act.6 神聖都市ラトメディア
しかしながら、ネルの目論見は失敗に終わった。ラトメディア首都フレイリアに着くまで、天候に恵まれず、月の出る夜がなかったのだ。
「むー…」
ネルはマント越しにたたきつけてくる雨に眉を寄せた。湿度の高いラトメディア北部は蒸し暑く、容赦なく降り注ぐ雫もどこか生ぬるい。
ラファが貼り付いた黒いマントを指先ではがしながらぼやいた。
「ラトメディアは相変わらず暑いよなあ。南に下ればもう少し乾燥してるのに」
「そうなると今度は日差しにやられるけどね」
ラトメディアは湿地と砂漠の国だ。インテレディアと違い作物もろくに育たないし、そのためか潜む獣も飢えており獰猛だ。しかし舞いや工芸などの芸術では群を抜いてすばらしい。世界創設以降、この痩せた土地がここまで権力を握ったのは、ひとえにその芸術によるものだとされている。
ラトメのゆったりと余裕をもたせた衣装ならば、この暑さでも幾分かはマシに違いない…ラトメディアのことを何も知らないネルに丁寧に解説してやって、デクレは深く嘆息した。彼もこの熱気と雨で、いつもの仏頂面も三割り増しで無愛想だった。
ラファがからから笑った。
「俺がレフィルと初めて会ったのもラトメだったなあ。こいつ、ラトメを根城にしてるくせにこんな分厚いファナティライスト製の神官服着てさ。後で聞いたんだけど、どういう魂胆かと思ったら言うに事欠いて『神官服着てればお金ないと恵んでもらえる』だぜ?笑っちゃうよな!」
「…ずっと気になってたんだけど、レフィルとラファってどういう関係なの?」
そろそろとネルが問うと、ラファとレフィルは顔を見合わせた。二人揃ってネルに視線を戻す。レフィルが言った。
「親戚だよ。血は繋がってないけど」
「俺の意識では親戚の友達ってイメージかな」
「…なんか、曖昧だね」
曖昧なんだよ、ラファは返して苦笑した。その笑みから、きっとなにか深い事情があるのだろうとネルは推察した。だってふたりとも、こんなに大人っぽいんだもの。きっと私なんかよりも大変な人生を送ってるんだろうなあ。
「ラファは何歳?」
「よんじゅういち」
「からかってる?」
「さあ。何歳に見える?」
「16、7くらい」
「じゃあそのくらい」
うまくはぐらかされた気がする。じろりと半眼でラファを睨めつけると、ラファは得意げに瑠璃色の瞳を細めてみせた。まるで自分はネルたちよりもずっとずっと大人なのだと言われているようで、ネルは胸がもやもやするのを感じた。…最初はかっこいいだなんて思っちゃったけど、やっぱりラファのこと、きらい!
と、疲れているのか、ずっと黙りこくっていたクレッセがついと顔を上げた。どしゃぶりの雨のむこうを指して、ラファの手を引っ張った。
「ラファさんラファさん!門があるよ!」
一同は顔を上げるが、いかんせん視界が悪くてなにも見えない。クレッセは目がとてもいいのだ。
◆
クレッセの言ったことは本当だった。
レンガ造りの門の両脇を固めるように、二人の見張りが立っている。白い詰襟のシャツ、黒いズボン、麻のコート…ラトメディア神護隊だ!ネルとデクレははっと息を詰めた。クレッセとユールを連れ去った集団だ。
レフィルとラファはずんずん進んでいく。すると、門番達はラファとクレッセの黒い衣装を見て、警戒した様子で前に進み出た。…そういえば、ラトメとファナティライストは犬猿の仲だって、いつだったかデクレに聞いたことがある。
「止まれ!何者だ?」
神経質そうな男が、雨音に負けじときびきびとした口調で叫んだ。もう一方のたれ目の男が、低くて深い声で問うてくる。
「ファナティライストの者だな」
「ファナティライスト高等祭司がひとり、ラファと申す。ここにいる新たな高等祭司の紹介と、世界会議の打ち合わせのために、貴宿塔長エッフェルリス公との面会をお願いしたい」
「…彼らの身分はこのレフィルが保証する。僕と、ここの二人は、舞宿塔長ファルシャナより任務を与えられただいま帰還したところだ」
ラファを睨んでいる神護隊たちを見かねてレフィルが助け舟を出すと、彼らは瞬く間に姿勢を正した。
「れ、レフィル様であらせられましたか!これは失礼をいたしました」
「どうぞお通りください」
手のひらを返したように、レフィルに媚びへつらう視線をよこす神護隊に、ネルはもやもやとした嫌悪感を覚えた。神護隊って、かみさまをまもるって意味らしいけど、こういうのを名前負けっていうのかな。ネルは思った。
◆
門を潜り抜けたそこは、ひどく静かだった。早足で歩く人々の顔には生気がなく、恐怖に駆られたような目をぎらぎらさせて周囲を見ている。舗装された道はほこりまみれで薄汚れており、あちこちで恵みを待ち構える乞食が、見慣れぬネルたちの姿を射止めていた。
これが、神聖都市ラトメディア。
ネルとデクレは口をつぐみ、ラファは目を細めた。ラトメには今最高指導者である"神の子"がいないから、大変なことになっていると噂では知っていたが、かつては美しかったであろうレンガ造りの町並みと、そこに生きる人々の薄暗さは、この都市の惨状を物語っていた。
「ネル、デクレ、それにクレッセ。あまりきょろきょろしないほうがいい。乞食に目をつけられる」
レフィルがなだめた。そしてラファを振り返る。
「ラファたちは神護隊に行くんだっけ?」
「ああ。そこでエッフェルリスに取り次いでもらう。ネル、デクレ。名残惜しいけどここでお別れだ」
「え?」
ネルは愕然とした。目の前にクレッセがいるのに、どうしてお別れしなくてはならないのか。
「ど、どうして?」
「どうしてもだ。今から行く場所にお前等は連れて行けないし、レフィルと一緒にやることがあるんだろう?」
「だけど、私たちはクレッセの手がかりを探してここに来たのに!」
「そうです、あの、僕達、クレッセを探して旅をはじめたんだ!そこにいるクレッセ様と一緒にいれば、もしかしたら何か分かるかも、」
「わからないよ」
出し抜けに、クレッセが言った。いつの間にか雨はやみ、雲の切れ間から月の光が差し込んでいた。クレッセはまっすぐに、息を呑むデクレを見据えた。
「わからない。君が"16歳のクレッセ"を探す限り、一生、その手がかりを見つけることはできない」
「なにを…」
「行きましょう、ラファさん。ねえネル?」
戸惑うデクレに構わずに、クレッセはネルたちに背を向けた。歩き出しながら、彼は声だけネルに投げかけた。
「さようなら。次に会うときは、きっと敵同士だ」
かちんときた。私が、クレッセの敵になるなんてありえない!
「私、逃げないから!ぜったいぜったい、逃げないよ!」
意を決して叫ぶと、彼はほんのちょっとだけこちらを向いた。困った奴だな、苦笑するクレッセは、もう何年も昔の色あせた姿とぴたりと重なった。
「…エルミという女性に会うといい」
「え?」
「クレッセ!」
ラファが咎めたが、クレッセは意にも介さないようだった。濡れたクレッセの前髪から、小さな雫がぽたりと落ちた。
「僕と君達は一緒には行けない。僕の呪いが君達を蝕んでしまうから。だけど、レフィルと一緒にいれば彼女が協力してくれるだろう。…僕が君の味方でいられるのはここまでだ。デクレとなかよくね」
最後にそう言って微笑んだクレッセ。そう、彼はいつも、きゃいきゃいと口論したネルとデクレをたしなめる役だった。
デクレが駆け出した。彼も確信したに違いない。彼がネルたちの探すクレッセだということ。けれど数歩のうちに、前につんのめるようにして立ち止まってしまった。
クレッセは今度こそ去っていった。二人は追えなかった。
◆
無言のままレフィルに連れられてきたのは、舞い手達が居を構える「舞宿塔」という高い高い塔だった。一階は広々としたロビーとなっており、あちこちに舞かなにかで使うのだろうか、呪術などの器具が飾ってあった。
レフィルはネルたちを引き連れて、中央の大きな円形のくぼみに立った。なにやら魔方陣のようなものが描かれたそこを見下ろすと、ネルたちに解説する。
「転移装置だよ。ここから別の階に移動できるんだ。『地下二階へ』」
魔方陣に向けて呼びかけるレフィルに、ネルとデクレが目を白黒させていると、頭の奥のほうに直接呼びかけるように、女性の声が響いてきた。
『お名前をどうぞ』
「レフィル・シエルテミナ」
『…認証いたしました』
ぶつりと声が途切れて、瞬きしたと思ったら景色が変わっていた。魔方陣の周囲に広がっていたロビーの景色はいつのまにか広いリビングのような部屋となっていた。セピア系の落ち着いた色合いでまとめられており、こじんまりとした会議室のような場所だ。なるほど、「転移装置」。どうやら階を言うことで塔内を移動できるしくみになっているらしい。ネルは思わず口を開いて感嘆の声を漏らそうとした。
「すご、」
「だからそれが嫌だと言っているのよ!」
ネルの声は女性の怒声にかき消されてしまった。
見ると、奥のテーブル越しに向かい合う形で、二人の女性が互いをにらみ合っていた。怒声を上げたほうの女性は、息巻いてソファから立ち上がり、もう一方は優雅にソファに腰掛けている。
烈火のごとく怒っている女性の正体にネルは息を呑んだ。…マユキおばさんだ!彼女は口から炎でも出すかという勢いで歯軋りしている。そして、もう一方の、水が流れるように静かに、それでも苛ついているのがわかる人物は…
美しい銀髪だ、まずそう思った。ランプの光を浴びて白銀にきらめく髪は腰まで伸び、まっすぐにマユキを見上げ目を細める瑠璃色は、なぜだかネルに妙な既視感を覚えさせた。身にまとっているのは、先ほど門前で見たのと同じ、ラトメ神護隊の制服と麻のコートである。
二人の女性は、突然部屋に乱入してきたネルたちにはっとした様子で顔を向けた。そのおかげで、ネルたちは銀髪の女性の顔を真正面から見ることとなり、ネルはすぐに気がついた。
寸分変わらぬその姿。
間違いない、ユールを斬った、神護隊の女性だった。