act.4 然る高等祭司
「さて、今日はあそこに泊まろうか」
村を発ってから一週間。いい加減野宿にも飽きてきた頃の夕暮れ、レフィルは草原の向こうに小さく見える村を指差した。
ルシファの村。
神聖都市ラトメディアの首都・フレイリアへと通じる太い街道沿いに作られたその村は、旅人達の中継点のひとつらしい。インテレディアよりもずいぶんと蒸し暑い気候には、正直ネルもデクレも辟易していたところだったので、ようやく柔らかで快適なベッドで眠れるかと思うとそれだけでまぶたが下りてきた。
ネルたちよりも分厚い神官服に身を包むレフィルは涼しい顔だ。
「ほらほら、二人とも。宿に着く前に寝ないでよ。そんなにふらふらしてると誰かにぶつかる…って」
後の祭りだった。前方からやってきた少年の肩とぶつかったネルは、しりもちをつきそうになったところで、少年に肘のあたりをつかまれてなんとか体勢を持ち直した。
「悪い。大丈夫か?」
そう言った少年はレフィル以上に厚着だった。黒ずくめの神官服に身を包み、手には白い手袋。頭には十字のマークが入った帽子を被っている。ブラウンの髪は男にしては少々長く、肩をかすめるかといった具合だ。そして、彼の瞳に視線を移して、ネルは息を呑んだ。
彼の瞳は瑠璃色だった。この世に存在するあまたの宝石よりも美しく、輝いて見える少年の瞳に、ネルはしばし見入った。
そして、背後のレフィルの声で、一気に現実に引き戻される。
「ラファ?ラファじゃないか」
「あれ、レフィル。奇遇…でもないか。ラトメディアが拠点だもんな、レフィルは」
ラファというらしい少年は、レフィルに親しげに微笑みかけた。対するレフィルは、珍しく目を丸くしてラファを見ている。この一週間、何事にも動じることなく穏やかだった彼にしてみれば、相当驚いているようだった。
「どうしてラトメに。ここは、君にとっては敵地も同然だろう?」
「仕事だよ、仕事。ほら、今度大会議があるから…その打ち合わせに来てるんだ。そういうレフィルこそ、子連れで旅なんて珍しい。連合の件か?」
「それは君には言っちゃいけない約束でね。知りたかったら口の軽いエルにでも聞いてよ」
するとラファはふと笑んだ。彼もまた、ネルたちと同い年か、せいぜいひとつふたつ年上くらいに見えるのに、まるでレフィルと二人して、親子ほども差がある大人が話しているように見えた。
ネルとデクレが置いてけぼりを食らっているのを察してか、それとも純粋な興味からか、ラファがこちらを見て「こいつらは?」と問うた。
「ああ、彼らはネルとデクレ。インテレディアの名もなき村の出身だよ」
「名もなき村!そりゃ、また懐かしい名前が出てきたな」
ラファの輝く瑠璃にまじまじと見つめられて、ネルはどぎまぎと心臓が跳ねるのを感じた。ちらとデクレを盗み見ると、彼は胡散臭そうにラファを見ていて、自分と同じ感慨を受けているようにはとても見えなかった。
ラファはにこりと笑った。人よりすこし大きめの瞳がゆっくりと細められた。
「俺はラファ・ノルッセル。ラファって呼んでくれ。ファナティライストの高等祭司をやってる」
「高等祭司!?」
「高等祭司?」
デクレが素っ頓狂な声を上げる隣で、ネルは目を丸くして首を傾げた。デクレが興奮気味に声を荒げてネルに詰め寄る。
「何で知らないんだよ、ネル!ファナティライストの高等祭司って、神都で…つまり、世界で二番目に偉い人だよ!世界王の直属の部下で、今は三人しかいないって聞いたけど…」
「近々四人目の祭司が任命される予定だよ。そうなったら俺もお役御免だな」
軽い調子で肩をすくめるラファ。目の前の少年がそんなに偉い人物には見えなかったし、むしろもっと親しみやすそうだ。しかし彼の着ている黒の神官服は、言われてみれば噂に聞くファナティライストの服装に近いかもしれない。
「へえ、私と同じくらいの年なのに、すごいんだね」
「ばかネル!そんな気安くお声をかけていい相手じゃないんだよ!申し訳ありません、高等祭司様…」
ネルの後頭部をはたいて、デクレは慌てた様子で謝り倒した。…どうやら、ネルが思っている以上に、彼の身分は高いものらしい。すっかり恐縮しているデクレを見て、ラファは一笑した。
「はは、気にしないでくれよ。俺、そんなに褒められたことしてないし」
「そんな!ラファ様のこと、僕、なんども聞いたことあります。ファナティライストのスラム改革とか、エルフと人間の平等主義とか、僕、いつかはラファ様みたいな祭司になりたいって思ってたんです!」
先ほどまでの胡散臭そうな視線はどこへやら。デクレは手のひらを返したような態度でラファを見た。ラファは少し照れくさそうに頬を掻いた。
「い、いや、俺は」
「しばらく姿を見ないと思ったら、ラファ。そんなことやってたのか。それは世界王の仕事だろうに」
「実際に命令を出したのは陛下だよ。考案もあの方。俺は民衆の支持を得るために、町中駈けずり回ってただけ。下っ端だって」
ひらひらと両手を振るラファ。
「今回だって、新高等祭司就任の引率も兼ねてるんだ。陛下は人使いが荒いんだよ」
「新しい高等祭司?」
デクレがまた目をきらきらさせた。彼、いつも本ばかり読んでいると思ったら、こんなことを調べていたのか。読書嫌いのネルは、デクレの読む本などに興味を示すことなどなかったのだ。
するとラファは少し首を傾げながらデクレを見た。
「…そういえば、ちょっとお前と似てる気がする」
「え?」
「うーん…性格は違うけど。あ、そうだ、レフィルには会わせたほうがいいかな。今は宿で休んでるはずだけど…」
「ラファさん?ラファさん、どこ?」
男の子の声がした。噂をすれば。ラファがつぶやいた。振り返ると、小麦色の髪の少年…十歳ほどの年だろうか、おろおろと泣き出しそうに顔をゆがめて、ラファの姿を探している。彼は小麦色の髪に琥珀の瞳を持っていた。ラファを同じ祭司服に身をくるんで、時々すそにひっかかりそうになりながら宿の前をうろうろしている。
まさか。他人の空似だろう。ネルの頭にそんな台詞がよぎった。まさか、彼がクレッセであるはずはない。デクレも同じ考えらしい。愕然と少年を見ている。
だが、レフィルだけは違った。鋭い目で少年を見て、叫んだ。
「クレッセ!!」
少年はびくりと肩を震わせてこちらを見た。一団の中にラファを見つけてふと息をつくも、しかしびくびくとネル達を見て立ち尽くしている。
クレッセ?まさか、そんな。
だって彼は、ネル達と同い年のはずだ!
ラファがクレッセに微笑みかけた。
「おいで、クレッセ。怖くないから」
とてとてと、ラファの元にやってきて、彼のコートの裾を握って、ラファの背に隠れてこちらを見上げる。…別れたときから何一つ変わらぬ、クレッセの姿。
「考えなかったわけじゃないけど…ファナティライストに匿われていたのか。クレッセ、僕がわかるかい?」
「…………レフィル」
「そう、レフィルだ。探したよ、クレッセ」
しゃがみこんでクレッセと目線を合わせるレフィル。うつむくクレッセ。レフィルは絶句するネルとデクレを振り仰いだ。
「クレッセ、彼らが分かる?ネルとデクレだ」
「知り合いだったのか。どおりで似てると思った」
「幼馴染と双子の弟だよ」
ラファは、ふとさびしげにネルとデクレを見た。これは同情の視線だ。ネルはすぐにぴんときた。しかし、そんな目を向けられるいわれはこちらにはなかった。
「どういうことだよ!」
デクレが声を荒げた。自分と同じように成長しているはずのクレッセの幼さに、誰よりも混乱しているのは間違いなく彼のはずだった。びくりとクレッセの肩が跳ねた。そう、これがクレッセであるはずがない。彼はもっと優しくて、強くて、自信に溢れていた少年であったはずなのに。
クレッセはラファの背に身を隠しながらつぶやく。
「…デクレと、ネル?うそだよ」
か細い声だ。
「うそだよ、だってデクレはぼくの双子の弟だもん。ぼくよりもお兄ちゃんなんて、変じゃない。ネルだって、ぼくよりも背が低いんだよ。お兄ちゃんもお姉ちゃんも、デクレとネルのわけないでしょ」
むこうもむこうで、なにやら混乱しているらしい。クレッセは怯えた様子でラファの脇から顔をのぞかせている。…彼は、こんな子供だっただろうか。
ラファがクレッセを前に突き出した。
「ひどいもんだろ、これでもちょっとはマシになったんだ」
「デクレ、ネル。落ち着いて聞いてほしい。本当はラトメに着いてからゆっくり話すはずだったんだけど…だけど、彼は本当にクレッセなんだ」
クレッセ。
ネルやデクレに助けを求めていたクレッセ。
助け、られなかった、クレッセ。
「嘘だ」
ぽつり、デクレが言った。「嘘だ、こいつがクレッセであるはずがない」
デクレはいつも冷たいしそっけないし憎まれ口ばかりだが、実は誰よりも優しくて世話好きなのをネルは知っている。だから、彼がこんな風に人を拒絶するのを初めて見た。
「こいつがクレッセだとしたら、僕のことがわからないはずがない。僕だって、クレッセのことなら見ればすぐに分かるんだ。だから、こいつはクレッセじゃない!」
「デクレ!」
身を翻して、村を走り去っていくデクレ。ネルはレフィルを、そしてクレッセを振り返った。じっとクレッセを見た。ネルには、彼が本当に自分の幼馴染なのか、そうでないのか、判別がつかなかった。
「…きみは、クレッセ?」
「う、うん」
「私はね、ネルだよ。インテレディアのネル。よろしくね、クレッセ」
きょとんと目を瞬かせるクレッセ。ネルは泣きたくなった。彼が本物のクレッセだとしても、そうじゃなくても、いつも店番をさぼって村を抜け出したネルを、追いかけてきてくれるあのクレッセはもういないのだとわかった。
握手を求めると、彼はネルより一回り小さい右手をおずおずと差し出してきた。クレッセもネルと同じ、途方に暮れた様子だった。
クレッセとしっかり握手を交わすと、ネルはレフィルを見た。レフィルは、またしてもさも面白そうにネルを見ていた。
「レフィル、この子は、本当にクレッセなんだよね」
「そうだと言って信じてくれるなら、頷くよ」
飄々とした態度で肩をすくめるレフィル。ネルは身を翻した。
「デクレを探してくる。レフィルは宿屋で待ってて」
「ひとりで大丈夫かい?」
「へいき!」
振り向かずに手を振る。レフィルの笑い声が耳に飛び込んできた。