act.21 軍城の庭クレイスフィー
チョークで大きな魔法陣を地面に描く。それを物珍し気に眺めながら、しゃがみこんだネルはリズセムを見上げた。
「こんなの描いちゃって、あとでお掃除する人が困ったりとかしないんですか?」
「え?あははは!君、魔法陣を見るのは初めて?」
「初めて、じゃないけど、あんまり…」
なにかまずいことを言ってしまったんだろうか。助けを求めるようにルナセオとメルセナを見ると、彼らもやはり笑っていた。ルナセオが魔法陣を指さして言う。
「チョークとか、砂面に石で描いたりとか、消えるもので描いた魔法陣は一度発動したらなくなっちゃうんだ。だから掃除の心配はしなくていいんだよ」
「そうなの?」
「お城とかにある転移用の魔法陣とか、消えると困るようなものは壁とか床に直接彫ったり、魔法陣の形に模様をつけたりするの。一般人もお役所に届けを出せば、お城の魔法陣を使わせてもらえるのよ」
「ただ、その届け出ってチョー面倒くさい上に、チョー時間がかかるって話だけどね。僕は年中顔パスだけど」
そらできた、言いながらリズセムは立ち上がった。魔法陣にはさまざまな記号や文字が書かれていて、中にはネルには理解できない文字も混ざっている。
リズセムは夜が明けてから、出し抜けに
「せっかく会えたわけだしさ、転移でクレイスフィーまで送っていってあげるよ。徒歩って面倒だし」
と言って、渋い顔をするエルディと蒼白なトレイズの顔色などまったく見やしないで、朝食のあとすぐに外へと飛び出していった。
勝手な王様だなあ、ルナセオは楽し気に言ったが、メルセナは白い目で胡散臭いシルクハットの王殿下の背中を見ていた。
(でも)
魔法陣を見下ろしながらネルは思った。
(たぶん、リズセム様は本当はすごい人なんだろうなあ)
昨夜、向かい合ったリズセムの表情ひとつとっても、飄々として奇抜ないでたちとはちぐはぐで、実はとんでもない食わせ者なのだということは分かる。ネルにだってわかるくらいなのだから、他の人はもっと早くに気付いているのだろう。
ネルにとっては本来一生ご縁のなかった人に会えるのも光栄だった。シェイルの王族など、ただの村娘が声をかけられる立場でないことは分かっている。
(これも巫子のトッケン、ってやつなのかなあ)
じっとリズセムを見つめていると、彼はニタリと意地悪く笑った。
「なんだい?そんなに見つめられると照れるじゃないか。もっとも、僕が照れる相手は世界にひとりきりだけど」
「リズセム様の奥さん?」
「そ。そりゃあもう可愛らしい子だ。声も女神のように美しい」
背後でエルディがため息をついた。その姿にリズセムはケタケタ声を上げる。
「君ももうちょっと愛想がよければねェ、エルディ?子持ちだろうがなんだろうが、引く手あまただろうに。僕の最愛の君が嘆いていたよ」
「……あいにくと、結婚に興味はありませんので」
またこれだ、おどけたように言うリズセムに、ルナセオは首をひねった。
「王様とエルディさんってさ、なんか妙に親し気だよね。騎士団と旧王家ってそんなに仲いいの?」
「…まあ、な。私は縁あって王子殿下と親しくさせていただいているから」
エルディが言葉を濁して視線を泳がせた。ネルがじっとその様子を見ていると、ルナセオがこっそりと耳打ちしてきた。
「エルディさんもさ、なんつーか謎な人だよな。トレイズの元・部下で、王子様と知り合いで、あの若さで一児の親だろ?しかも結婚はしていない…できスギってこのことだな。たいていの女はコロッといっちゃいそう」
「エルディさん、キレイだもんね」
「お前たち、聞こえてるぞ」
おまけに地獄耳、ルナセオ付け加えて、ぺろりと舌を出して見せた。メルセナもニヤニヤ笑って父の腰を小突いている。
するとトレイズが頭をガシガシやりながら助け船を出した。
「おい、さっさと行こうぜ。エルディみたいな堅物の恋愛事情より大事なことがあるんだろ」
「…はーい」
「ま、それもそうだ。さあみんな乗って。ああ、陣は踏んでもいいけど消さないように頼むよ」
恐る恐る魔法陣の中に足を踏み入れようとするネルにリズセムが声をかけた。最新の注意を払って一同が魔法陣に乗ったのを見計らうと、彼は陣の中央で片手を挙げていつもよりやや低い声でつぶやいた。
「飛べ」
ふと浮くような感覚の後で、視界が一瞬にして緑に包まれた。
そこは森だった。
森といってもレクセディアやインテレディアにあったような豊かなものではなく、やせた枝に褪せた葉をつけた、どこか貧しい樹々だ。
「ここ、“枯れ森”?」
メルセナが木の幹の間に転げながらあたりを見回した。シルクハットの角度を直すリズセムはひらひらと手を振った。
「そ。クレイスフィーから10分もかからないあたり。別に町中に転移してもよかったんだけどさ、シェイル高官ってウルサイヤツばかりなんだよねえ」
ネルは座り込んだまま、初めて見る“枯れ森”を見回した。ルナセオはひょいと立ち上がってネルの手を取る。
「ネルはシェイル、初めてなんだっけ?」
「うん。まだインテレディアにいたころは、シェイルの方からもよくお客さんが来てたけど」
ネルを助け起こすと、メルセナがひらひらと手を振った。
「王子様、よろしければわたくしにも手を貸していただけません?」
「ハイハイ、まったく我儘な女王様だなあ」
おどけて言いながらメルセナを引き上げると、小柄な体はひょいと体勢を直した。すると、ぴゅうと北からの冷たい風が吹いて、ネルが身を震わせた。
「やっぱりシェイルは噂通り寒いね」
「クレイスフィーに着いたら、ネルの服を買いに行こう。その髪を隠さなくては」
エルディが言いながら自分のマントをネルにかぶせた。するとリズセムがぴゅうと口笛を吹く。
「あれでこそ王子ってかんじだね。どうだいセーナ。ここは娘としてヤキモチを焼くところじゃないか?」
「私がネルに?いいですねえ。たまには継子が継母をいじめる話があっても」
「えっ?セーナ、どういうこと?」
「お前たち、その辺にしてくれ。さっさとクレイスフィーに行こうぜ。頭が痛くて吐きそうだ」
きょとんとして言葉の意味を考えているネルにマントのフードをかぶせながらトレイズが言った。転移酔いで顔色が青白い。エルディは無視を決め込むことにしたらしく、さっさと街に向かって歩き出していた。
◆
クレイスフィーに着くと、エルディは数枚の紙幣を出してメルセナに押し付けた。どうしたのかと娘が目をぱちくりしていると、父の方はようやく機嫌を直したのか薄ら笑った。
「それでネルに服を選んでやりなさい。それから帽子か何か、髪を隠せるものを。余った分は昼食代にしていいから」
「エルディさんはどこに行くの?」
ルナセオが問うと、エルディはうんざりした様子でリズセムを見た。
「私は殿下を城までお送りしなくては」
「別にいいよ、なんせここは僕の家の庭みたいなモンだし」
「いけません。放っておいたらあなたはまたどこかへフラフラ旅に出てしまうでしょう。宰相が嘆いていますよ、殿下がなかなか戻らないと」
「うわあ、面倒くさい」
ぼやくリズセムを半眼で黙らせてから、エルディがトレイズに頭を下げた。
「申し訳ありませんトレイズさん、子供たちを頼みます」
「ああ、気にすんな。合流場所は城でいいのか?」
「はい。門番には話を通しておきます。城内はメルセナが道を知っています。セーナ、用が済んだら執務室に来なさい」
「別に私たち三人でもいいのに」
「馬鹿言うな。巫子狩りに見つかったらどうする」
実はレクセでも三人で出かけたんだけどね、という秘密は喉の奥へと押し込んだ。渋るリズセムを追い立てながらエルディは城の方角へと去っていった。
ネルはエルディのマントをぴっちりと巻きつけながら困ったようにつぶやいた。
「いいのかな、お金」
「パパはたくさん稼いでるから大丈夫よ。それよりどんな服がいい?私、バッチリ見立ててあげちゃう!」
「女の子はこういうの好きだよなァ」
ルナセオがぼやくと、トレイズがため息をついた。いつの世も女の子の買い物は長いものである。
そうしてネルの買い物が終わる頃には、太陽はすっかり高いところへ上って、クレイスフィーの街もぼんやりと暖かくなってきた。真新しいワンピースとマントに身を包んだネルはほくほく顔で、赤く染まった髪の毛を詰め込んだ帽子のふちを気にしながらにっこりした。
「セーナ、すごく買い物上手なんだね。私、お代値切るの初めて見ちゃった」
「ふふん、シェイルじゃ基本よ、基本」
メルセナは満足げに胸を張った。トレイズも同調する。
「旅暮らしは金がかかるからな。お前も身に着けておいたほうがいい」
「あら、珍しく意見が合うじゃない?」
嫌味ったらしくメルセナが言うが、トレイズは何も言わず取り合わなかった。メルセナはフンと鼻を鳴らす。
ルナセオは慌ててふたりの間に入った。
「まあまあ。ネルの買い物も終わったんだし、昼飯でも食いに行こうよ。俺、腹減って死にそう」
「…ま、いーけど!」
ぷいと顔を背けて、メルセナはスタスタ歩いていく。その背を追ってご機嫌を取りに行くルナセオを見ながら、なんなんだ、と漏らすトレイズに、ネルがそっと囁いた。
「あのね、ごめんね、トレイズさん」
「何が?」
「セーナのこと…」
「別にネルのせいじゃないだろ」
トレイズはちょっとだけ口の端をあげて、ネルの頭をぽんと軽くたたいた。
「お前だって、俺に我慢ならないんじゃないのか?」
ネルはもの言いたげにしばし口を開け閉めしていたが、言葉にならずに結局うつむいてぽつりと言った。
「…だって、トレイズさんの言うことは、間違ってないもん」
トレイズは大人で、ネルは子供。
きっと彼には、ネルには見えていないものがたくさん見える。
だから、クレッセを殺せと言うトレイズには、なにかそれ相応の理由があるはずだとネルは思った。きっとそれはネルには納得できないものだろうし、クレッセの幼馴染として、納得してはいけないものだろうけど。
悲壮な顔をしてうつむくネルに、トレイズは肩をすくめた。
「つっても、生きてりゃ、ソリの合わない人間なんてのは人生でひとりくらいは必ず出会っちまうモンさ。メルセナにとっては、それが俺だってだけだよ」
「ソリの合わない人間?」
「ああ、お前にもいるだろ?」
ネルは少しだけ記憶をたどった。不意に、旅立つ前の母の怒った顔が思い出される。
「お母さんとはね、いつも喧嘩ばっかりしてたの」
「そりゃお前、お前くらいの年頃の奴はみんなそんなモンさ。母親はやれ口うるさい、父親はやれウルサイだの臭いだの邪魔だの」
「私、お父さんはいないからわかんないけど」
トレイズの口がぴたりと閉じた。とたんに気遣わし気な表情になる。「アー、悪いな」
「どうして?私、ユールおじさんがお父さんみたいなものだったし、デクレとクレッセの言えもお母さんがいなかったから、あんまり変な風に感じたりしなかった」
「変じゃないさ」
トレイズはまたしてもガシガシ頭を掻いた。
「ただ、マズイこと聞いてたら悪いなって思っただけ」
「そんなことない」
ネルはふるふる首を横に振った。父がいないことを寂しいと思ったことはほとんどなかったし、そればかりか…薄情な話だが…気にすることもほとんどなかったのだ。
お父さんか、ネルは内心で思った。まったく覚えていないというわけではないが、ただ、優しい人だったということだけ、薄ら。どうして父が出て行ってしまったのかも知らないし、それがいつのことだったのかも、記憶にない。ただ、姉はひたすら父のことを怒っていたのをぼんやり覚えている。
お父さんの顔はどんなだったっけ、記憶を掘り起こそうとしたところで、前方にいたメルセナが大きく手招きしていたことに気が付いた。見ると、ルナセオとメルセナは物陰に隠れて、なにやら切羽詰まった顔をしている。
「どうしたの?」
「ねえ、見てよ、あれ!」
声を潜めて指さした先を見た瞬間、トレイズがはっと息を呑んでネルを物陰に押し込んだ。
シェイル・クレイスフィーの裏通りで、一組の男女が向かい合っていた。といっても、色っぽい関係とは到底思えない。二人の黒いマント姿は異様だったし、男…というよりも、まだ少年…の方は、少女のほうに何やら叱られているらしく、しょんぼりと縮こまっていたのだ。
そのマントを見たことがないネルだけが状況をつかめずに困惑してトレイズを見上げた。
「あの人たちが?」
「“巫子狩り”だ。まずいな。こんな町中でドンパチやるわけにはいかない」
「“巫子狩り”って人間なのね、当たり前だけど。ずっとフード被ってたから、中身は人形か何かだと思ってたわ」
「人形が動くわけないだろ…ルナセオ?」
ルナセオは口を間抜けにぽかんと開け放して、巫子狩りの二人組を眺めていた。正確には、うつむく少年の方を、だ。あの小柄な体躯、怯える姿。記憶の隅で引っかかっている。
「アイツ、知ってる、と思う」
うわごとのようにつぶやいた。ネルが聞き返した。「え?」
「アイツ、確かレクセで…」
「ちょっと待って、何か話してる」
メルセナが身を乗り出した。少女の方が、小麦色の髪をかきあげながら、イライラと言い放つところだった。
「どんくさいのよ、アンタ。なんで一度言ったこと覚えないわけ?」
「う…ごめん」
「せっかく手柄を立てる手助けをしてもらおうと思ってやったのに、アンタがいると邪魔なだけね、失敗したわ」
「ね、ねえローア、本当にやるの…?」
「当然よ!」
ローアと呼ばれた少女のほうは、憤然と言い放って腕を組んだ。
「あのレナとかいうバカ女が動く前に巫子をとっ捕まえなきゃ。突然現れて、高等祭司の地位に納まっちゃって。パパがどれだけ苦労してあの位に就いたと思ってんのよ、腹立つ!」
「ローア…」
「トック、あたしがパパを助けてあげるのよ。それでママとお兄ちゃんが自由に神都に来られるようにするの。アンタももちろん手伝ってくれるわよね?」
「もちろんって」
トックと言うらしい少年はきょときょととあたりを見回した。ネル達は慌てて首をひっこめた。
幸いにも四人の姿は彼らの位置からは見えなかったらしく、ネル達のいる積み重なった木箱のあたりは素通りして、トックの視線はローアに戻った。
「うう…ぼ、ぼくは何をすればいいの?」
うなだれるトックと対照的に、ローアはふんぞり返っていった。
「あたしと一緒に、巫子を捕まえるのよ!連中は怖い術を操るって話だけど、アンタが盾になってあたしを守るのよ」
「そんなあ」
「巫子たちは、絶対、クレイスフィーを通るはずよ。パパだって、巫子はシェイル騎士団長のギルビス・L・ソリティエに会いに来るはずだって言ってたもの。クレイスフィー城に行くわよ!」
「ちょ、ちょっと待ってよお!」
二人はばたばたと城の方角へと駆け出して行った。その気配が完全に途絶えてから、メルセナがトレイズを振り仰いだ。
「なんか、巫子狩りって割には間抜けっぽくない?」
「巫子狩りって言っても色々いるんだろ。ルナセオ、さっきお前、何か言いかけてなかったか?」
ルナセオがゆっくりと顔を上げた。その顔色がすっかり青ざめていたので、一同はぎょっと目を剥いた。ネルが気遣わし気にルナセオの背中をなでた。
「セオどうしたの?」
「ネル、お、俺」
「ちょっと落ち着いてよ。今の連中のこと?」
メルセナの質問に、ルナセオは何度も首を縦に振った。
「俺、あの男の方、知ってる」
「会ったことあるってこと?」
「そう、そう!でも、おかしいんだよ、あいつ…あの、あいつは…お、俺、俺が」
ルナセオは何度か口をぱくぱくさせてから、意を決したように言った。
「俺が、こ、殺したはずなんだ」