これで許してもらえるかな?」
そうして時間を稼ぎ、僕はすぐにアイテムを実体化させて、投げ槍の要領でメグさんに向けて放った。
ここで受け渡しに失敗しちゃうとすごく気まずい雰囲気になっちゃうけど、さすがは運動神経抜群のメグさん。走りながらも、戸惑いながらも、あっさりとそれを受け取ってくれた。
「ナイスキャッチ! そんな運動神経のいいメグさんは、それで近くに来たオオカミを追い払っちゃって! それなら弾切れの心配はないよ!」
そう言いながら、僕は今度は後方に向けて石礫を放つ。
メグさんに渡したのは、先端部分が燃えている、言わば柄の長いたいまつだ。
少々のことでは火が消えないように、燃えている部分も広範囲に長くなっている。
僕は再び前を向いて、メグさんに笑いかけた。
「――メグさんの周囲は、任せてもいいかな?」
自分が足を引っ張ってしまうと言っていたメグさん。
その言葉で、彼女は再び笑顔を取り戻した。
「任せてクダサーイ! おーぶねにのったつもりでオーケーデース!」
元々手に持っていたたいまつとツールを片付け、メグさんは両手で棒を操り始める。
ゲーム内ではたいまつもツールも目に見えないように片付けられるけど、リアルのハンドガン型のコントローラーはどうしたんだろう。ホルスターは用意していなかったから、ポケットにでも突っ込んだのかな。
「ふふ、メグちゃん、なんだかサーカスの人みたい」
「アー、センパイ、火、吹きたいデース! ボォー! アハハ!」
楽しそうに話すひかりちゃんとメグさんを見て、僕も笑った。
「お兄さん、石の追加お願いします!」
「わかりました!」
玖音さんに言われ、僕は笑顔は残しつつも気を引き締めた。
再びツールをぶつけ合い、そして今度は最後にお互い笑い合った。
「がんばれ~! みんながんばれ~! くおんちゃんがんばれ、メグちゃんがんばれ、お兄ちゃんがんばって~!」
そうして僕たちは薄暗い森を駆け抜ける。
オオカミに吠え立てられ、唸られ、飛びかかられたりしながらも。
予断を許さない状況が続いていたし、少しのミスもしちゃダメだというプレッシャーもすごかったけど、僕たちは一人の脱落者も出さずに走り抜けた。
思い出に残るゲームも多く体験してきた僕だけど、その日みんなと必死に駆け抜けた森は、僕の中で強く印象に残った。
「――ッ! 見えました! 最初の広場です!」
耐え忍んでいた僕たちに、ようやく終わりが訪れる。
待望の玖音さんの発言。最後の気力を振り絞り、僕たちはオオカミを追い払いながら広場へと走った。
「木材を片付けてある小屋に逃げ込んで! 中に入ればオオカミは手出しできない! 後ちょっとだよ!」
僕の声でみんなが走る。行きがけに倉庫代わりに建てた小さな小屋。
必要に迫られて何気なく作ったその建物だったけど、今はそれがとても頼もしく見えた。
「ひかりさんメグさん、先に入ってください! お兄さんも早く!」
小屋の前で玖音さんが反転し、僕たちの援護に回ってくれる。
僕は後ろから襲われることが増え、たびたび振り返っていた都合上少し遅れが出ていた。
「玖音さんも先に入ってて! もうそのツール、さっきの石で打ち止めなんでしょ?」
「――さすがですね。でも、ここでお兄さんがやられるくらいなら、鉄鉱石でも何でも大盤振る舞いして投げつけちゃいますよ!」
「……それは困った。せっかく持って返ってきたアイテムを使われると大変なので、僕もやられるわけにはいきませんね」
最後まで僕は笑みを浮かべながら、とうとう小屋の前へとたどり着く。
足を止めた玖音さんに、そして小屋に殺到するオオカミたち。
僕は最後だと念じて集中力を研ぎ澄まし、それらに確実に石礫を当てていった。
「入らせないよ。――玖音さん!」
「はい!」
そうして僕と玖音さんは息を合わせ、ほぼ二人同時に小屋へと体を滑り込ませた。
すぐにバタンとメグさんが扉を閉めてくれたので、僕は急いでツールを使い、扉を裏から補強し終えた。
「…………」
しばらくの間、小屋の中には女の子たちの荒い息遣いと、オオカミが吠え立てる声だけが流れた。
やがて彼女たちは顔を見合わせ、そして喜びを爆発させる。
「「「やった~!」」」
手を取り合い、小さく飛び跳ねながら喜ぶ三人。
僕もそんな彼女たちの姿を見て、大きく息を吐きながら腰を下ろした。
「ひかり、怖かったよ~。まるで本当にオオカミに襲われてるみたいだった。遠吠えも光る目も地面を駆けるオオカミの足音も、全部怖かったよ~」
「映画を見るのとは違いマスね。メグ、ホラー映画平気デスが、これからはちょっと怖くなってしまうかもしれマセーン」
「わ、私もメグさんに大見得切ったのはいいのですが、やっぱり前を走るのは怖かったです。情けない話ですよね」
ひかりちゃんたちがさっきの感想を話し始める。
僕は改めて息を吐いて呼吸を整えると、VRゴーグルを触ってメニュー画面を表示させた。
口下手な僕には、彼女らにかけてあげられる言葉は少ない。
だから僕には僕の出来ることをやって彼女らを労ってあげたいと思った。
幸い、表示された時間は悪くない時間だった。
僕はキャラクターを操作するとツールの中身を近くの収納箱に移し、彼女らに声をかけた。
「玖音さんもメグさんも、ご飯食べていきませんか? 今から作ることになりますけど、頑張って作りますので」
その言葉にひかりちゃんたちはお喋りを止め、僕のことを見つめてきた。
そしてメグさんは嬉しそうに、玖音さんは申し訳なさそうに言った。
「ワォ、いいのデスか?」
「本当に、構いませんか?」
こういうときの日本語って面白いよね。
無意味なやり取りに思う人もいるかもしれないけど、僕は嫌いじゃないんだよね。
「もちろん」
笑いながらそう頷き、そして僕はログアウトのための説明を始めた。
「じゃあ僕はこのまま先に落ちますので――ゲームの世界から元の世界に戻りますので、皆さんは家とか作って遊んでてください。出来たら呼びに来ますね」
どうしてもご飯を食べてもらいたかった僕は、他の意見が出る前に話を進めようと考えていた。
「僕の持っていた石材等のアイテムはここに片付けておいたので使ってください。あ、あとこの小屋は安全だと思うので睡眠システムを使って朝に出来ますよ。詳しいことは玖音さん、お願いしても構いませんか?」
「は、はい」
やや強引ではあったけど、僕は説明を終え、頷いた。
言いたいことはすべて言った。後はゲームからログアウトして、ご飯を作るだけだ。
「それではお願いします。――みんなお疲れさま、楽しかったよ。遊んでくれてありがとう」
僕はそう言ってメニューを操作すると、ゲームを終了させてVRゴーグルを脱いだ。
「(楽しかった……。他の人はどうだったかな? ちょっと終わり方が唐突だったかな?)」
そんなことを考えながら、僕はゴーグルとコントローラーをマットの上に置いてキッチンへと向かい始めた。
楽しかったのは本当だったし、少々唐突に僕がいなくなったとしても、ひかりちゃんたちのコミュニケーション能力ならすぐにまた盛り上がれると思う。
そうして数歩進んだところで、僕は義妹の女の子に呼び止められた。
「お兄ちゃん」
驚いて振り向く僕。
ひかりちゃんもVRゴーグルを外して、僕に向かって駆け寄ってきていた。
「(そういえば夕飯のリクエストを聞いてなかった。失敗しちゃったな)」
僕はとっさにそう考えたけど、同時にその時、ひかりちゃんの顔がひどく真剣な顔付きだったのに気付いた。
その表情を見て息を呑む僕に、ひかりちゃんは飛びつくようにして抱きついてくる。
「まだ行かないで」
そう言って離すまいとするかのように、体に手を回してしっかりと僕にしがみつくひかりちゃん。
行かないでと言われても、これからご飯を作らなくちゃ。そんな言葉が出かかった僕だったけど、次の瞬間ハッと息を呑んだ。
ひかりちゃんは僕に抱きついたまま、小刻みに震えていた。
「ご、ごめん。怖い思いさせちゃったかな? ゲームだけど、臨場感あったよね。オオカミの遠吠えとか光る目とか不気味だったし」
僕がそう言うと、ひかりちゃんは顔を押し付けてきたまま無言で首を振った。
「あ、ああ、じゃあ僕がすぐにいなくなったのがダメだったかな? あれは別にひかりちゃんを置いていこうと思ったわけじゃなくて、みんなに早くご飯を作ってあげたくて――」
「うん……」
今度はひかりちゃん、僕の言葉に返事をしてくれた。
しかし、僕の行動原理は理解してくれているみたいだけど、それでもさっきからピッタリとくっついて来ていて離してくれそうにない。
どうしようかと迷い始めた僕の視界に、スーッと背筋が冷たくなっていくような光景が映った。
玖音さんもメグさんもVRゴーグルを脱ぎ始めていて、今からでもこちらに歩いてきそうな状況になっていたのだ。
「わ、わかってくれたのなら離してくれないかな。僕はいなくなったりしないし、これからひかりちゃんにも美味しいご飯を作ってあげたいから、ね?」
僕は伝家の宝刀っぽく美味しいご飯という言葉を使ったんだけど、信じられないことにそれは逆効果だったみたい。
ひかりちゃんはますます強く僕を抱きしめ、言った。
「ひかり、そうやってお兄ちゃんが遠くに行っちゃいそうで怖くなったの。だからもうちょっとこのままがいい」
「ど、どこにもいかないって、ね? 大丈夫だから」
だけど、そんな僕の説得は間に合わなかった。
柔らかな優しい微笑みを湛え、玖音さんとメグさんが側にやってくる。
これは恥ずかしい。そう思った僕に、ひかりちゃんは驚くようなことを言い始めた。
「ひかりね、思ってたの。帰る途中で誰かがいなくなるとしたら、真っ先にお兄ちゃんがいなくなるんじゃないかって」
その言葉は、僕の心臓を強く突いた。
ひかりちゃんのその考えは当たっていた。誰かが犠牲にならなければいけない場合が出てきたら、僕は真っ先にその役を買って出るつもりだった。
それは人生において必要な取捨選択だとは思うけど、心優しいひかりちゃんには辛い選択だったみたい。
「見破られてしまいましたね、お兄さん」
「センパーイ、そんなこと考えていたんデスか? 相変わらず、やさしーヒトデスね」
玖音さんとメグさんに言われ、僕は顔が真っ赤になってしまった。
そこへ、ひかりちゃんが再び気持ちを伝えてくる。
「あとね、やっぱりひかり、逃げてる時は怖かった。でも一番怖かったのは、お兄ちゃんが一番にやられちゃうかもしれないこととかオオカミとかじゃなくて、怖いと思ったときにお兄ちゃんに触れられないことだったの」
そう言ってひかりちゃんは、改めて僕を抱きしめる手に力を込めた。「だから今は行かないで」とも付け加えてくる。
僕は本当に恥ずかしかったけど、かと言って押しのけるわけにもいかず、所在なさげに頭を掻いた。
「ヒカリはお兄ちゃんっ子デース!」
「み、見ている私まで恥ずかしくなってきました」
「オゥ、ならこうすればいいのデース!」
ほとんど思考が止まっていた僕に、突如メグさんが両手を広げて飛びかかってきた。
声を出す間もなく、ひかりちゃんされているのと同じように、僕はメグさんにも抱きしめられてしまった。
「わあああ、め、メグさん、離れて、離れてください……!」
「どうしてデース? メグも怖かったデース。ゲームのこと侮ってマシタ。こんな体験も出来るのデスねー」
僕が言っても離れてくれないメグさん。
ひかりちゃんも玖音さんも、止めてはくれなかった。
むしろひかりちゃんは落ち着いてきたのか、抱きしめる力を弱めて、リラックスした感じで僕の体に額を軽く押し当てていた。
「く、玖音さん、なんとか言ってあげてください。助けてください。お、お願いします」
最後の頼みの綱として玖音さんにお願いするも、玖音さんにとってはその光景は刺激的だったのか、口を開こうとはしてくれたけど、結局頬を赤くしたまま視線をそらしてしまった。
「(どうして僕なんかがこんなことになってるの? 恥ずかしすぎて本当に心臓が痛いくらいなんだけど)」
僕は頭の中が真っ白になりながらも、天井を仰ぎ見てそう思った。




