act.11 クレッセの過去
「この馬鹿!」
ルナセオが声を上げようとしたところでグレーシャは絶叫した。感極まった様子でルナセオに飛びついて、ぐいぐいと頭を小突いてくる。
「お前っ、お前っ、どこに行ってたんだよォ!マジで心配したんだぜ?」
「あはは、悪ィ悪ィ、ちょっといろいろあってさ」
ルナセオもけたけたと笑った。ものの数週間しか離れていなかったのに、すっかり懐かしい、何も変わっていない友人の姿に目頭が熱くなってくる。
しかし、友人との感動の再会は、マユキによってあっさりと霧散した。彼女のわざとらしい咳払いに、ルナセオははっと我に返った。
「セオ君、話に戻っても?」
「あ、すいません。つい」
ルナセオは取り繕うように左の髪を撫で付けた。すごすごと席に戻るルナセオを見て、ようやく落ち着いたらしいグレーシャは、見慣れない客人を順繰りに眺めて首をかしげた。
「えーと、何の話?」
「グレーシャには関係のない話よ。部屋に戻っていなさい」
「え!」
グレーシャは雷に打たれたような顔をした。
「なんで?セオがいなくなったことと関係ある?俺にも聞かせろよ、俺だけのけ者にすんなよ!」
「あなたは知らなくてもいいことなの!」
「アー、マユキさん、俺、グレーシャと一緒に二階に行っててもいいかな?」
ルナセオが気を遣った。ちらりとネルとメルセナを見ると、メルセナはすぐに心得たように援護射撃をした。
「マユキさん、あの人ってルナセオと友達なんでしょ?積もる話もあるだろうし、今後のことは私達で決めちゃいましょ。ね?ネル」
「え、あ、うん」ネルは視線を彷徨わせた。「私は、なんでもいいけど…」
その怪しい挙動にグレーシャが疑う暇を与えず、ルナセオは再び席を立ち、にこやかに言った。
「じゃ、決まり!な?グレーシャ。学園の話とか、上でいろいろ聞かせろよ。俺、聞きたいことがたくさんあるんだ」
「え、ああ、そう?」
グレーシャは少し怪訝そうにネル達を見ていたが、ルナセオがぐいぐい背を押すので、あきらめて二階に上がっていった。
二人の足音が聞こえなくなってから、メルセナが白い目でネルを見た。
「…ネル」
「ご、ごめん。隠し事なんて慣れてないんだもん」
そんな機転の利くことは出来ないのだ。もじもじするネルに、マユキが溜息をついた。
「それで、二人には巫子のこと、よく話さなきゃね。ネル、あなたは巫子についてどれくらい知ってる?」
「エルミさんが教えてくれたよ。巫子は十人いて、そのうち世界を救うのが九人、その人たちは、世界を破滅に導く第九の巫子を、ころさなきゃいけないって。…それで、それが、クレッセ、なんだよね」
ネルはトレイズを盗み見た。神宿塔でのやりとりから、少し彼のことが苦手になっていた。一方のトレイズは、能面のような無機質な表情で無言を貫いていた。
「そうね。メルセナは巫子についてはエルディに聞いてるみたいね」
「そう。でも、ネルが知ってること以上のことは知りません。あと、ファナティライストの世界王が第九の巫子を欲してるから、巫子狩りみたいな奴等を差し向けてくるけど、ファナティライスト側全員が敵ではないって…ラファとか」
そうだよね、とメルセナが父に同意を求めると、にべもなくエルディは肩をすくめて言った。
「ラファ様は味方とも言いがたいがな」
「あいつは世界王の手先だ」トレイズが吐き捨てた。
「まあ、ラファがシェーロラスディ陛下を尊敬してるのは否定しないわ」
トレイズの憤りを、マユキがさらりと受け流す。
「それで、クレッセのことは、どれくらい知ってるのかしら」
「あの…セーナは、知らないほうがいいのかな。私とクレッセのこと」
「差し支えがないなら教えてほしいわ。第九の巫子が何者なのか」
メルセナの返答に、ネルは頷いた。
「あのね、クレッセは私の幼馴染なの。クレッセと、それから、クレッセの双子の弟のデクレと三人で、私達、いつも一緒だった。クレッセの家はお母さんが亡くなってて、お父さんのユールおじさんは有名な占い師だったんだ」
メルセナはネルが台詞を切ってくちびるをなめる様子をじっと見ていた。胸がざわめくのを、感じていた。
「ユールおじさんの占いはね、よその国からもお客さんがくるくらい評判がよかったの。いつもおうちにたくさんのお客さんが来ててね…でも、あの日は違ったの。雨がね、降ってて」
ネルは窓の外を見つめた。向こうの景色は静かな夜空が広がっていた。あの日の光景は、忘れた頃に夢となって襲い掛かってくる。
「ひどい雨だった。デクレとクレッセはうちにいたの。大人たちが、うちのお母さんとか、マユキおばさんとかが、何かこそこそやってるって思って、クレッセは、ユールおじさんを問いつめに、ひとりで家に帰っていった。今思うと、みんな、蹄連合っていうののお仕事をしてたんだって分かるけど…でもね、クレッセは、いくら待っても帰ってこなかった。私とデクレは、おかしいと思って、クレッセの家に行ったの。そしたら」
いたのだ。麻のコートの連中が。ユールは決然とした面持ちで、クレッセを庇って立っていた。
「神護隊が、ユールおじさんを取り囲んでいたの。ユールおじさんを、ラトメに連れて行こうとしたみたい。おじさんは神護隊の人に刺されて、無理矢理つれていかれた。クレッセと一緒に」
じわじわと、焦りにも似たざわめきが、メルセナの中で膨らんでいく。聞きたくないとメルセナは思った。聞いたらきっと、敵を討つ気力を失ってしまう。
しかしネルは、メルセナのそんな思いも露知らず、淡々と続けた。
「後でね、レフィル…蹄連合の人に聞いてわかったんだけど、ユールおじさんは、ラトメの"神の子"の親戚なんだって。だから、ユールおじさんを新しい"神の子"として連れて行くつもりだったって。おじさんが刺されたことも、エルミさんやレインさんが、神護隊の危ない人たちをだますためにやったことだったらしいけど…クレッセは、泣いてた。必死で、私とデクレの名前を呼んでた」
ネルは静かにつぶやいた。「私は、なにもできなかった」
メルセナは唇を噛んだ。怖かった。薄々と、ネルの言葉尻から感じていた思いが確信に変わっていく。
人間なんだ、悪魔や魔王だなんてぼんやりした存在ではなく。少なくとも、目の前のネルにとって、倒さなきゃ、いや、殺さなきゃいけない相手は、たった一人のかけがえのない人間なんだ。
「私とデクレは、さっき言った、蹄連合のレフィルに、クレッセの手がかりを聞いて、ラトメに旅に出ることにしたの。クレッセとはね、ルシファの村で会えたんだけど…その時にはもう、あの子、第九の巫子になってた」
「なんてこと!」
マユキが思わずといった風に口を挟んだ。
「ネル、あなた、クレッセと会ったの?」
「うん。クレッセは第九の巫子の呪いで記憶があやふやになってたけど、月が出てる間だけは、ラファの魔術のおかげで、元の性格に戻れるみたい。クレッセが言ってた。自分が、ラトメから逃げ出したのは、私が"赤の巫子"になるのを止めるためだって」
「赤の巫子になるのを、止める?」
メルセナは先人達を見回した。「そんなことができるの?」
「理論上は不可能ではないな」
エルディが腕を組んだ。
「だが、成功したためしはない」
メルセナは考えた。確かに、ラトメでエルディが言っていた。赤い印は宿る人間を選び、それは第九の巫子に近しい人間であることが多いのだと。…第九の巫子の幼馴染であるネルが巫子になる可能性は極めて高いだろう。
「第九の巫子の呪いっていうのは?」
「巫子の力は、それぞれの印に応じて能力が決まっている。第九の巫子の力は破滅を司る。だが、そのあまりの力ゆえに、第九の赤い印は、宿主ですら滅ぼそうとするらしい。記憶を壊され、自我も失せ…最後には、"世界を壊す"ための傀儡に成り果てるという」
歌うようにトレイズが言った。ネルがぶるぶると震えだす。マユキはとがめるようにトレイズを見たが、一方で彼は胸を張っていた。
「だから言ってるだろ?第九の巫子は危険なんだ。友人だの家族だの、そんな情にまみれたことを言ったって、向こうは結局そんなこと忘れちまう。ネルも、メルセナも、知らなきゃいけないことだ。"巫子"になったからには、おまえ達には責任があるのだと」
責任。重い言葉に、ネルとメルセナは戸惑い視線を交わした。好きでなったわけではないのに、そんな責任などいらないのに。けれど、そんなことを言ったって、今更どうにもならないことは、これまでの旅路で十分に理解していた。
「…私は、クレッセを守りたいのに」
消え入るような声音でネルは言った。
「幼馴染だもん。なんで私がクレッセを殺さなきゃいけないの?デクレになんて言えばいいの?クレッセは私のお兄ちゃんみたいな人で、大好きだったのに、ううん、今も大好きなのに。クレッセは私のためにラトメを出てきてくれたのに、なのにどうして、クレッセが死ななきゃいけないの。私が、クレッセを、ころさなきゃいけないの」
「じゃあ、お前は巫子の敵だ」
すっぱりとトレイズが言った。マユキがギロリと彼をにらんだ。
「だってそうだろ?第九の巫子の味方をするってことはそういうことだ。俺はそんな奴の仲間でいたくはないし、協力もできない。さっさとファナティライストに行くんだな」
「トレイズ!あなた、言いすぎよ!」
マユキがとうとう耐えかねて叫んだ。
「幼馴染を殺せなんて言われて、簡単にハイそうですかなんていえるわけがない!私だって甥が…大事な弟の子供が死ぬなんて嫌よ!」
「クレッセは、第九の巫子だ!」
トレイズもいきり立った。二人が互いをにらみ合う中、メルセナが不意に口を開いた。
「トレイズさんは、白黒はっきりつけたいタイプなんだね」
トレイズが凶悪な顔でメルセナを射抜いたが、彼女はひるまなかった。
「トレイズさんは、敵味方がはっきりしてないと不安なんでしょ。でも、突然、あなたは世界を守るために人殺しになってもらいます、だなんて言われたって、納得できるわけないでしょ?私だってやりたくない。責任とかどうとか言うけど、巫子ってやつは悩むことも許されてないの?」
先ほどまで警戒心もあらわにネル達を見ていた小柄な少女が、突然すらすらとネルを庇ったので、ネルのほうが面食らった。彼女は嫌悪の表情を隠しもせずにトレイズを見ている。
「トレイズさんにとって、第九の巫子は人間だと思ってないのかもしれない。だけどネルにとっては、そうじゃないんでしょ?じゃあ、あなたは誰が第九の巫子になっても殺せるっていうの?たとえば、あなたが信奉してるっていう"神の子"が、もしも第九の巫子になったとして、あなたはその剣を抜けるの?」
「なんだと!」
「トレイズさん!」
今まで黙って娘の言葉に任せていたエルディが、剣の柄に手をかけようとするトレイズを見て目を吊り上げた。メルセナは余裕の表情だ。自分よりふたまわりも大柄な男をあっさりと論破して、笑みさえ浮かべている。
「私きっと、クレッセとか言う子を殺せるわ」
あまりにもさらりと言うものだから、ネルはぎょっとした。
「殺せるわよ。私はその子のことを知らないから。でも、一目みたら怖気づくかもしれない。同情しちゃうかも。わが身可愛さに逃げ出すかも。わからないわよ。そんなの。だって私は軍人じゃないもの。剣を持ったこともない、しがない町娘なの。神護隊長なんてご大層な立場についていたあなたとは違うの」
この小さなエルフの少女が、トレイズより一枚も二枚も上手なのは火を見るより明らかだった。ネルは恐る恐る、言った。
「…殺したく、ないよ」
途方に暮れた調子で言うものだから、トレイズはたじろいだ。ネルは唇を引き結んで、泣くのをこらえているようだった。
「クレッセに、私、いなくなってほしくないよ。でも、ファナティライストには…行けない。だって、だってクレッセが、私と仲間にはなれないって言うから」
行き場のない子供が静かに駄々をこねるのに、トレイズはとうとう耐え切れなくなったようだった。盛大に舌打ちをしたあとで、荒々しく家を出ていった。
しばらく部屋に静寂が落ちる。
「…私、ここにいちゃ、いけないのかな」
ネルが俯いた。マユキの心が痛む。
この少女には、わからないのだ。多くの人と付き合ったことがないから。デクレや、彼女の家族くらいしかいなかった世界が突然広がったかと思えば、そこがひどく澱んでいるものだから、戸惑って、怯えているのに違いない。
「そんなことないわ。ごめんなさいね、トレイズが頑固で」
「私、あの人苦手よ」
メルセナが吐き捨てた。彼女の父は溜息をつく。
「だろうな」
「何よあの人!すっごくむかつくわ!ネル、あんな人の言うこと聞くことないわよ!だってサイテーだもん!」
メルセナがまくしたてるのに、ネルはぽかんとした。そんなことなど気にも留めずに、メルセナはネルの両手をしっかと握った。
「あれなら、あのよくわかんないラファとかいう人のほうが、よっぽど信頼できるわよ!ファナティライストに行くのは嫌だけど、あのラファとかいう人についていくのもごめんだわ。ねえパパ、なんとかしてよあの人!」
「…まあ、あの人にも事情はあるから」
エルディは渋い顔だ。かつての上司と娘に挟まれて肩身が狭いようだ。
「彼は裏切りを嫌う。確実に信じられる仲間でないと、危険には飛び込めないからな」
「じゃ、あのルナセオって子は、トレイズの仲間ってわけ?」
メルセナがふんと鼻を鳴らした。ネルは慌てて言う。
「ルナセオは、クレッセを殺すだなんて言わなかったよ!」
「あーら、そう?あのトレイズとやらに言い含められているのかもしれないじゃない」
「でも、ラトメでトレイズさんの話を聞くまで、ルナセオはクレッセが第九の巫子だって知らないみたいだったもの」
「…セオ君にもきちんと話を聞く必要がありそうね」
マユキはこめかみに手をやった。ふと、ルナセオたちがいるであろう二階を、天井を見透かすように見て、それから皆を見回した。
「もう夜も遅いわ。疲れたでしょう、落ち着くまでうちにいていいから」
「しかし…こんな大人数で。私は宿を取りますから」
「いいよ。部屋は余ってるのよ。この広い家に二人暮らしなものだから。うちの馬鹿息子を学校に追い出したら、セオ君を交えてまた明日話し合いましょう」
「お邪魔します」
「あの、ありがとう、マユキおばさん」
素直に礼を言う女の子ふたりにマユキは微笑んだ。エルディは嘆息した。
「…お世話になります」
「気にしないで。困ったときはお互い様、でしょう?さあ、部屋を準備してくるから、ちょっと待っていて…まったく、あの子たちもはやく寝かしつけないと…」
ぶつぶつ言いながら階段を上がっていくマユキの背中を見送って、メルセナがこっそりネルに耳打ちした。
「私、あなたとは仲良くなれそう、ネル。仲間になれるかどうかはまだわからないけど」
目を丸くするネルに、メルセナは気取ってウインクしてみせた。