告げられる悪夢の言葉
平日の学校の昼休み。
僕は幸福の絶頂から突き落とされたような気持ちを味わっていた。
その切っ掛けはお母さんから届いたメール。
そこには信じられない内容が書かれていた。
『空ちゃん、あなた何したの? ひかりちゃんがあなたと兄妹にはなりたくないと言い出しているそうよ?』
人間は文字を読むだけで、ここまで体調を崩せるものなのかとビックリした。
それを読んだ僕は体中から一気に冷たい汗が吹き出してきて、足元から自分が崩れ去っていくような気持ちになった。
メールには他にも書かれていたけど、後半はお母さんの愚痴のようなものだったので無視した。
僕は震える自分の体を押さえながら、すぐにそれに返信を返す。
『僕にはさっぱり見当が付かないよ。今日もひかりちゃんはいつもと変わらないようだったし、朝も笑顔で僕を送り出してくれたんだけど』
お母さんの誤解だったらいいんだけど、どうやらひかりちゃん、昨日のお父さんとの定期連絡の時にハッキリとそう言ったらしい。
『本当に? 女の笑顔は怖いわよ? 内心ではひかりちゃん、腸煮えくり返っているんじゃないの?』
お母さんはとんでもない言葉を送りつけてきた。
状況も状況だし、僕のような小心者は、それだけで女性不信になってしまいそうになるから止めてほしい。
『もしそうだとしたら、僕にはお手上げだよ。僕にはいつものひかりちゃんと見分けが付かなかったんだから』
そこで、隣の席の女の子が僕の異変に気付く。
でも彼女はまだ僕が誰かと連絡していることにも気付いているのか、遠慮して話しかけては来なかった。
『本当に、ひかりちゃんにいつもと変わったようなところはなかったの?』
『ないと思う。少なくとも僕はそう思う』
恥ずかしくてお母さんには報告していないけど、ひかりちゃんは今日も僕にパジャマ姿で抱きついてきたりと上機嫌そうだった。
『おかしいわね。お母さんさっきはああ言っちゃったけど、ひかりちゃんは裏表があるような子じゃないだろうし』
『僕もそう思う。ひかりちゃんのお父さんの勘違いじゃないかな』
『お母さんもそう思って聞き直したんだけど、どうやらひかりちゃん、たしかにそう言ったらしいのよ』
僕は改めて大きな息を吐いた。
絶対に認めたくないけど、どうやら嘘じゃないみたいだ。
僕の妹になるかもしれなかったひかりちゃん。
その話は、他ならぬひかりちゃん自身によって壊されそうになっていた。
『困ったわね。お母さんたち、これから大変な仕事に取りかかるのよ。あなたたちのことは心配だけど、時間を割くことが難しくなるわ』
僕はもう一度両手で顔を覆った。
僕のお母さんとひかりちゃんのお父さんは同じ研究所に勤めている。
そして間の悪いことに、お母さんたちの助けは期待できないみたい。
でも、考えてみればこれは僕とひかりちゃんの問題かも。
ひかりちゃんが僕と兄妹になりたくないと言い出しているなら、その原因は僕が、あるいは僕とひかりちゃんの二人で取り除かないと。
『わかった。お母さんたちは仕事を優先して。ひとまずは僕がなんとかしてみる』
『頼もしいわ空ちゃん。お母さんも仕事の合間にもう一度聞いてみておくわね』
『よろしく』
そこでお母さんとのやり取りは終わった。
僕は再び息を吐いて肩を落とした。
「あなた、ものすごい顔色してるわよ? 保健室に行く?」
「あ、うん。大丈夫。心配してくれてありがとう」
「無理してない? 全然大丈夫そうじゃないわよ?」
僕は早速隣の席の女の子に声をかけられた。
彼女は面倒見がいい人みたいだから、他の女の子が気分悪くなったときも親身になって手助けしてあげてたりする。
僕は女の子じゃないけど、隣の席のよしみで心配してもらえているんだと思う。
「一条、あかりんの言うとおりだって。あんた今マジでヤバイよ? 私らから見てもヤバそうだもん」
「そうよ。あかりんに付き添ってもらって、保健室行ってきなよ」
「べ、別に私は付き添うだなんて一言も……、まあ付き添ってあげるけど……」
彼女の席に集まる他の女の子たちにも声をかけられる。
ちなみにあかりんとは、隣の席の女の子のあだ名だ。
「す、すみません。汗拭いてきますね。ご心配おかけしました」
赤面症の気がある僕。隣の女の子でもドキドキするのに、他の女の子はもっと無理だ。
僕はハンカチを取り出しながら、逃げるように教室を後にする。
「だ、大丈夫? 一人で行ける? あなた本当に倒れそうよ?」
「大丈夫です。絶対に帰ってきます。おかまいなく」
結局最後は隣の女の子にも丁寧語になっちゃった。
それでもなんとか彼女を振り切り、僕は廊下をトボトボと歩く。
「(隣の子が気遣ってくれたおかげで少しは気が楽になったけど、でも、これからどうしよう……)」
ニコニコと笑顔で僕に話しかけてくれていたひかりちゃん。
彼女がいなくなってしまうと考えると、胸が締め付けられるように苦しかった。
「(もし、ひかりちゃんが兄妹になりたくないと言ってる理由が、僕にはどうしようもないものだったら……)」
嫌な想像が、僕の心をさらに不安にさせる。
今朝の態度から、ひかりちゃんが僕に生理的嫌悪感を抱いてはないだろうと思えるのが唯一の救いだった。
「(最後には、僕からお願いしたら考えを改めてもらえるかな? でも、そんなひかりちゃんの情に訴えるような方法は、彼女のためにならないかな……)」
そんなことを考えていると、ただ歩いているだけなのに立ちくらみがして本当に倒れそうになってしまった。
僕は慌てて気力を振り絞る。隣の女の子に、僕は絶対に帰ると言ったんだ。その約束を、破る訳にはいかない。
「(後でもう一度お礼を言っておこう。彼女と約束してなかったら、僕、本当に気持ちが折れてたかもしれないからね)」
よくよく考えたら、絶対に帰るだなんてフラグを立てちゃう言葉なんだけど、気持ちの面なら心強い支えになるんだね。
「(……ひかりちゃんも、僕が倒れたら心配してくれるのかなあ……)」
だけど、考えはすぐにひかりちゃんのことへと戻っていっちゃう。
僕は一人ため息をついた。どうやら午後の授業は丸々抜け落ちてしまいそうだった。
◇
その日の帰り道は、複雑な心境だった。
一秒でも早くひかりちゃんに会いたいような、会うのが恐ろしく思えるような。
それでも僕は寄り道などせずに、早足でまっすぐ家へと帰った。
いつもより五分以上早く、玄関のドアの前に到着する。
「(ひかりちゃんは今日は出かけていないはず。だからドアを開けると、すぐにひかりちゃんが笑顔で出迎えてくれると思うんだけど……)」
僕とは兄妹になりたくない。
そうお父さんに言ったらしいひかりちゃん。僕はそのことを考えると、また胸が苦しくなってきた。
「(落ち着け僕。今朝のひかりちゃんはいつも通りだったじゃないか。きっと僕のことが嫌いになったわけじゃない)」
授業中、何度も繰り返し考えてきたことを再び心の中で呪文のように唱える。
朝のひかりちゃんの笑顔が、今や僕の最後の砦になりつつあった。
でももし、この扉を開けてもひかりちゃんの笑顔が見られなかったら……。
僕は慌てて頭を振ると、玄関のドアに手をかけた。
ひかりちゃんは裏表があるような子じゃない。朝笑って送り出してくれたひかりちゃんは、幻なんかじゃない。
「ただいま~……」
それでも僕は不安が拭いきれず、ついつい声が小さくなってしまった。
緊張しつつも、すぐに家の中を見回してあの笑顔を探し始める。
でも、でも。
いつもは僕が見つけるより早く声をかけて笑いかけてくれる彼女の姿は、その時どこにも見当たらなかった。
「(嘘、だよね……?)」
僕の足元からガタンという音が聞こえる。
無意識のうちに鞄を手放していた僕は、鞄と同じようにその場に崩れ落ちそうになってしまった。
だけど、僕が本当に崩れ落ちる直前、望んでいた声が小さく聞こえてきた。
「お、おかえりー!」
その声は羞恥の感情と、やけになったような感情が入り乱れた声だった。
ひかりちゃんは小さな声で返事をしていたわけではなかった。大きな声だったけど、壁を隔てていたから小さく聞こえてきただけだった。
彼女の声が聞こえてきたのは、トイレの中からだった。
「…………」
僕が恥ずかしさから固まっていると、珍しくひかりちゃんも顔を真っ赤にしながら無言でトイレから出てきた。
「う~、恥ずかしいところ見られちゃった。お、お兄ちゃん、今日は早かったんだね」
ひかりちゃんが恥ずかしがってる姿は、実は結構レアだったりする。彼女は僕と至近距離で目が合うことがあっても赤面しない。
それどころか一撃で僕を倒してしまうほどの笑顔を向けてくるくらいなんだけど、さすがにこの時はひかりちゃんといえど恥ずかしそうだった。
「ひかり、お兄ちゃんを待っていようと思っていたんだけど、どうしてもガマンできなくて……」
生理現象なのに、自分が悪いことをしたみたいに話すひかりちゃん。
僕は慌てて言った。
「き、気にしないで。ちゃんとおかえりって言ってくれたじゃない。僕はひかりちゃんが自分の部屋からそう声をかけてくれるだけでも十分だと思うよ」
それは嘘だった。もちろんおかえりって声をかけてくれるだけでも嬉しいけど、やっぱりひかりちゃんの笑顔があったほうが何倍も嬉しいと思う。
けれども、彼女を僕が拘束するわけにもいかないし、やっぱり自室から挨拶だけでも十分のような気がする。最初は寂しいと思うだろうけど……。
「……う~……」
しかしひかりちゃん、なんだか涙目になって僕を上目遣いで見始める。
どうしてだろうと首を捻った僕だけど、すぐに心の中であっと声を上げた。
「お手洗いの中からおかえりって言うの、はしたなかった? ちゃんと出てきてから言ったほうがよかったですか?」
僕の発言はわざわざひかりちゃんの恥ずかしかった行為を思い出させてしまったみたい。
ますます顔が赤くなるひかりちゃんに、僕はまたも焦りながら声をかける。
「はしたないとは思わなかったし、いつ言われてもよかったよ。僕にとってはひかりちゃんがおかえりって言ってくれることが一番重要だからね」
そう言ってあげると、ひかりちゃんは一瞬驚いた後、柔らかく笑うと言ったんだ。
「ありがとう。おかえり、お兄ちゃん」
それはいつもの元気のいいお出迎えではなかったけど、その時の優しいお出迎えも僕には嬉しかった。
「ただいま、ひかりちゃん。じゃあ手を洗って着替えてくるよ。その後はお茶にしよう。玖音さんの家でもらってきたお土産を食べないとね」
「わーい!」
「その後はお勉強にしようね」
「うん! あ、あのね聞いて! ひかり、週明けのテストも上手く出来たんだよ!」
「それはよかった。頑張った甲斐があったね、ひかりちゃん」
「ううん、お兄ちゃんの教え方が上手だからだよ~! いつもありがとうね!」
ひかりちゃんはまだ少し頬を朱色に染めていたけど、僕の知っているひかりちゃんに戻りつつあった。
僕も元気なひかりちゃんと話せて楽しくなってくる。そういえば僕は、さっきまでは信じられないくらい落ち込んでいたはずなのに。
と、そこでひかりちゃんが僕の足元に視線を向けた。
「あれ、お兄ちゃん鞄どうしたの? 落としちゃってるよ?」
僕はハッとなってすぐに鞄を拾い上げる。
でも、鞄を落としたときの不安はもうなくなっていた。やっぱりひかりちゃんはいつものひかりちゃんだった。僕との会話も生活も楽しんでくれているみたい。
「ひかりちゃんが来る前に、ちょっと落としちゃっただけだよ。後で拭いておくね」
苦笑しながら、僕はひかりちゃんに言った。
彼女は「ふーん」と答えながら僕の鞄を見つめていたけど、やがてパッと顔を輝かせながら言った。
「じゃあお兄ちゃんが着替えてる間に、ひかりが拭いててあげる!」
やや強引に、僕から鞄を受け取っていくひかりちゃん。
その微笑ましい彼女の行動に、僕の昼間の心労が解されていくようだった。
やっぱり僕はひかりちゃんには嫌われていない。僕はもう、そのことを疑っていなかった。
だから、次にひかりちゃんが言った言葉にドキッとしたけど、僕は最終的には笑って返事を返すことができたんだ。
「あ、そうだお兄ちゃん。早めに言っておかないと。ひかり、明日から三日間、帰り遅くなっていい?」
「えっ?」
「明後日がね、あさかちゃんの誕生日なの。だから明日みんなで買い出しに行って準備しようかなって」
僕と兄妹にはなりたくない。
反射的にその言葉がチクリと胸を刺したけど、どうやらひかりちゃんはちゃんと理由があって明日から帰りが遅くなるみたい。
「それでね、明々後日はお友だちのお姉さん夫婦がやってるレストランの開店一周年記念日なんだって。ひかりのクラスの子はそこに招かれているんだ~」
僕はまた胸がチクリと痛む。
誕生日とレストラン。さすがにその二日間は、彼女は外で食べてくることになると思う。
ひかりちゃんが美味しそうに食べてくれる姿は、癒やされるんだけどなあ。
内心の動揺を表に出さないように耐える僕。
幸か不幸か、ひかりちゃんがそれに気付くことはなかった。彼女にはもっと僕に知らせる大切なことがあったみたい。
「それでね、それでね! なんと今回の集まりには、くおんちゃんも一緒に出てくれるんだよ~! あさかちゃんも優しいんだ。くおんちゃんにぜひおいでくださいって招待してあげたんだよね」
今日の僕は嫌な子だった。
それを聞いた瞬間、玖音さんまで遠くに行ってしまうような気がしてしまった。
元々僕の手元になんていないのに、随分と身勝手だよね。
「そっか。玖音さんもクラスに馴染もうと頑張り始めたんだね」
「そうなんだよ~!」
楽しそうに僕を見て話すひかりちゃん。
僕は今、ちゃんと笑えているだろうか。
「じゃあ、明後日と明々後日は外で食べてくるよね? 明日は家で食べる?」
極力普段どおりに、僕はひかりちゃんに尋ねた。
ひかりちゃんはその言葉で、さっきまでの笑顔がサーッと曇っていっちゃった。
「ごめんねお兄ちゃん。明後日と明々後日は食べてくると思う。明日はいつものようにお願いしてもいいですか?」
申し訳なさそうに僕に言うひかりちゃん。
そんな表情をされちゃうと、僕はどうすることもできない。
僕は久しぶりに自然に笑って、彼女に言った。
「丁寧語になんてならなくてもいいんだよ。僕はひかりちゃんにご飯を作ってあげるのが楽しいんだ。遠慮なく食べたいものをリクエストしてくれてかまわないんだよ」
「……お兄ちゃん」
目を潤ませて僕に近付いてくるひかりちゃん。
だけど僕がまだ着替えてないことに気付いたのか、そこで彼女は困ったように笑った。抱きついたら皺になっちゃうと思ったのかな。
「お兄ちゃん、着替えてきて! ひかり、鞄ピカピカにしてくる!」
元気良く言って、僕に背を向けるひかりちゃん。
「あ、あんまり張り切りすぎないでね? 洗剤とか付けちゃダメだよ?」
「はーい!」
苦笑しながら遠ざかっていく背中を見送る僕。
やがてその背中が見えなくなった瞬間、僕は一人ため息をついた。
、
明日から三日間、ひかりちゃんのお出迎えはなくなっちゃうみたい。
でも、大丈夫だよね。少し寂しくなるけど、ひかりちゃんは僕のことが嫌いになって遊びに行くわけじゃないんだから。
「(よし、とりあえず今日はひかりちゃんと一緒に楽しもう。そして明日からは笑顔で彼女を送り出してあげよう)」
僕は心に決める。
ひかりちゃんは僕を嫌っているようには見えない。ならそれでいいじゃないか。
それでも彼女を疑って不安になるようなら、それはひかりちゃんに対して失礼だよね。
「お兄ちゃん、早く早く~!」
ひかりちゃんに急かされ、僕は着替えるために笑いながら自室に戻った。
正直なところ、明日からのことは不安もあったけど、絶望感すら感じていた昼間よりは気持ちは楽だった。
僕と兄妹にはなりたくない。ひかりちゃんはそう言ったらしい。
でも、もう僕はその言葉が怖くなかった。きっとお父さんの勘違いか、ひかりちゃんが伝え方を間違ったに違いない。
そして僕のその考えを証明するかのように、僕が着替えてくるとひかりちゃんはいつも以上に僕にベッタリ甘えてきた。
明日から僕に会えない分を今補充しているかのような彼女の行動に、僕は戸惑いつつも嬉しい気分でいっぱいになった。
「お兄ちゃん、終わったら今日もゲームしよ!?」
そうして、僕は寂しさや不安を心の奥底に封じ込めた。
でもそれは、ひかりちゃんが側で笑っていてくれたから封じ込めたつもりになっていただけで、彼女を失う瀬戸際に立った場合には何倍、何十倍も大きくなって返ってくるなんて、僕は気付いていなかった。




