act.4 人間とエルフ
このあたりはルナセオ編act.3よりも少し前の話になります。
ラディと行動を共にするようになっても、さしたる問題を起こすことなくメルセナたちはゴドル洞を抜けた。ほの暗い洞穴の中は冷え冷えとして、天上の岩肌からぽたりと水滴が落ちるたびに、メルセナは慌てて父の袖口をぐっと掴む羽目になったが、誰に襲われることもなく出口の光が目に入った頃には、いつのまにかラディへの疑いは晴れていた。彼はよく気がつき、しょっちゅうメルセナの足元を気にしては、さりげなく腕を取って優雅にリードしてくれたから。
しかし、メルセナは内心ではやや苛立っていた。
ラディはとても紳士的だし、エルディも旅になれていないメルセナを気遣ってくれた。それにしばしお姫様にでもなったような気分に浸りはしたが、ずっと心の中ではあの黒いマントの集団が気がかりなのだ。
まだ、メルセナは赤の巫子について、御伽噺以上のことを知り得ていない。少なくとも能天気に「世界を救ってハッピーエンド」なんて言えることはない、それだけは確かだ。暇があるときに読んでいた冒険小説と同じ。旅に出た少年少女は、必ずなにかしらの困難にぶつかって、ひやりとした思いを何べんも繰り返して、そうでないと物語は満足に終われないのだ。
なればこそ、父に巫子について知る限りを洗いざらい教えてもらいたいのに、ラディがいては「巫子」の一言も発することができなかった。
手持ち無沙汰に袖に隠れた左手首を右手でさする。すると、その手首を誰かがやんわりとつかんだ。…ラディだ。
「大丈夫ですか?」
「え、なにが?」
「いえ」
ラディは薄く微笑んでみせた。
「なんだか、思いつめていらしたようですから」
「……」
メルセナはしばし面食らって、まじまじとラディを見た。彼の無表情以外の顔を見るなんて初めてのような気がする。ぼんやりと彼の微笑を見ながら、メルセナはぽつりとつぶやく。
「ラディって、王子様みたいね」
「え?」
「浮世離れしてるわ」
「セーナ!」
絶望に満ちた悲鳴を上げる父は無視してラディに笑いかけると、彼は少し困った様子で苦く笑い返してきた。
「母が、聖職についていたことがありますから、ひょっとするとそのせいかもしれません」
「え?お母さん、シスターなの?」
「昔の話です。紆余曲折あって、今では…そうですね、専業主婦のようなものですが」
それから、なぜかラディはちらとエルディを見た。彼の視線に、どこか意味ありげな含みを感じる。対する父は憮然として目をそらす。二人にはなにやら因縁めいた関連性を感じるのだが、彼らがそれを隠し立てする以上、メルセナにそれを切り出す術はなかった。
◆
洞窟を出ると、そこはシェイルとは別世界だった。一面、緑の生い茂る木々が広がっている。
生まれてこのかたシェイルから出たことのないメルセナにとって、森といえば枯れ森を指すのだが、物語に出てくるような「森」はもっと清廉としていて、実りに満ち溢れた美しいものだった。きっとこのような場所を指すのだろう。
「ここはどこ?」
メルセナが呆然とつぶやくと、エルディが答えた。
「インテレディアとシェイルディアの間にある無国籍地帯だ。ここを西に出ると平原がある。インテレディアに向かうなら平原に行けばいいが…ラディ殿、ゼルシャはどこに?」
「ここから南東に行った先です。…ですが、お二方、お気をつけください」
ラディが突然身構え、エルディが剣を抜いたので、メルセナは目を白黒させた。二人の視線の先を追うと、ひとりの少女が、裾の長い黒い神官服をなびかせて立っている。こちらに気づくことなく、どこかをまっすぐに見据えている、黒い髪の…メルセナがあっと声を上げた。
「レナ?レナでしょ?」
「セーナ!」
エルディの制止にでもと振り返る。父は険しい面持ちでレナを睨みつけていたが、すでに彼女はメルセナに気づいていた。
「まあ、セーナ。また会えて嬉しいわ」
「レナ、どうしてここにいるの?」
「セーナ、待て。近づくんじゃない」
鋭い声音で言って、エルディがメルセナの腕をつかんだ。ラディも、メルセナを庇うように一歩前に出る。メルセナとレナだけが、二人の厳しい表情に困惑しているようだった。レナは不思議そうにエルディの顔をまじまじと見ている。
「パパ、この子よ。私が枯れ森で会った女の子。私をエルフだって知ってても変な顔しなかったんだから」
ひょっとすると彼女がメルセナに宿った"赤い印"について、何か知っているかもしれない。そんな淡い期待を言外に訴えてみたが、父は表情を変えなかった。うなるようにレナに吐き捨てる。
「ファナティライストの高等祭司が…まさかここで待ち伏せでもしていたのか?」
「待ち伏せ?」
レナは何を言われたのかわからないという表情だ。
「どうしてわたくしが、あなた方を…特にあなたのような方を、お待ちする必要があるの?ノルッセルのお方」
「しらばっくれるな!大方、シェイルの"巫子狩り"も、お前が差し向けたものだろう!」
メルセナは面食らってレナを見た。彼女も大きな目を丸くしてこちらを見てくる。とぼけた口調で、レナはつぶやいた。
「あら…じゃあ、やっぱりセーナが巫子だったのね。まさかと思っていたのだけれど。わたくし、自分の手からいきなり"印"が消えたものだから焦ってしまって、思わずあなたを放って行ってしまって。ごめんなさいね、セーナ」
「…どういうこと?」
何か話が奇妙だ。レナは何を言っているのだろう?
助けを求めて父に向き直ると、彼は低い声音で言った。
「セーナ、"巫子狩り"はファナティライストの暗殺機関のことだ」
ファナティライストの。メルセナはレナの服装に顔を向ける。神都の、神官服。父は高等祭司と言った。じゃあ…レナは、メルセナの敵?
しかしレナは意に介した風もなく、頬に手を当てて嘆息した。
「そんな無粋な言い方はよしてくださいな。ファナティライストの大事な治安部隊なのですから。それにわたくし、セーナが巫子だと知っていたら、もちろん彼らを差し向けたりはいたしませんでしたわ。わたくし、継承者はてっきりあのソリティエの騎士様か、さもなくばシェイルの王殿下かと思っておりましたもの」
ラディがわずかに身じろぎした。彼女に攻撃するタイミングをうかがっているような動きだった。わけが分からない。誰を信じればよいのだろう?
「シェイルの…あの人たちが来たのは、レナが呼んだからなの?」
「ええ、そうよ」
にべもなくレナは返した。邪気なく笑ってみせる。
どうしてあんなに恐ろしい人々について語りながら、笑顔など浮かべていられるのか、メルセナには不可思議だった。…あの人のせいで、父はあと一歩のところで死ぬかもしれなかったのに!
「なんでそんなことを…」
「セーナ、連中が巫子狩りを使うのに、深い理由はない。不老不死の巫子を封じられるほどの戦闘能力を持つのは、巫子狩りくらいのものだ。こいつらにとって、巫子狩りを使うのは"当たり前"なんだ」
エルディの厳しい口調。レナは笑ったまま何も言わない。その表情がとても恐ろしく感じた。レナは、どうして笑っていられるのだろう?思わず父のマントのすそをつかむと、レナが一歩前に出て、ゆるやかにメルセナに向けて手を差し伸べた。
「セーナ、あなたなら分かってくれるわよね。あなたにとってその"印"は重荷すぎるの。さあ、わたくしに返してちょうだい」
「セーナ、渡すな!」
エルディが叫んだ。メルセナは自らの左手首を見つめた。
赤い印…これをレナに渡すと、どうなるというのだろう?むしろそうしたほうがいいのではないか?巫子をやめれば、自分はシェイルに帰れるし、父はもう怪我をしなくて済む。いつもの日常が戻ってくる。ならば、答えはひとつではないか?
「どうやったら、この印をなくせるの?」
「メルセナ!」
レナが目を細めて笑った。メルセナに近づくために、するりと長い神官服のすそを引く。しかし、彼女の行く手をはばみ、メルセナの前に出た者がいた。…ラディだ。
「いけません」
「ラディ?」
「今ここで"印"を渡してしまえば、お父上が大怪我を負った意味も、シェイルの騎士団長があなた方を逃がしてくれたことも、…そして、私がここにいる理由も。すべてが無駄になってしまいます」
ラディは至極のんびりと、この緊迫した空気など嘘のように言ってみせた。
メルセナは眉をひそめた。
「どういうこと?」
「実は私、あなたとはそれなりにゆかりのある者なんですよ」
どこからともなく短刀を取り出して構えたラディ。彼の言葉の意味を量りあぐねていると、レナがわずかに顔をゆがめた。
「あなたのその瞳…同族ですか」
「ハーフですよ。ですが、その縁に免じて、ここは引いてくだされば幸いです」
「わたくしは…」
レナが何か言おうと口を開いたそのとき、メルセナ達の真横にある茂みから、聞き覚えのない声が割って入った。
「レナ・シエルテミナ!」
「!」
レナがはじかれたように顔を上げた。その視線を追って、メルセナたちも声の方へと気をとられる。
弓を持った長身の男が、数人の弓使いを連れていた。細い金の髪は透けるような色合いで、少し吊り気味の碧眼は鋭くレナを射抜いている。若い男の立ち姿はすらりとしていて、美しい。そして、男達の耳はメルセナと同じく一様にとがっていた。エルフだ!メルセナははっと息を呑んだ。
「この森に二度と立入るなと言ったことを忘れたか!このエルフ殺しの悪女が!」
先陣を切った金髪の男が怒鳴った。
対するレナは今度こそ笑みを吹き飛ばした。優しさのかけらもない顔でうなる。
「ああ…行かなきゃ」
「待て!」
エルディが声を張り上げるが、その時にはすでに、レナはすたすたと来た道を戻ろうとしていた。彼女は顔だけ振り向いて、メルセナを見た。
「セーナ。また会いましょう。…覚えておくといいわ、その印は、小さなあなたの手には余るということを」
「放て!」
金髪の男の号令によっていっせいに放たれた矢が、彼女に突き刺さる寸前で…レナはもうそこにはいなかった。矢は次々と地面に突き刺さった。
「転移か…」
金髪の男が毒づいた。それから、彼はその場に立ち尽くしているメルセナ達に、仏頂面のままで振り向いた。
「お前達は?あの女の仲間…というわけでは、ないようだが」
男は順繰りに三人を眺めて、最後にメルセナの耳に視線を移した。彼はわずかに警戒を緩めると、メルセナにたずねた。エルディとラディは無視することに決めたようだ。
「この森に何用だ?見ない顔だな。旅の者か?」
「あ、…あの、私達、ゼルシャの村ってところを探してて…」
尻すぼみになりながら、エルディの影に隠れて言うと、男は今度はエルディを見た。
「ゼルシャはわれわれの村だ。人間どもがこの地に来て、なにをしようというのだ?」
「私とここにいるメルセナは付き添いだ。われわれはこちらのラディ殿下の供として来ている」
え?
思わず上げそうになった声をすんでのところでこらえて、メルセナが問い詰めるような視線でラディを振り返ると、いつもののんびりとした表情で彼は動じることなく言った。
「私はシェイルディア皇子、ラディ・リズセム・シエルテミナと申します。ゼルシャの村長、レイセリア殿にお会いしたく参りました。ファナティライストの世界王家より言付けを預かっております」
そうして彼は胸ポケットを探って、大振りのカフスボタンを取り出した。ギルビスのコートにも似たようなものがついているが、それとはまた別の紋様が刻まれている。
シェイルディア王家の家紋だった。