act.23 郷愁
応接間に通されたネル達は、ふかふかのソファに座ってやっと人心地ついた。ギルビスはネルたちの向かいに腰かけると、ゆったりと脚を組んで口を開いた。
「粗方の事情はエルディから聞いてるよ。大変だっただろう。この城内なら巫子狩りは入ってこないから安心するといい」
「パパはどうしてるの?」
メルセナが尋ねると、ギルビスは何かを思い出したのかクスリと笑った。
「執務室に缶詰だ。彼の雑務が溜まっていてね。君たち親子のことは、エルディへの極秘任務だと騎士たちには言ってある」
「執務室にパパの机がまだ残ってたみたいで安心だわ!じゃ、みんな元気なのね」
「ただ、招かれざる者たちが来るようになったのも事実だ。さっきの二人組のようなね」
ギルビスの表情がやや曇った。彼らしくもない浮かない表情だ。ルナセオが身を乗り出す。
「あの、よかったんですか?あいつら追い払っちゃって」
「ファナティライストの兵といえど、正式な書簡がないと五大都市で勝手が許されないのは事実だからね。いくら神都に下ったとはいえ、あくまで五大都市は自治区だ。ファナティライストの中には、神都に住んでいるというだけで他の都市を見下している者も少なくないけどね」
「さっきの子も言ってたね、属国風情って」
ギルビスはまったく嘆かわしいとばかりにため息をついた。
「ファナティライストの教育がそういう方針なんだろう。まして巫子狩りの多くはファナティライストのスラム上がりだと聞く。神都で苦しい生活を強いられてきた彼らが、ファナティライストの民こそ最上だというあちらの教育によすがを求めるのはそう珍しいものじゃない。もっとも、ラファが高等祭司になってからは随分ましになったと聞いているんだけどね」
ラファの名前が出たことで、トレイズが不満げに鼻を鳴らしたが、ギルビスは無視した。
「まあ、それは君たちには大して関係のない話だが。神都へ行くつもりなら頭に留めておくといい。…ああそう、神都へ渡る通行証の話だけど、事務に通達しておいたから、三日もすれば発行されるだろう」
「じゃあ、ファナティライストへも渡れるのね!」
メルセナが明るく言った。ネルもルナセオも安心して、顔を見合わせたが、トレイズ一人だけ渋い顔だ。手持無沙汰に髭をいじりながら低い声で言う。
「それなんだが、ギルビス。こいつらに聞いた話なんだが…ファナティライストの高等祭司に、レナ・シエルテミナって奴がいるらしい」
「レナ?」
エルディはレクセでの出来事をギルビスには報告していなかったらしい。ギルビスの眉が寄った。しばし考え込むように目を伏せて情報を整理しているようだったが、これまでレナのことを聞いた大人たちとは違って、彼はあくまでも冷静な口調で返してきた。
「…レナ・シエルテミナが生きているって?本気で?」
「俺は会ってないからなんとも言えないが、こいつらの話ではな」
なるほどね、そう言うギルビスは落ち着いてこそいたが、なにか遠い出来事に思いを馳せているようだった。そのまま黙り込んでしまった騎士団長に、ルナセオが言った。
「嘘じゃないよ。俺たち本当にレナに会ったんだ」
「いや…疑っているわけじゃないよ。ただ…そうだな、レナ・シエルテミナはどんな態度だった?」
「あのね、私に“赤い印”をくれたのはレナなの」
ルナセオが言いよどんでいる脇からメルセナが前のめりになって口をはさんだ。
「くれたっていうか、レナに宿ってた印が、私に移ったっていうか…とにかく、レナは私の“印”を取り返したいみたい。何に使うのかは知らないけど」
「移った、か」
ギルビスが繰り返す。
「要するに、レナ・シエルテミナの狙いは“赤い印”ということか。なら、用心したほうがいい。ファナティライストで遭遇したら、逃げたほうがいいだろう」
「やっぱり、ヤバい奴なんですか?レナ・シエルテミナって」
自分の叔母だということは伏せて、ルナセオは探るように聞いてみた。ギルビスは薄らと笑うと、皮肉っぽく言った。
「さあ?」
「さあ、って、だって、逃げたほうがいいんでしょう?」
「レナ本人がどんな人物なのか、僕は知らない。でもね、死んだ人間が実は生きていた、だなんて、まして、そんな人間がこの国の最上層にいるだなんて、どう考えても自然な話ではない。君たちの旅の目的が彼女にないのなら、関わり合いにならないのが賢明だろうね」
そう言うギルビスの表情は、何かを恐れるような、それともなにかに憧憬を抱いているような、そんな不可思議なものだった。メルセナは眉をひそめた。巫子の話をするギルビスは、どこか彼らしくなく憂いに満ちていたから。
ラトメでマユキが巫子の苦悩を語っていたように、きっとギルビスにも大きな傷がある。けれど、彼はそれをメルセナ達に話すつもりはないのだろう。自らの重荷を、人に押し付けるような人ではないから。
気まずい沈黙を蹴破るように、軽快なノックの後で、勢いよく応接室の扉が開いた。
「失礼しまーす!セーナが帰ってきたって聞いて飛んできちゃいました!」
「ヒーラ!」
メルセナは思わず飛び上がった。カラメル色の髪の、あどけない顔立ちの騎士は、ティーセットを一式抱えて応接間に入ってきた。
「やあ、メルセナ。ピクニックは楽しかった?君が来ないと騎士団はむさ苦しくってつまらないったらないよ。やっぱり華が必要だね、華が」
ヒーラはてきぱきとお茶の準備をしながらにっこりした。
メルセナは、レクセでルナセオがグレーシャと再会した時の興奮具合を理解した。あたたかく迎えてくれる馴染みの騎士のやさしさが、ここのところささくれだったメルセナの心を癒した。
「セーナ、知り合い?」
おずおずとネルがヒーラを伺いながら、セーナの服の裾をくいくい引いた。
「そんなこと言ったら、パパの同僚はみんな知り合いだけどね。彼はヒーラよ。甘党だけど有能なの」
「ヒドイこと言うなァ。甘党なのは欠点じゃないよ」
「ところが、君の場合は著しい欠陥だ」
ギルビスはヒーラの手元を見ながらのんびり言った。「その凶悪な劇薬を飲ませる気かい?」
「やだなあ!僕なりの精一杯のおもてなしですよ」
ネルは一口お茶を飲んで、吐き出しそうになるのをこらえた。湯の量よりも多いのではないかと思わせる砂糖まみれのカップの中身知っているほかの面々は、取っ手に手をかけることすらしなかった。
「トレイズ殿とルナセオ殿はお久しぶりです。セーナ達を連れてきてくれてありがとうございます」
「…あ、そっか」
ルナセオは以前シェイルに来た時の記憶を掘り起こした。
「ギルビスさんが言ってた、印を継承した部下の娘ってセーナのことか」
「成り行きでばったり会ったんだ。別に探したわけじゃない」
トレイズもそう言って肩をすくめるのを見て、メルセナはしばし考えた。それからヒーラとギルビスを交互に見る。
「え、ヒーラも、私が巫子になったって知ってるの?」
「一等騎士はみんな知ってるよ。なにせ、ファナティライストの招待してもいないお客さんがたびたび遊びに来るもんだからさ」
そしてヒーラはにこりとした。
「だいたいはダラー殿が睨めば帰っていくけどね。ほら、あの人目つきがサイアクだから」
「聞こえているぞ、ヒーラ」
再び、応接間の扉が開き、ブロンドの髪の神経質そうな男が苦い顔をのぞかせた。ヒーラは「おっと」とまるで反省していない様子でぺろりと舌を出して見せた。お茶目にウインクして立ち上がる。
「一応、君たちがシェイルに来たことは極秘だからね。部屋に警備で立ってるんだった。さーて、じゃ、僕も仕事してこようかな!セーナ、あとで旅の話を聞かせておくれよ」
言うが早いか、ヒーラは一目散に応接間を撤退していった。扉の向こうで、
「ヒーラ!今日という今日は罰則だ!」
という叫び声が聞こえてくる。
騎士団長はやれやれと頭を振って客人たちを見回した。
「騒がしくて悪いね。通行証ができるまでは、君たちがこの城に滞在できるよう殿下にお許しを頂いている。数日は旅の準備ができるまでゆっくりするといいよ」
◆
お城に滞在だなんて、なんだかお姫様になったみたいでちょっと得した気分だ。ネルは浮足立って城内の探険をしていた。出歩ける場所は制限されていたが、それにしても広い城内をひとしきり見て回ると、一息つきたくなってネルはテラスに出た。
「…あ」
「やあ、ネル。お散歩かい?」
テラスには先客がいた。濃紺の髪の青年はネルの姿を見とめると穏やかに微笑んだ。やっぱり失礼します、だなんて言えずに、しぶしぶネルは彼の隣に立った。
「ギルビス、さんも?」
「ギルビスでいいよ。セーナもそう呼ぶから」
ネルは注意深くギルビスを観察した。その佇まいからは、彼が今何を考えているのかは推し量れない。声の調子や、視線の動き方、手持無沙汰に爪をいじる様子、ひとつひとつ眺めまわして、ようやくネルは口を開いた。
「ギルビスは、騎士団長になって、長いの?」
いったい何を聞いてるんだろう、ネルはすぐさま縮こまって恥じ入った。ギルビスが一拍詰まるのがわかったが、それでも彼は柔らかく言った。
「十年近くなるかな。以前の騎士団長が僕に声をかけてくれて…ただの繋ぎだとばかり思っていたのに、まさかこんなに長く続けることになるとはね」
そこまで言って、ギルビスは視線をさまよわせた。
「…こんな話をしても、面白くなかったかな?」
「ううん」
ネルはとっさに首を横に振った。
「セーナとセオがね、ギルビスがすごくかっこよかった、って言ってて、そんな人だろう、って思ってたの」
「それは光栄だ」
「でも…」
ネルの中で、むくむくと言いようもない気持ちが沸き上がってきた。嬉しいような、切ないような気持ちで、ネルはギルビスの濃紺の瞳を見上げた。
「ねえ、ギルビスは、騎士団長になったこと、後悔してない?もっとやりたかったこととか、そういうのはないの?」
聞きながらも、自分がどんな答えを期待しているのか、ネルにはわからなかった。ギルビスの顔からすうと温度が消えていった。ほんの一瞬だけ、表情を曇らせて、彼はやや低い声で言った。
「それはね。後悔をしたこともあったよ」
失礼極まりない質問だというのに、ギルビスは怒ったり、ネルを非難することはなかった。丁寧に答えを探すようにギルビスは続けた。
「でも、そんなのは、僕の背中を押してくれた人たちに失礼だから。…なんていうのは、言い訳くさいかな。そうだな…騎士団長になるために諦めたことも、後悔することもたくさんあるけれど。でも、この道を選んだことを恥じることはない、かな」
それからギルビスはまたネルを見下ろして、やさしく微笑んだ。
ネルはほっとした。きっと彼がいやいや騎士団長をやっていたなんて言ったら、恥も外聞もなく怒っていただろうから。
(…このひとは、私のこと、聞かない)
ネルのことだけじゃない。村にいる母のことも、留学に出た姉のことも。
でも、聞こうとしないその気持ちを、今のネルならわかるような気がした。あのインテレディアの穏やかな空気を少しでも思い出してしまったら、郷愁にあえいで、辛くなってしまうだろうことは想像に難くなかった。
だから、あえてネルはこう尋ねた。
「ねえ、ギルビス。
私のお父さんは、ちゃんと私のこと、覚えていてくれているかなあ?」
テラスの手すりについていた彼の指先に力がこもった。隣でゆっくりと息を吐く音が聞こえた。自分だけではなく、彼もとても緊張しているのだ。
やがて、ギルビスはぽんとネルの頭に手を乗せた。あやすような動きで何度か叩いて、それからネルの赤く染まってしまった髪を撫でつけて、最後に右肩に落ち着いた。
「もちろん。君みたいに可愛いお嬢さんのことは、一日だって忘れやしないよ」