彼女と買い出し
お母さんが帰ってこなくなっても、ひかりちゃんに変化はなかった。
最近のひかりちゃんは、学校から帰ってきたら僕と二人で予習復習して、その後はゲームしたりたまに友だちから電話がかかってきたりという生活パターンが出来上がってきている。
僕の方もそれなりに新しい生活に慣れてきたと思うけど、まだまだ慣れないこともいくつかある。
その中でも地味に大変なのが、二人で行く買い物だ。
「ねえねえお兄ちゃん、今晩は何を作ってくれるの?」
道行く人の誰もが振り返るような美人、というのはよく聞く表現だったけど、実際にそんな現象が起こるとは思わなかった。
さすがに全員が振り返って確認するようなことはないけど、軽薄そうな大学生がひかりちゃんに気付いて慌てて振り返ったりするのを見ると心臓がドキドキしてくる。
そんな感じで、ひかりちゃんは人々の視線を吸い寄せちゃう美貌の持ち主だ。
本人は全然気にしてないようだけど、隣にいる僕は気が気じゃない。
「ひかりちゃん、やっぱり外でお兄ちゃんは止めない?」
「どうして? お兄ちゃんはお兄ちゃんだもん」
ひかりちゃんは家の外では小さめの声で話してくれるけど、それでもやっぱり誰かに聞かれちゃったらと考えるとお兄ちゃん呼びは恥ずかしい。
「……きょ、今日は人が多そうだし止めよう?」
全然根拠がない、人が多そうという理由でひかりちゃんを説得しようとする僕。
でもひかりちゃんはいい子だから、僕がお願いすると一度はちゃんと聞いてくれるんだ。
「ぶ~。わかった~。……じゃなくて、わかりました、空さん」
不満そうではあるけれど、ひかりちゃんは子どもっぽい口調を止めて丁寧語で話し始めた。
「その代わり、美味しいご飯を作ってくださいね?」
なんだか別人と話しているようでビックリしちゃうけど、彼女はお嬢様学校の生徒だから、こういう話し方もお手の物みたいなんだよね。
「ひ、ひかりさんは何が食べたいですか?」
彼女に合わせて、僕も口調を変えた。
ひかりちゃんはさらに不満そうになったけど、今回は諦めてくれたみたい。
「プリンアラモードです」
いや、全然諦めてくれてなかった。不機嫌なのを隠そうとしないようだ。
「も、もうちょっと夕飯的なメニューでお願いします」
「私は空さんの作るものでしたら、何でも美味しく食べられます」
僕の質問にはまともに答えてくれないのに、さっきからひかりちゃん、いつも以上に僕の隣にピッタリくっついてきてる。
これだとなんだか、喧嘩している恋人みたいに見られちゃうんじゃ……。
「もう少し具体的に……」
「うーん、私、本当に空くんの作るものならなんでもいいよ~」
ひかりちゃん、あっという間にほとんど元の口調に戻っちゃった。
彼女が背筋を伸ばして丁寧に喋ると、グッと大人びて見えるからそれはそれで好きなんだけどなあ。
「じゃあ僕が売り場を回ってみて、良さげな品があればそれで作るね?」
「うん、それでお願いします。楽しみ~」
「だからひかりちゃんは、もうちょっとだけ離れてね?」
「ぶ~」
ひかりちゃんは口調も性格も子どもっぽいところがあるけれど、味覚に関しては好き嫌いを言わない。
本当はレバー系が苦手だったりと嫌いなものもあるらしいけど、出されたものは文句を言わずに食べてくれるんだよね。
「生クリーム、卵、牛乳……」
「ねえ空くん」
「はい!?」
僕が買い物かごに品物を入れてると、ひかりちゃんが声をかけてきた。
思わず声が裏返っちゃったけど、ひかりちゃんは別の方向を見ていた。
「マグロフェアだって~」
「ま、マグロかあ……」
今日のメニューは洋食系にしようと思ってたんだけど、マグロが目に付いちゃったか~。
ひかりちゃんにはサプライズを仕込みたいけど、ここでまぐろを避けたら不自然かな?
「わかった。見に行ってみよう」
「うん、いこいこ」
「だ、だから腕を引っ張らないでってば」
「ぶ~ぶ~」
ひかりちゃんに腕を掴まれながら、食品売り場を移動する僕。
彼女を連れての買い物は、やっぱり僕には恥ずかしいなあ。
◇
「ひかりちゃん、おまたせ」
「お~……」
少し時間がかかっちゃったけど、その日の夕食はマグロメインで洋食っぽく作ってみた。
マグロのカルパッチョサラダに、マグロのレアステーキ、マグロのミニポキ丼、生クリームを使ったポタージュ。
全部小さめに作ってあるから、これならひかりちゃんも食べられるよね?
ちなみにポキとは、魚介の切り身を調味液等で和えたハワイ料理。今回のポキはアボガドは使っていない低カロリー仕様。
他にも全体的にカロリーを抑えるようにしたつもりだけど、食後のことを考えたら、カロリーオーバーになるのかな?
ひかりちゃんをぶくぶく太らせちゃったらどうしよう。やっぱりポタージュからは生クリームを抜くべきだったかなあ……。
「いただきます!」
僕の苦悩をよそに、ひかりちゃんがペコリと頭を下げて食事を始めた。
一口食べたとたんに、目を見開いて顔をほころばせるひかりちゃん。
「美味しー!」
元気良く感想を言ってくれるひかりちゃん。
料理を作ってよかったと思える瞬間だよね。
「酸味はどう? 好みが分かれると思うけど」
「うーん? わかんない! 美味しい!」
ひかりちゃんは美味しいものを前にすると、たまに会話が成り立たなくなったりする。
そこまで僕の料理に夢中になってもらえるのは嬉しいけど、料理の改良点を探そうとするときにはちょっと困っちゃう。
「ステーキの焼き加減はそれでいい?」
「うん、美味しい!」
「ポタージュの黒胡椒は隠し味にしすぎた? 少なすぎ?」
「うん、美味しい!」
「ポキは香辛料とか油の香り大丈夫?」
「うん、ポキってなんだかわかんない!」
「ええと……、ゆっくり味わって食べてね?」
「はーい!」
もうひかりちゃんの食事の邪魔は止めておこう。
僕はそう思った。
僕の向かい側で、もぐもぐと美味しそうにご飯を食べるひかりちゃん。
結局料理の感想は美味しいとしか言えてもらえてないけど、それでもこんな風に綺麗に美味しそうに食べてもらえると、それだけで満足出来ちゃうよね。
けれども、そんな感じで和やかに進んでいた食卓に、突如無機質な電子音が響いた。
「あれ、ひかりだ。お兄ちゃん、ちょっといい?」
「どうぞ」
ひかりちゃんが、自身の腕に付けたスマホを確認する。
「お父さんからのメールだった~」
「今内容を確認してもいいよ? 急ぎの内容だったら大変だし」
「うーん……。いいや、お兄ちゃんのご飯が先~」
哀れお父さん。
ひかりちゃんはあっさりとメールを後回しにすると、再び幸せそうに食事を再開させた。
「……ごちそうさまでした! お兄ちゃん、今日もありがと~」
僕はそれには返事を返さずに、メールのことを話題にした。
「じゃあそろそろ、お父さんのメール読んであげたら?」
「わかった~」
先日送られてきた僕のお母さんからのメールも、それなりに緊急性の高いものだった。
僕は嫌な予感がしていた。今回のメールも、何かが起こりそうな気がしていたんだ。
「えっ?」
ひかりちゃんが驚いたような声を上げる。
やっぱり不安は的中したみたい。ひかりちゃんは表情を強ばらせながらメールを読み進めていく。
「お、お兄ちゃん……」
「落ち着いてひかりちゃん、メールには何が書いてあったの?」
青ざめるひかりちゃんを見て僕自身も混乱してしまいそうになるけれど、なんとか頑張ってひかりちゃんにメールの内容を尋ねた。
するとひかりちゃんは、震える声で僕にそれを告げた。
「ひかりが、新しく入れそうな寮が見つかったの」
それを聞いた僕がまず最初に思ったことは、「とうとうこの話が来たか」だった。
ひかりちゃんは元々一時的に預かっていただけだとは聞いていた。最初から彼女が入る寮は探していたみたいなんだ。
なんとなくズルズルとこのままの生活が続くような気がしてたけど、やっぱりひかりちゃんはちゃんと寮に入れた方がいいと判断されたのかな?
寂しくなるなあ。これから僕とひかりちゃんの関係はどうなるんだろう?
そんな感じで僕の気分は凹んでいったんだけど、どうやらひかりちゃんが青ざめていたのは別のことだったみたい。
彼女は悲痛な面持ちで僕に言ってきた。
「お父さんが、ひかりはお兄ちゃんの重荷になっているから、早く寮に行きなさいって……。ひかりは甘えているだけだって……」
僕は理解した。お父さんのその言葉が、ひかりちゃんの心に突き刺さったみたい。
女の子としての振る舞いはしっかりしてるけど、家事が出来ないひかりちゃん。僕に甘えていると言われてしまい、ショックを受けちゃったようだ。
「ひかり、やっぱり寮に行ったほうがいいよね……」
俯いて、小さな声でつぶやくように喋るひかりちゃん。
背中を丸めて肩を小刻みに震わせて、今にも泣き出しそうな雰囲気だった。
僕は口下手だし、面と向かって寮に行けと言えるような性格じゃないのはひかりちゃんもわかってると思う。
だからここで重荷じゃないと言っても、ひかりちゃんは僕の性格上そう言わざるを得なかったと考えちゃうかもしれない。
結局僕は、何も答えずにテーブルから立ち上がった。
すぐに潤んだ目で、不安そうに僕を見上げるひかりちゃん。
僕は彼女に、笑って言った。
「ねえひかりちゃん、デザートはまだ食べられる?」
突然の僕の台詞に目を丸くしたひかりちゃんだけど、彼女は素直に首を縦に振った。
それを見た僕は、歩いて冷蔵庫へと向かう。
「時間ギリギリだったし、果物も缶詰が多いけど、許してもらえるかな?」
僕はそう言いながら、冷凍庫からバニラアイスを取り出した。
次に冷蔵室で冷やしてあったある物を取り出してきて、バニラを少しだけ掬って添える。
後は、これまた市販品で悪いけど、クッキーやらいろんなお菓子を乗せて、最後に荒く砕いたアーモンドをまぶして完成だ。
僕は出来上がった物を持って、ひかりちゃんの前に戻る。
「はい、プリンアラモード。ひかりちゃん、食べたいって言ってたよね?」
ますます潤んできた瞳で、僕を見上げるひかりちゃん。
そんなに見つめられると気恥ずかしいから、早く食べ始めて欲しいな。
「市販品も多いけど、プリンは全部僕が作ったし、生クリームもいい感じに仕上がってると思う。冷たいうちに食べちゃってね」
僕が右手のひらでスプーンを指すと、ひかりちゃんは手を震わせながらそれを手に取った。
改めてもう一度お皿を指し示してあげると、ひかりちゃんはゆっくりとプリンを掬い、口に運んだ。
「僕はひかりちゃんのことを重荷だなんて思ってないよ。そのことは、これを食べてもらえれば信じてもらえると思う」
嫌々ひかりちゃんを預かっているなら、わざわざ手の込んだデザートなんて作らないはず。
せいぜい、目の前で完成品を買ってあげるくらいだと思う。
今回の僕が作ったデザートは市販品等の手抜きも混ざってるけど、それでも限られた時間でこっそり作ったんだ。
ひかりちゃんのことを面倒だと思っているなら、絶対に出来ない芸当だと思う。
「美味しい……!」
果たして、僕の気持ちはひかりちゃんにちゃんと伝わったみたい。
けれどもひかりちゃんは、ちょっと大げさに受け止めすぎちゃったのかな?
彼女は一口プリンを味わうと、そのまま目を閉じて、一筋の涙を零しちゃった。
慌てて僕は、洗ったばかりのハンドタオルをひかりちゃんの頬にそっと当てる。
「ひかり、ここにいてもいいですか?」
「もちろん。一緒にお父さんを説得する?」
僕がそう答えると、とうとうひかりちゃんは本格的に泣き出しちゃった。
彼女は「お父さんは大丈夫」と言って、涙を流しながら微笑む。
「お兄ちゃんも一緒に食べよ。アイス溶けちゃう」
やっぱりひかりちゃんはボロボロと涙を零しながら、それでも笑って僕に言う。
僕はどうしようか迷ったけど、ひかりちゃんに促されたので自分の席へと戻った。
「美味しいね」
ひかりちゃんはまだ涙を拭きながらだったけど、それでも幸せそうに笑っていた。
だから僕も笑顔を返した。それ以降は二人とも何も喋らず、たまに微笑みかけるだけで静かにデザートを食べ続けた。