エレジー先生と歩きスマホ
歩きスマホが迷惑だからどうにかしてほしい、と七山さんは言う。
エレジー先生はカルテとボールペンを用意し、その後にどんな病状が続くのか待った。不謹慎かもしれないが、この瞬間は少しだけわくわくする。
歩きスマホをする人が怖くて外に出られないのか、夢にまでスマホが出てくるのか、他人のスマホを全てかまぼこ板にすり替えたくなってしまうのか。ひょっとしたら聞いたこともない症例かもしれないと思うと、つい笑顔になってしまう。
しかし、七山さんはそれ以上何も言わなかった。エレジー先生は時計をちらっと見て、それでどうしたの、と言った。
「歩きスマホに困ってるんです」
「うん。それで?」
「どうにかなりませんか?」
エレジー先生は七山さんの顔を見返した。やつれてもいないし、顔色も悪くない。声も普通だし、体も問題なく動いている。
「携帯会社かゲーム会社に相談すれば?」
「病院って、困ってる人を助けてくれるところじゃないんですか?」
「まあそうだけど、理想と現実は違うんだよ」
七山さんはそれでも引き下がらず、エレジー先生の赤い瞳をにらみ返す。
「私は頭がおかしくなりかけているんです。放っておいていいんですか、医者として」
「うーん。じゃあ、エレジー療法をやってみようか」
エレジー先生は戸棚から泡立った緑の薬と白い粉薬を出し、フラスコに入れてかき混ぜた。その途端、鼻の曲がるような不愉快な匂いが部屋中に漂い始めた。七山さんは顔をしかめた。
「何ですか、これ」
「ニラサバ草とボンゾウ虫を煮詰めたエキスに、ペムペム猫の骨粉を混ぜたものだよ」
「マジですか。こんなの飲むの?」
「飲む必要はないよ」
エレジー先生はフラスコに蓋をして、棚にしまった。
「あまりの不愉快さに、他のことがどうでも良くなったでしょ?」
「なりません。不愉快の幅が広がっただけじゃないですか」
まだ匂いが立ち込めていたので、エレジー先生は窓を開けた。すると、大通りを奇妙な集団が歩いているのが見えた。
「あっ、あれです。歩きスマホの奴らです」
七山さんは指を差して叫んだ。
それは、巨大なスマホに足が生えた集団だった。
「えっ。あれが歩きスマホ?」
「そうですよ。迷惑でしょう? 二台並べば歩道を塞いじゃうし、勝手に写真は撮るし、お財布機能付きだから爆買いもするし、とにかく健脚で、どこまでも歩くんです」
エレジー先生は窓から身を乗り出し、スマホたちを眺めた。確かに健脚、というか美脚だ。つやつやと筋肉が付き、形のよい健康的な足で、靴も履かずに歩いている。機体部分は二メートルくらいの高さで、それぞれ微妙に形は違うが、薄くて画面が大きいものばかりだ。たまに、少し古そうな機種が混じっていることもあり、恥ずかしそうに肩を縮めて通り過ぎていく。
エレジー先生は自分のスマホを出して撮影しようとした。七山さんは慌てて止め、罠ですよ、と言った。
「罠?」
「そうです、これはスマホの罠です。何でもスマホで済ませようとするから、スマホに成り代わられてしまうんです。買い物も行楽も、食事も交友も、果てにはただ歩くだけでも、スマホで代用できるようになってしまう。これは社会病理ですよ!」
なるほどね、エレジー先生は思う。スマホに頼りすぎた人間のなれの果てが、歩きスマホの集団だというなら、それは他のことにも当てはまるだろう。
「何でも病院で済ませようとしたら?」
「え?」
「エレジーはいろんな薬を持ってるよ。人格を乗っ取る薬も、内臓を分解して口から取り出す薬も、脳と爆弾を入れ替える薬も」
エレジー先生の瞳から逃れるように、七山さんは立ち上がった。一歩、二歩と後ずさり、ドアに手をかけた。
「し、失礼します」
「薬はいいの?」
「いりません」
エレジー先生はほっとした。ありもしない薬を次々とでっち上げてしまったので、内心どうなることかと思っていたのだ。
そそくさと出て行こうとする七山さんに、スマホを振って見せた。
「近所の迷惑行為なら、自治体に連絡するのが手っ取り早いよ」