信じることの難しさ
ひかりちゃんが三日連続で帰りが遅くなる、その最初の一日目。
僕はある決心をして、学校の帰りに寄り道をしていた。
本当はまだひかりちゃんと一緒に買い物したときのやつが残っているんだけど、今日はそれじゃ足りなかった。
僕は学校で作ったメモを見直しながら、必要なものを買い揃えていく。
「(ひかりちゃんがいないって寂しがるより、ひかりちゃんが帰ってきたら喜ぶだろうなって思いながら待ってた方が建設的だよね)」
僕は休み時間に立てた綿密な計画を実行に移そうとしていた。
ひかりちゃんが帰ってくるまではまだ時間があるけれど、僕がやろうとしていることは時間がいくらあっても足りなかった。
「(さあ、忙しくなるぞ……!)」
自分でも試したことがない未知の挑戦。
僕はその日、ひかりちゃんに満漢全席――とまでは言わないけど、様々な料理を振る舞ってあげようと思っていた。
「ただいまー、ごめんなさい、遅くなっちゃった~!」
時刻は夕方の六時をわずかに過ぎた頃。
僕を癒やしてくれる綺麗な声が聞こえてきた。
僕は夕飯の準備を止め、手を洗い始める。
窓を見ると、外はまだ明るかった。夏前のこの時期は日の出ている時間が一番長い時期に当たる。
「おかえり、ひかりちゃん」
エプロンをしたまま、僕はすぐに玄関に顔を出した。
僕の姿を見つけると、途端にニコッと笑顔になるひかりちゃん。
「ただいま、お兄ちゃん。遅くなってごめんね?」
遅くなったと言っても、夕食にも遅れてないし、外も暗くなっていない。
そして僕は、ひかりちゃんを叱る気持ちなんていつだって持ち合わせていない。
「ううん、ご飯もまだ全部は出来てないし、全然遅くはないよ」
「ひかり、すぐに着替えてテーブル拭くね?」
「急がなくていいからね」
「はーい!」
手洗いをして、ひかりちゃんは自分の部屋へと戻っていく。
二時間ほど立ちっぱなしで動き回っていた僕は、疲れから少し息を吐いた。
でも、肩を回して気合を入れる。
最後の仕上げだ。これ以上料理は追加できないけど、もう軽く三十品以上作ったし大丈夫だよね。
「わぁ……、すごい……」
実はひかりちゃん、僕が学校帰りに一人で買い物を済ませてきちゃうと、ものすごーく不機嫌になっちゃうんだよね。
でも、さすがに自分がいないときは例外みたいで、今日は何も言わずに僕の出す料理を眺めていた。
大人数でビュッフェを始めるかのような品数が、テーブルに所狭しと並んでいく。
一品一品は量を少なめにしてあるし、味も単調にならないように思い付く限りのいろんな文化の料理を取り入れてみた。
「あはは、なんとなく色々試したいかなって思ってたら、こんな量になっちゃった。もちろん食べ切れないと思うから、残してくれていいからね」
最初は料理が並んでいくのをキラキラと目を輝かせて見ていたひかりちゃん。
だけど、僕のやる気は空回りしちゃったみたい。料理が並んでいくにつれて彼女の表情は陰っていき、全部並べ終わる頃には元気なひかりちゃんはどこかへ隠れてしまっていた。
「……お兄ちゃん」
「な、なに?」
いつもなら、すぐに大きな声でいただきますと言ってくれるはずのひかりちゃん。
だけどその時のひかりちゃんは、不安そうな表情で、僕を真っ直ぐ見つめながら問いかけてきたんだ。
「こんなに豪勢な料理を作ってくれたのは、ひかりが明日明後日とお兄ちゃんのご飯を食べないせい?」
普通なら「今日は何かの記念日?」みたいにワンクッション置くのかもしれないけど、ひかりちゃんはそんな過程をすっ飛ばしていきなり本題に切り込んできた。
自分自身のことをそのままひかりと呼んでみたり、結構大胆に人との距離を詰めたりするひかりちゃん。
そんな彼女は他人の機微に疎いように見えるかもしれないけど、そんなことは決してない。
出来るだけ表には出さないように気を付けていたつもりだけど、昨日今日と僕はひかりちゃんのことが心配で普通じゃなかった。彼女もそのことを薄々勘付いていたのかも。
動機の大半を言い当てられてしまった僕は、困ったように笑った。
「ほとんどがひかりちゃんの言うとおりだけど、ひとつだけ正反対に間違えてるよ」
「え?」
「ひかりちゃんのせい、じゃなくて、ひかりちゃんのおかげ、だよ。今回のひかりちゃんのことがキッカケで、僕はこんな風に実験と練習を兼ねた料理を作る気になったんだ」
「…………」
ひかりちゃんは僕の言葉に返事を返してくれなかった。
真剣な目つきで、僕の真意を見極めるようにジッと見つめてくる。
「う、嘘じゃないよ。余った料理は明日と明後日で僕が食べるんだ。冷めた料理はお弁当の参考になるからね。新しいお弁当のメニューに繋がってくると思う」
慌ててそう付け足しても、ひかりちゃんは僕から視線を動かさなかった。
僕は狼狽えながらも、なんとか言葉を続ける。
「ご、ごめんね。今日の僕は暴走しちゃってたみたい。これじゃ好意の押し付けだったよね」
それは思わず口から出た発言だったけど、口にした瞬間にストンと腑に落ちてしまった。
僕はいきなりこんな量の料理を出されたひかりちゃんのことを考えてなかったみたい。自分で言ったとおり、これじゃ好意の押し付けだ。
「う~……」
ひかりちゃんは僕の言葉を聞いて、ますます機嫌を悪そうにしてしまう。
彼女の表情の変化を見て、僕は一層縮こまった。
だけど、次に彼女の口から飛び出してきた言葉は、機嫌が悪いときとは真逆の言葉だった。
「押し付けじゃない。とってもとっても、とーっても嬉しい」
今も頬を膨らましながら、ひかりちゃんは嬉しいと言う。
僕がその言葉に驚いていると、彼女はなおも不機嫌そうに言った。
「いただきます!」
「ど、どうぞ」
ひかりちゃんはその宣言通り、モリモリと僕の食事をいただき始めた。
彼女の言動に僕が気圧されていると、やがて彼女がポツリと言った。
「ひかり、今日は太ってもいいから限界まで食べる」
「えええ?」
ひかりちゃんはスタイルやら美容やらには特に気を使っていると思ってたんだけど、そんな彼女から太ってもいいだなんて言葉が飛び出してくるなんて。
「ひ、ひかりちゃん、後で後悔しちゃうよ。健康のためにも止めたほうがいいし、僕だって無理して食べてもらうのは心苦しいよ」
慌ててそう言う僕。
でも、いつものひかりちゃんならちゃんと聞いてくれるはずなのに、その時のひかりちゃんは全然聞いてくれなかった。
「ヤダ」
「ヤダって……」
「ひかり、お兄ちゃんの好意が押し付けじゃないって証明するんだもん。言葉だけじゃなくて、ちゃんと行動でも証明するんだから!」
そう言って、丁寧にではあるけれど次々料理を食べていくひかりちゃん。
でも、ある一品を食べた瞬間、彼女の手が止まっちゃった。
「あぅ、これ、特に美味しい……」
なぜかションボリとしながら言うひかりちゃん。
そうしてなぜか悔しそうに、彼女は一口一口僕の料理を噛みしめていく。
僕はそんな彼女に苦笑しながら、そして反省しながら話しかける。
「ごめんね。押し付けがましいって僕が判断したのも、また早とちりだったみたいだね」
「……うん」
さっきとは打って変わって、小さく沈んだ声で話すひかりちゃん。
彼女は口の中のものを飲み込むと、体を小さく丸め、僕を窺うような上目遣いを見せた。
「ねぇお兄ちゃん、無理してない?」
僕はひかりちゃんの前で彼女を心配させちゃうようなことはしたくなかったんだけど、その言葉でピタリと体を硬直させてしまった。
「お兄ちゃんは優しいからひかりに何かを言ってきたりしないし、ひかりもバカだからお兄ちゃんの気持ちはわかんないよ。お兄ちゃん、辛いことがあるならひかりに言ってね?」
彼女の優しい言葉に、乾いた笑みを浮かべる僕。
でも、やっぱり僕の中ではひかりちゃんを心配させたくないという気持ちが強くて。
口から出てきたのは、彼女に安心してもらおうというフォローの言葉だった。
「今日の料理は本当に、今後のことも考えてたんだよ。お弁当のレパートリーを増やしたかったし、作り置きの練習もした方がいいかなって思った。それに、これを言うとひかりちゃんが気を遣っちゃうかなって思って言わなかったけど、僕は明日明後日料理の手間を減らすことが出来るからね」
その発言にひかりちゃんがどういう反応を示すのかはわからなかったけど、驚いたことに彼女は再び芯の入った真剣な目つきになって、僕にすぐに言ってきた。
「うん、それは信じてる。でも、お兄ちゃんが無理してるのもホントだと思う」
やっぱりひかりちゃんはバカなんかじゃない。
ちゃんと他人の気持ちがわかる聡い女の子だと思う。
いつの間にかひかりちゃんは姿勢をちゃんと正し、心配そうに僕をまっすぐ見つめてきていた。
僕の頭の中に、ある一つの考えが浮かんでくる。
「(今ならひかりちゃんの、僕と兄妹になりたくないって発言のことが聞けるんじゃない?)」
事の発端となったひかりちゃんの発言。
僕はもうそれほど恐れてはなかったけど、お母さんにまだちゃんとした報告は出来ていない。
後顧の憂いを断つためにも、ここでハッキリと聞いておいた方がいいんじゃないかな?
「お兄ちゃん、やっぱり何か心当たりがあるんだね?」
僕のことを心配してくれる、可愛い妹候補のひかりちゃん。
大丈夫だと思っていた自分の心に、やっぱり彼女にちゃんと聞いてみたいという気持ちが湧き上がってくる。
でも、僕は。
ずっとボッチ属性だった僕は、これからの人生を左右する話なんて、一度も切り出したことがなかった。
もし、万が一にでもひかりちゃんが今ここで兄妹にはなりたくないと言ったら。
僕は体が震えてくる。食卓は気まずくなり、目の前の料理も食べてもらえなくなるかもしれない。
人と関わることを避け続けてきた僕は、ここでも逃げる選択をしてしまう。
そうだ。ひかりちゃんが僕と兄妹になりたくないってことなら、僕は受け入れるしかないじゃないか。ひかりちゃんの選んだ道を、僕なんかが変えることは出来ない。
「(それに、まだ兄妹になりたくないって決まったわけじゃない。今もこんな風に僕のことを心配してくれるひかりちゃんが、僕を嫌ってるわけないじゃないか)」
ひかりちゃんのことを信じよう。
その言葉が思い浮かんだ瞬間、僕は自然と笑っていた。
「大丈夫。僕は少し寂しがってただけみたい。今こうしてひかりちゃんに心配してもらって、安心したよ」
僕の穏やかな口調と表情に、ひかりちゃんは驚いて目を見張った。
けど、またすぐに心配そうな顔付きになって、僕に恐る恐る問いかけてくる。
「ホントに、だいじょうぶ?」
僕は一瞬だけ頭の中で考えると、その時の僕の精一杯の言葉で返事をした。
「大丈夫。だってひかりちゃんは、これからも僕のご飯を食べてくれるんだよね?」
ひかりちゃん、またも驚いて目をまんまるにしちゃったけど、すぐに彼女の魅力たっぷりの元気な笑顔に戻ったんだ。
「もちろん! ひかり、お兄ちゃんのご飯大好き!」
彼女の名前そっくりの、まばゆいくらいの発言だった。
僕は自分の心が浄化されていくような、暖かく包み込まれていくような気持ちになる。
「ありがとう。だから、僕はもう大丈夫だよ」
顔を赤くして、彼女から視線を外しながら僕は答えた。
話の途中だったけど、照れくさくなって軽く食事をつまんだ。
「……ひかり、お兄ちゃんの言葉、信じてもいい?」
軽く首を傾げながら、やはり上目遣いで心配そうに僕を見るひかりちゃん。
僕は彼女の目を見返すことは出来なかったけど、すぐに力強く頷いた。
「うん、ひかりちゃんがいれば、僕は大丈夫だよ」
そう言ってから、とてつもなく恥ずかしい発言をしてしまったことに気付く。
僕は顔を赤くしつつも背筋が凍るような気持ちになっちゃった。
でも、ひかりちゃんはようやく本当に機嫌を直してくれたみたい。
嬉しそうな声で、僕に言う。
「わかった~! ひかり、明日と明後日はいないけど、明々後日からはまたお兄ちゃんと一緒にいるね! そして、お兄ちゃんにご飯食べさせてもらう~!」
よくよく考えたら、ひかりちゃんもすごい発言をしてると思う。
でもまあこれが僕たち兄妹の形なんだし、別にいいよね。
「美味しく食べてもらえるように頑張るよ」
「はーい!」
そこでひかりちゃんは、改めて「いただきまーす!」というと、食事を再開させた。
満面の笑みで食事を頬張るひかりちゃん。僕も食欲が出て大きめのローストビーフを口に放り込んだ。
「でも、そっか~。お兄ちゃんは寂しかったんだね~」
ご飯の合間にひかりちゃん、そんなことを言い出し始めた。
僕としては早く忘れてもらいたい話題だったけど、彼女は楽しそうに言葉を続けていく。
「ホントはいけないことなんだろうけど、ひかり、お兄ちゃんに寂しいって思ってもらえて、嬉しいな」
やっぱりひかりちゃん、その会話は止めてもらえないかな。恥ずかしくてたまらないよ。
僕がその気持ちを実際に口に出そうかと思っていると、ひかりちゃんはさらにとんでもないことを言い始めた。
「じゃあお兄ちゃん、今日から一緒に寝よ?」
そこで吹き出さなかった僕は、なかなかに偉いと思う。
けれども、思いっきり喉を詰まらせちゃって、慌てて水をがぶ飲みした。
「ひ、ひかりちゃん、そういうのは恥ずかしいから止めようね?」
「え~? どうして~? 寂しくなくなるよ?」
それはたしかに寂しくはなくなるかもしれないけど、恥ずかしさやら緊張感で眠れなくなると思う。
「そこまでしてもらわなくても、僕は大丈夫だからさ……」
「ぶ~」
ひかりちゃんは(驚いたことに本気で)不満そうだったけど、また笑顔に戻ると話し始める。
「でもそれにしても、そっか~。お兄ちゃんも、ひかりがいないと寂しいって思ってくれるんだね」
すぐに目をそらして、食事に戻っていく僕。
彼女はニコニコしながら、また上品に食事を口に運ぶ。
「今日のご飯も美味しいね、お兄ちゃん!」
照れくさかった僕は曖昧に笑い、頷いた。
その日はそれからちょっとゲームをして遊んで、ひかりちゃんの明日明後日の準備のために別れた。
いつもより早い時間に一人になった僕だったけど、寂しい気持ちはコントロール出来ていたと思う。
彼女は僕を嫌っていない。少し離れていてもまた僕のところに戻ってきてくれるみたい。
そのことを考えると、明日も明後日も余裕で乗り切れそうだった。
ひかりちゃんのことを信じる。
そう心に決めた僕は、前向きに明日からの一人の時間を捉えることが出来ていた。
しかし、僕はまだまだ甘かった。
信じるという聞こえのいい言葉を心の拠り所にしていた僕は、信じることの難しさを痛感することになる。
次の日の午前中。
授業の最中に届いた緊急を知らせるメールには、またしても信じられないことが書かれていた。
『空ちゃん、大変なことになりそうよ。ひかりちゃん、どうも本気であなたとは兄妹になりたくないみたいね。お父さんが心配して、寮に入れる手配をしてもいいかって聞いてきたわ』




