act.5 月夜に誘われて
デクレはすぐそこにいた。街道の脇で、うずくまって頭を抱えている。
「デクレ」
ネルが呼びかけるも、彼は答えない。
「デクレ!」
もう一度呼んだ。デクレはぴくりと肩を揺らしただけだ。
溜息をついて、ネルはデクレの背中をはたいてやろうと、大きく腕を振り上げた。
◆
「なにすんだよ馬鹿ネル!殺す気!?」
「ごめん…」
自身が結構な怪力だということを失念していたネルは、笑い半分にデクレに謝った。ネルとデクレ、ふたりきりになってからお決まりだった情景に、これまたお決まりの反応を彼が返すものだから、ネルは思わず反省を忘れた。
ネルはデクレの隣に、膝を抱いてしゃがみこんだ。
「ね、ね、デクレ。私、やっぱりね、あの子はクレッセだと思うの」
「…ネル」
「あ、違うの。クレッセでもクレッセじゃなくても、いいの。でも私たち、クレッセを探すために村を出たんだよ。あの子がもしもクレッセじゃなかったとしても、あんなに似てるんだもん。きっとクレッセのこと、なにか知ってるはずだよ」
デクレは何も言わなかったが、もの言いたげにネルを見上げた。口を何度かぱくぱくさせて、それから困った様子で口をつぐむ。ネルはお構い無しに続けた。
「だから、探そう!まだあきらめちゃ駄目だよ。あのちっちゃいクレッセが誰なのかも、どうしてあんなにちっちゃいのにファナティライストの偉い人になれるのかも、まだなんにもわかってないよ。…まだ、旅ははじまったばっかりなんだよ、デクレ!」
最後にはもう立ち上がってしまっていた。息巻いて主張するネルを、デクレはぽかんと見上げた。見て、そして…やがて照れくさそうにうつむいて呟く。
「…単純ネル」
「えへへ」
「笑うなよ。けなしてるんだから」
だけどデクレは、差し伸べたネルの手をやさしくつかんで、立ち上がった。
◆
小さい頃、まだ本当に小さい頃のはなし。
ネルは、森の中で迷子になってしまったことがある。だんだんと空が暗くなって、鳥の鳴き声が鋭くなって、ネルはひとりぼっちで、母や姉を呼びながら泣いていた。
「ネル!」
そんなとき、月が木々の隙間から見えるようになってようやく、自分を呼ぶ声が森の奥から響いてきた。小麦色の髪に琥珀の瞳。彼は汗をたらして、笑みを漏らしながらこちらへと駆けてきた。当時男の子が苦手だったネルは、しかしそんなことも忘れて、クレッセの名を泣き叫びながら飛びついたのを覚えている。
そんなことがあったからだろうか。ネルにとって、クレッセは兄のような存在だった。優しくて、頼もしくて、明るくて。尊敬にも似た、感情。デクレとはまた違った大切なひと。
まどろみから目が覚める。すぐそばに、誰かが座っていた。まだ月は高い。"彼"はネルを見ることなくささやいた。
「……起こしちゃった?」
「…クレッセ?」
「うん、そうだよ。…ネル」
しばらく、ネルはベッドの側面に背を預けるクレッセに目を向けていたのだけれど、そのうち彼が呼んだ自分の名前に、えもいわれぬ懐かしさを感じて、今度はまた違った意味合いを込めて、彼の名を呼んだ。
「……"クレッセ"?」
「うん。そうだよ、"ネル"」
考えるより先に身体が動くって、こういうことを言うのだと思う。ネルはそう感じた。思わず小さなクレッセの身体を抱きしめた。彼の身体はネルより一回りも小柄なのに、クレッセはまるであやすように、ネルの背をぽんぽんと叩いた。
「クレッセだ」
涙があふれてきた。ぽろぽろ、とめどなく。
「クレッセだ、クレッセだ、ほんとに?ほんとにクレッセだったんだ」
「ネル、よく聞いて」
クレッセはやんわりとネルを引き剥がし、彼女の肩に両手を置いた。昼間とは違う大人びたその雰囲気に、ネルは当惑した。
「先に言っておく。今から言うこと、僕のことを、絶対にデクレに言っちゃいけないよ」
「どういうこと?」
「ごめんね。だけど黙って聞いて。夜の間しか話せないことなんだ。月のない時は、僕はなにもできない子供になってしまう」
そう言うクレッセはひどく大人びていた。まっすぐにネルを見据えて、クレッセは真剣に言った。
「ネル、今すぐ引き返して、名もなき村に帰るんだ」
「なに言ってるの?」
「ラトメに行っちゃ駄目だ。あのレフィル…蹄連合は、ネルにとって危険だ。デクレならまだしも」
「どういうこと!?わたし、私達、クレッセと、ユールおじさんを探してここまで、」
「分かってる。わかってるよネル。でも駄目なんだ。ラトメに行ったら、取り返しのつかないことになる」
「わかんないよ!なにがあるの?私たち、やっと会えたんだよ?」
クレッセは唇を噛んだ。苦渋の表情で、彼はネルに懇願した。
「お願いだ、ネル。頼むから…」
「いやだ!ちゃんと説明してくれるまでだめ!」
彼が本当にクレッセならば、こう言えば折れるはずだ。…案の定、クレッセは小さく溜息をついた。
「…僕はね、"赤の巫子"なんだ」
「あかの、みこ?」
赤の巫子。
かつての世界創設者が、命を賭して作り上げた、不老不死の身体と絶対無敵の魔力を持つ"赤い印"。それを身に宿した者のことだ。この世界に住む人なら誰だって知っている伝説のようなもの。本当に存在するなんて、誰も思っちゃいない。
「僕はラトメに連れて行かれてすぐに"印"を宿した。…全然、成長してないでしょ?僕は老いることがないんだ」
誰も信じちゃいないのだ。だから、クレッセの言葉はあまりに衝撃的すぎて、ネルは何もいえなかった。老いない?十歳ほどの姿のまま、時を止めたクレッセ。
「うそ」
「嘘じゃないよ。だけどね、ネル。僕の友達に、ちょっとだけ未来のことが見える、すごい魔術師がいる。その人が僕に教えてくれたんだ。僕の幼馴染が、僕を探しにラトメまでやってきて、そのために"赤い印"を宿してしまうって」
「……幼馴染って、わたしのこと?」
そのはずだ。クレッセのことを探しに来る幼馴染なんて自分くらいのものだろう。つまり、ネルが赤の巫子になるという予言のはずだ。言っている意味がよくわからなかったが、クレッセはゆっくりとうなずいた。二の句が告げずにいると、それをいいことにクレッセは畳み掛けるように続けた。
「そう、僕はそれを止めようと思って、その友達に協力してもらってラトメを出たんだ。インテレディアに戻ろうと思ったんだけど、巫子の呪いで記憶がだんだんとあいまいになって、だんだん、僕が誰なのか、何歳なのか、それさえもわからなくなっちゃって…わけがわからなくなったところでラファさんに拾われた。彼の守護術のおかげで、僕は月の出ている間だけ、自分を取り戻すことができる」
「呪い?なにそれ。わたしもそうなっちゃうってこと?クレッセのこともデクレのことも、わかんなくなっちゃうのかな?」
ネルは瞳を揺らした。
仮に、だ。クレッセの言っていることが本当だとしよう。あまりに唐突すぎて、もしかしてこれは夢なんじゃないかと思ったけれど。まず"赤の巫子"という、御伽噺に出てくる存在が、実際に存在しているということだろうか。ただ、赤の巫子は、世界を救う救世主だという。寝物語でそう聞いた。呪いにかかるなんて初耳だ。
困惑するネルに、クレッセは微笑んだ。
「大丈夫。この呪いは僕だけにかかるんだ。だけどね、ネル。それを差し引いても、もし"印"を宿したら、君は不老不死になってしまう。一生、死ねなくなってしまうんだよ」
巫子は不老不死。もしクレッセの友達の言うとおり、ネルがそんな存在になってしまうのだとしたら、お母さんがおばあちゃんになっても、デクレがおじいちゃんになっても、みんなみんな死んでしまっても、ネルはずっとずっとこのまま、ということだ。
目の前で時を止めた、クレッセのように。
「やだ」
「そうだろ。だから、さあ。はやく君は荷物をまとめて」
「やだよ。だって、だってクレッセは巫子でしょ。クレッセは、死ねないんでしょ」
クレッセから表情が消えた。いつも穏やかに笑んでいた彼の無表情なんて、覚えている限り一度も見たことがないように思う。
「クレッセはずっとずっとこのままの姿なの?私、そんなのやだよ。そのクレッセの友達の言ってることも、クレッセの言ってることも、私、よくわかんないけど、クレッセは、私だけ逃げろって言ってるんでしょ?そうなんでしょ?クレッセ。駄目だよ。私だって、私だって、クレッセの味方なんだから…」
「僕は、君とは仲間になれない」
硬い口調だった。ネルは口をつぐんだ。クレッセは目を伏せた。
「僕は、君が巫子になるなら、それ相応の措置をとらないといけなくなる」
「ど、どういう意味…?」
「…もう月が沈んでしまう。僕は部屋に戻らなきゃ。帰るんだよ、ネル。後悔したくないなら」
「いやだ!」
クレッセは部屋を出る直前に、口を引き結んで彼を見つめているネルに、そっと苦笑した、気がした。
◆
「クレッセぇ…お前、ゆうべベッド抜け出しただろ?俺、けっこう焦ったんだぞ」
「ぼく、どこも行ってないもん!」
朝、宿の食堂に行くと、ラファとクレッセがにらみ合っていた。クレッセのほうはすでに涙目だ。ネルはあのあと一睡もできなかった重いまぶたをこすりながら助け舟を出した。
「クレッセ、昨夜トイレに行ったみたいだよ。私、見てたの」
「え?」
ラファが怪訝そうにネルを見た。彼は少し警戒しながら問うてくる。
「…クレッセ、なにかおかしなところとか、なかったか?」
「ん?えっと、別になんにも?あ、漏れそうだったみたいで慌ててたよ」
「お前はもう少しデリカシーを持てよ!」
背後から、昨日のおかえしだとばかりに頭をはたいてくるデクレ。だが、彼は手加減したのか、朝に弱いから力が入らなかったのか、まったく痛まない頭をさすってネルは振り返った。
「あ、おはようデクレ」
デクレは無視した。
「おはようございますラファ様。…クレッセ、様」
「おはよ」
「…おはよう」
ラファはにこやかに、クレッセは戸惑いがちに返す。どう見ても昨日とは別人だ。きっと、あの性格や記憶は、月夜の晩にしか取り戻せないのだろう。二重人格のようなものだろうか。ネルは胸がきしむのを感じた。
ラファと話して、無邪気に笑うクレッセを見てネルは考えた。…不老不死にはなりたくないけど、クレッセがひとりぼっちになるのは、もっといやだ。
「やあ、みんなもう集まってるのかい?」
入口のドアを開けてレフィルがやってきた。朝の散歩にでも出かけていたのだろうか。ラファが片手を挙げて応じた。
「ものは相談なんだけど、レフィル。お前達も、フレイリアに行くんだろ?よければ俺達も混ぜてもらってもいいか?」
きらり、ラファとレフィルの目が光ったように見えた。この二人はきっと、目と目で会話ができるに違いない。そして、彼等の関係は一口に「友人」とくくれるものではないのだとネルは思った。レフィルは穏やかに火花を散らしながら言った。
「僕は構わないよ。ふたりは?…聞くまでもないか」
「もちろん」
「僕も一緒に行きたい」
目の前にクレッセがいるのに、どうして彼等と別行動ができようか。ネルからしてみれば願ってもない事態だった。もしかしたら、今夜もまたクレッセと話ができるかもしれない!
次は洗いざらい、クレッセには話してもらいたいことがある。彼の撒き散らした謎のせいで寝不足のネルは、ごしごしと重いまぶたを袖口でこすった。