act.20 トレイズの昔話
「あまり人に話すべきことでもないが、俺は神護隊に拾われる前、殺し屋をやっていた。グランセルドって聞いたことあるか?俺のような金の目を持っている殺し屋一族だ。俺はその一族のひとりで、そりゃあもう昔は恐れられてたもんだ。“紅雨のトレイズ”の通る場所は血の雨が降るってな」
「べにさめ」
何度か聞いた単語だ。ルナやリズセムが言っていたのは、彼の殺し屋時代の呼び名だったのだ。
世の中のお偉いさんがそうした殺し屋を雇って、気に喰わない連中をどうこうしてしまう、なんて話は聞いたことがあるが、ルナセオからしてみれば縁のない話だ。今目の前にいるトレイズが元・殺し屋だと聞いてもいまいちピンとこなくて、ルナセオは黙ったままトマトジュースを一口飲んだ。
「物心ついたときから人を殺していた。それが良いことか、悪いことか、そんなモンも知らずにな。…正直言うと、今もよくわかっていないのかもしれない。メルセナは俺と自分は違うって言っていたが、その通りかもしれないな。俺は、第九の巫子を殺すべきだし、それが悪いとはどうしても思えないんだから」
そういうものなのだろうか。平穏な生活を送ってきたルナセオにとっては、何もかもが遠い世界の話に聞こえた。ルイシルヴァでも武術の授業はあったけれど、それは人を殺す術というより、自分の身を守るためのものだった。剣だって刃をつぶしたものを使っていたから、ルナセオには、今腰にぶら下げたチャクラムを手にしたのが、初めての暴力だった。記憶をたどるうちに、またもルナセオが“赤い印”を継承したあの日のことを思い出して気が滅入った。
「…じゃあ、トレイズは、軽蔑しないの?レクセで、その、俺が、巫子狩りを…」
「軽蔑?」
うつむくと、頭上でトレイズが笑う声がした。ぽんぽんと、大きな手がルナセオの頭を叩いた。左隣に座るルナセオに彼がそうするためには、わざわざグラスを置いて右腕を伸ばさなくてはならない。彼のそんな不便なやさしさが身に沁みた。
「俺はもっと軽蔑されることをやってきた。それに、お前は自分の身を守るためにそうしたんだろ」
「…うん」
トレイズはそれから、新しい酒を頼んでグラスのふちをなぜた。
「…あれは、いつの頃の話だったかな。確か北風が吹き始めて、ぐっと寒くなった時期だったか。瑠璃の目の少年を捕まえろって、依頼が来たんだ」
「瑠璃の目?」
すぐに思い出すのは、一緒に旅をしているエルディのことだ。美しい銀の髪に、瑠璃の瞳。この世のものじゃないみたいに端正な顔立ち。
「ああ。世にも美しい瑠璃の瞳だと。それを取ってこいってな。そいつはシェイルにある富豪の家に世話になっていて、他の者はどうでもいいと」
ルナセオは息を呑んだ。トレイズはそれには反応せずに、じっと目線すら動かさずにいた。
「それが、チルタの…前の第九の巫子の屋敷だった」
「え?」
「俺は殺したよ。屋敷にいるヤツはみんな。チルタと、その瑠璃の目の少年…ラファ以外は、全員」
「ラファ?今、ラファって言った?」
驚いてトレイズを見ると、彼はゆっくりと頷いた。
「知ったのは、ずっと後になってからだったけどな。あれがラファとチルタだったなんてさ。あの出来事は、思い出さないようにしてきた。俺の最後の仕事だった。俺はあのあと、グランセルドを抜けたんだ」
父とトレイズにそんな過去があったなんて、想像もしていなかった。しかし、これで合点がいった。ルナセオがチルタの、元・第九の巫子の息子だということを、エルディがトレイズに言いたがらなかったのは、こういう理由だったのだ。
「チルタは、あの日の出来事がきっかけで、第九の赤い印を宿したらしい。けど俺は、そんなこと考えもしなかった。ただ俺は、チルタを悪の権化みたいに思ってた。自分のやったことは棚上げしてさ」
「どういうこと?」
「俺はしばらく、あてもなく一人旅をして、行き倒れたところをフェル様…“神の子”に拾われた。その頃にはもう俺も赤い印を宿していたな。俺はフェル様に神護隊を作らないかと誘われて、孤児たちを集めて“神の子”の護衛団を作った。…それで、再会したんだ。ファナティライストの高等祭司になっていたチルタと」
もっとも俺はチルタのことをすっかり忘れていたから、それが初対面だと思っていたんだがな。付け加えるようにそう言って、トレイズは目を伏せた。
「俺はラトメに無断で入ってきた高等祭司に文句をつけるために砂漠のほうへ出向いた。チルタは何人かの巫子狩りと一緒に、凶悪な殺し屋集団を滅ぼしに来たって言ってたよ」
「…まさか」
言われずとも続きは読めた。ルナセオの手が震えた。
「生き残りは、いなかったらしい。少なくともその場にいた連中には。俺はチルタを仇だと思っていた。どうしてあの時、チルタがわざわざラトメくんだりまで来てまでグランセルドを滅ぼしに来たのか、事の真相を知ったのは、チルタが巫子じゃなくなった頃だ」
その時のトレイズは、どんな気持ちでそれを知ったのだろう。家族を殺されて、でもその仇の家族をもっと以前に自分が殺していたのだと知らされて、いったいなにを思ったんだろう。
(父さんは、ひとごろし、だったのか)
母といつまで経っても新婚気分で、おまけに親馬鹿な父は、一度思ったようなサイテーな人ではなかったけれど、それでもあの姿は、父の中の一面に過ぎないのかもしれない。優しい父にそんな過去があっただなんて思いもよらない。ルナセオは頭をぶん殴られた気分だった。
ネルに渡した魔弾銃。あれで、父も誰かを撃ったのだろうか。
「俺は、だけど、未だにチルタを許せない。きっとあっちも同じだろう。お互いに生きてるのが許せない。どこかで生きてはいるんだろうが…いや、今更仇を討とうにも、きっとむなしいだけだな」
そうして、トレイズは氷のとけた酒を飲んで息をついた。少し笑って、うつむくルナセオに微笑んだ。
「つまらない話だったな、すまない」
「ううん…」
ルナセオは小さく首を振った。トレイズの顔もまともに見られなかった。
だけど…グラスについた雫を、そっと人差し指でぬぐいながらルナセオは思った。
だけど、トレイズの一族を滅ぼしたというその恐ろしい巫子の息子が、今、酒場の隣の席に座って、彼の昔語りを聴いているだなんて、トレイズは思いもしないんだろう。彼の因縁の相手であるチルタの息子が、こんな平凡な学生だなんて、彼は一生気付かないのだ。
そしてそれを打ち明ける勇気も、ルナセオにはなかった。一方で彼を恨めしいとも思えなかった。何と言ってもルナセオにとって彼は恩人だし、トレイズのことは、決して嫌いではなかったから。
何も言わないルナセオに、トレイズはやさしく言った。
「第九の巫子はな、破壊せずにはいられない。憎しみに駆られて周囲が見えなくなる。クレッセもきっとそうなるんだろう。ラファが抑えているんだろうが…何かが起こったとき、一番に傷つくのは、ネル、なんだろうな」
ネル。ルナセオはあの穏やかな女の子を思った。いつでも明るくふるまって、前向きで、親元を離れて、幼馴染も、好きな相手をも失って、それでも笑っている少女。
「でも」ルナセオは思わず切り返した。「でも、きっとネルは、クレッセが死んだら、やっぱり傷つくんだ」
「…だろうな」
「なあトレイズ、トレイズが心配なのも分かるけど、やっぱりなんとか説得できないのかな?クレッセを。そのうちいろんなことを忘れちゃうんだとしても、今はネルを大事に思ってるんだろ。なら、今のうちに改心してもらうっていうのは」
「不可能とは言い切れないだろう」
そっけなくトレイズは返した。賛成していないのはその声音から明らかだった。
「でも、俺は望み薄だと思ってる」
「なんで?」
「お前や、ネルの話を聞く限り、クレッセはもう、第九の巫子の役目を受け入れてるんじゃないかと思う」
「そうすると、どうなるの?」
「…酷なことを言うようだけどな。第九の巫子に、人間らしい罪悪感や感受性を求めるべきじゃない。どんなに優しい人間でも、虫も殺せないようなヤツでも、暴れまわって笑っていられるようになるのが第九の巫子だ。それを受け入れてなお“印”を宿したのだとすれば、クレッセにはもう、何を言っても通じないんじゃないか」
でも、それはトレイズの予想だろ、とは、ルナセオには言えなかった。そういう反発がなかったわけではなかったけれど、彼の方が明らかに第九の巫子について詳しいし、きっとその恐ろしさもよく知っている。
ルナセオは口をつぐんで、トマトジュースを飲み干した。
「とはいえ、お前たちの決めたことなら、俺に無理強いはできない。どうするかは、ギルビスやロビに会って、お前たちでよく話し合って決めればいいさ。あいつらはお前らの言うことをないがしろにするような奴らじゃないし、きっと、いい知恵を授けてくれる。少なくとも、俺やラファみたいな、一辺倒な奴よりはな」
「……うん」
沈んでいるルナセオになにを思ったのか、トレイズの口調はわざとらしく明るかった。空になったグラスを押しのけて、ルナセオにいつもの調子で語りかける。そういえば、最近のトレイズはいつもむっつりしていたから、気さくな調子の彼を見るのも久しぶりだ。
「それで?何しにこんなところまで来たんだよ。ネルやメルセナと一緒にいなくていいのか?」
「いや、俺はトレイズを呼びに…あ」
本題をすっかり忘れていたルナセオはぎくりとした。脳裏にぷりぷりと怒るメルセナの姿が浮かぶ。
「ごめん、忘れてた。あのさ、俺たちんとこにシェイルの王様が訪ねてきてさ。なんでもギルビスさんに頼まれて来たらしいんだけど」
「……は?」
◆
「おっそーい!」
宿屋にて、ルナセオの想像通りむくれ顔のメルセナは、王の御前だというのも厭わず、テーブルに頬杖をついて毒づいた。ネルが人気の少ない窓の外を眺めながらぼやく。
「セオ、道にでも迷ってるのかなあ」
「こんな小さい村で迷うわけないでしょ」
すると、流麗な手つきでお茶を飲んでいたリズセムが、クスクスと楽し気に笑った。
「彼も何か悩んでいる風だったからね。君たちを離れて考えたいことでもあるんだろう」
「セオに悩み?」
ネルの顔が曇った。「私たちに言ってくれればいいのに…」
「男が女の子に悩みを打ち明けるのは勇気がいるものさ。ましてあのくらいの年頃はね。なに、言いたくなればそのうち弱音を吐いてくるんだから、そうしたら彼のケツでもなんでも蹴り飛ばしてやればいいのさ」
「…殿下、あまりそういう表現を使うのは…」
「なんだい?小姑みたいに」
ケタケタ笑うリズセムにエルディはげんなりしていた。それに気づいているのかいないのか(きっと、気付いてなおエルディをからかっているに違いない)、リズセムは行儀悪く椅子に片膝を立てた。
心底疲れ切った表情のエルディは諦めたように問う。
「結局、何をしにこちらへ?殿下ともあろう方が、いくらギルビス様に乞われたからといって、わざわざ私たちを探しに来るとは思えないのですが」
「信用がないなァ」
リズセムは肩をすくめた。
「まあね、僕だって普段ならこんな七面倒くさい仕事は引き受けないさ。ただ、君をいい加減回収しないと騎士団の業務に差支えがあるという話を聞いたし、それに、今回の巫子には興味があったんだ」
「興味?」
メルセナが繰り返すと、リズセムは自らお茶のお替りを淹れながら頷いた。
「君たちも知っていると思うけど、巫子は時代を変えて何度も現れた。今の神都であるファナティライストを打ち立てた、かつての世界創設者たちが作り上げた“赤い印”を宿したのが君たち、赤の巫子というわけだ。当時“赤い印”を作り上げたのが10人、だから君たち赤い巫子も10人いる。そして、この世に“赤い印”が誕生するとともに、世界創設者のリーダーたる聖女は姿を消した。そこから今ある世界の姿が出来上がった。今からちょうど、200年前の話だね」
「ちょうど、200年なんですか?」
「そうさ。面白いだろう?」
面白いだろうか。ピンと来なくてネルが首をかしげるも、リズセムはお構いなしに向かい合った少女二人をじろじろ見た。
「そんな節目に現れた巫子様だから、僕も一度会っておきたいと思ったんだ。妻と息子に先を越されてしまったけれどね」