act.3 先人の唄
肩提げのボタンを留める。荷物はえらく少ない。
帰ってくるつもりはなかった。
クレッセを見つけてどうするのか、それを求めるのはクレッセ自身とデクレだということは分かっているつもりだし、それに何も話してくれなかった母には、一種の憤りのようなものを感じていた。この狭い名もなき村に閉じこもっているよりは、インテレディアの外で新しいものに触れたほうが、よほど有意義に思えた。
最後にひとつ、16年間かけてなじんだ部屋をぐるりと見渡すと、入口近くに掛けられたマントをさっと下ろして、ネルは扉を開いて出て行った。
◆
宿屋の前には気まずい空気が満ち満ちていた。ネルとデクレを睨み下ろすソラ。気まずそうに彼女の視線から逃げるデクレ。無頓着ににこりとも笑わないネル。一人、近くの木に背を預けるレフィルだけが穏やかだった。
「さて、みんな揃ったみたいだし、行こうか。僕は先に村の出口まで行ってるから、別れのあいさつを済ませておいで」
さらりと言い放って、彼は宿屋の前から立ち去っていった。残されたネルとデクレは、その場に立ち尽くすだけ。
母娘がなにも言わないので、仕方なしにデクレが頭を下げた。
「…ソラおばさん、長い間、お世話になりました」
ソラは鼻を鳴らした。自分ならまだしも、デクレにも彼に関する話題を避けた母のこの態度に、とうとうネルは叫んだ。
「ひどいよお母さん!私たちになんにも話してくれなかったくせに、どうしてそんなに偉そうなの!?私たちがクレッセのこと探したいと思ってるって、知ってたのに!」
ソラは答えなかった。怒りのままにネルは駆け出した。
「お母さんの馬鹿!だいきらい!」
「ネル!」
村の入口へと走り去るネルの背を途方にくれた様子で見、デクレは慌てて再びソラに一礼すると、少女の後を追った。残されたソラを、デクレが足を止めずに振り返る。
彼女はとても小さく見えた。
◆
「…それはそれは、ネルはまた大胆だね」
村の外に出ても機嫌が氷点下のネルから事情を問いただしたレフィルは、しかし彼女ら母娘の険悪を朗らかに一笑した。笑い事じゃない、デクレがつぶやく。
「父さんたちがいなくなってから、僕はソラおばさんに育てられたんだ。父さんたちのこと教えてくれなかったのは…僕だって嫌だけど、でも、こんな形で別れてきちゃったのは」
「だって、デクレ!」
「あはは、別に今生の別れってわけじゃないんだ。存分に悩みぬけばいいさ」
妙に達観した様子でレフィルが言う。ネルたちとさして変わらない年に見えるのに、彼はまるで老人のように穏やかだった。
「レフィルはどうして、蹄連合に?"神の子"を助けたいの?」
「ん…、確かにそれもある。良くも悪くも、フェルには世話になったし借りがあるからね。…だけど、蹄連合に入るほどの理由ではないかな。どちらかといえば、フェルにしか…"神の子"にしか成せないことがあってね。それをやってもらいたいのさ。そのためには"神の子"が空位では困るんだ」
「じゃあ、別にそのフェルマータって人を助ける必要はないんじゃ…父さんが"神の子"になっても、その目的は成し遂げられるってこと?」
「まあね。だけど、貴族の側につくのはちょっと。僕は貴族が嫌いなんだ」
気楽に言い放つレフィルからはたいした感慨は見受けられなかった。むしろ楽しげですらあった。彼にとっては歴史のひとこまなど、単なるゲームに過ぎないとでも言いたげに軽々しい。今を生き、村から出ることすら一大事の、ネルやデクレとは大違いだった。
のどかな風が草原を撫でる。ネルのマントの裾がひらりと泳いだ。ラトメディアへと続く道のりは暖かだった。隣を歩く、デクレの小麦色の髪がなびく。そのむこうには、透き通る青い空が広がっている。
ネルはゆっくりと、自分が落ち着きを取り戻していくのを感じた。寝る前に部屋のランプを消すときのように静かだった。少女は、おぼろにしか思い出せない、出発前の母の顔を想像した。
ネルの家族は自分を含めて四人。自分と、姉と、父と、母。もちろん今はデクレだって家族の一員だ。
姉のエクレアはレクセディアにある学園に通っていて、今は課外研究と称して、クライディアで遺跡の探検に明け暮れているらしい。普段はそっけないけれどやさしい人で、姉離れしないネルにもしょっちゅう手紙を送ってくれる。…そういえば、エクレアに手紙を送っていなかった。クレッセを探して旅していれば、もしかしたらいずれ姉にも会うことがあるかもしれない。
一方で、父のことはほとんど覚えていない。物心ついたときからネルは母と姉と三人で暮らしてきたし、自分にとって父親とはユールおじさんだった。「お父さんは仕事が忙しいのよ」と言ったソラの台詞も、当時は両親が離婚したのだと判断するには至らず、デクレの家にも母がいなかったから、さして気にすることもなかった。
けれど、今、あの広い宿屋のカウンタに、ソラがひとりで座っているのかと思うと胸がうずいた。母は確固たる意志の持ち主だが、それでいてひどく寂しがり屋なのだ。
だんだんとネルの表情が暗くなるのを知ってか知らずか、前方から風にそよいで歌声が運ばれてきた。
"河はどこまでも流れる それは当たり前のこと
穏やかに風よ吹け やさしい気持ちをのせるように
いつのまにかいない 君 さっきまでここにいたのに
空よ唄え 祝いのうたを 泣いている君に届くように
呟く愛は 闇に紛れて
遠く離れた君には届かない
「さよなら でも 待っているよ」
帰る場所はちゃんとここにある
それは君への賛歌 聞こえてますか?
わたしの小さな声が
君のその生き様が 大好きだよ
いつも ずっと 待っている"
小さく息をついたレフィルに、デクレが感嘆した。
「……上手いんだね、レフィル。ネルとは大違い」
「デクレ!」
「あはは、ありがとう。歌にはちょっと自信があってね。路銀が尽きたらいつもこうして稼いでるんだ」
なるほどレフィルの歌声は、金を出しても惜しくないほどになめらかでうつくしく、心が休まるような心地がした。
「聴いたことないけど、いい歌だね。ラトメの歌なの?」
「いや。友達に教わったんだ。彼女も歌うのが好きでね。僕なんかよりも、ずっとずっと上手だよ」
「へえ。ネルも弟子入りしたら?聞いてよレフィル、こいつ、すっごいへたくそなんだ」
「デクレ、ひどい!」
デクレはちょっとだけ笑った。彼はあまり笑わない。クレッセたちがいなくなってから。家族の情報は、彼にとって少なくとも朗報には違わないのだと知った。
ほらね、お母さん。もっと早くに知っていれば、デクレはもっと笑っていられたかもしれないのに。
先ほどまでならば母の悪態でもついていたであろうに、ネルはなんだか空しくなって口をつぐんだ。
レフィルはからから笑った。
「音程なんかどうでもいいんだ。大切なのは、自分の伝えたいことをどれだけ言葉に乗せられるか。…といっても、これも僕の歌の師匠からの受け売りだけどね」
ぺろりと舌を出すレフィル。悟るような口調で語りだしたかと思えば、今度は幼い挙動を見せて。彼は、本当に不思議な少年だった。
レフィルが歌ってるのはこちら↓
http://fkja.voiceblog.jp/data/raffaellomusic/1292070873.mp3
アカペラですみません。そのうち伴奏ついたやつUPできたら…いいな!
レフィルはこれキー変えて歌ってるってことで勘弁してください。