act.2 逃亡
残酷描写というほどでもありませんが、戦闘シーンと多少の流血沙汰があります。苦手な方はご注意ください。
べちべちと頬を叩かれて目が覚めた。ちょうど高くにある枝にぶら下がった林檎が、あと一歩で手に届くというところだったメルセナは、せっかくの夢を妨害されて顔をしかめた。薄らと目を開くと、瑠璃色のキラキラした宝石が輝いていた。
「メルセナ!」
宝石が喋った。ひとつ瞬きをすると、ようやく辺りの風景が鮮明に広がった。薄暗闇を不気味に彩る木々を見て、メルセナは自分が倒れたことをぼんやり思い出した。
「セーナ、ああ、良かった、探したんだぞ」
宝石がやけに光っていたのも当然だった。持ち主たる父の瞳が涙に濡れていたのだから。
「パパ?」
「ああ、そうだよセーナ。一体何があったんだ?どうしてこんな森に入ったのか言いなさい、メルセナ」
父はメルセナを助け起こしながら強い口調で言った。
しかし、メルセナは答えあぐねた。何が起こったかは自分でも定かではなかったし、うまく説明できる自信もなかった。確かだったのは、ただ左の手首がとても扱っただけだ。
「あの…あのね、パパ、私もわからないの。女の子に手をとられて、気づいたら…」
言いながら左の袖口をたくしあげて、絶句した。メルセナの肩を抱く父の腕に力が込められた。はっと息を呑む声が頭上から落ちてきた。
メルセナのまっさらだった、エルフ特有の青白い肌。そこに継ぎ目でも作るように、彼女の手首を、血のように赤い帯がぐるりと囲んでいた。右の手のひらでこするが、落ちない。きっと見間違いだ、そうに違いない!手首を月の光にかざすが、メルセナの淡い期待はすぐさま砕かれてしまった。
声を失くすメルセナの代わりに、父がぽつりとつぶやいた。
「ああ…なんてことだ」
見上げると、父の顔はすっかり色を失くして、ぶるぶると唇を引き結んでいた。
「セーナ、それは、それは…"赤い印"だ、セーナ」
"赤い印"?訝って声を上げたその単語にぞっとした。それは伝説とか、御伽噺の中の存在であるはずだ。
世界を救う"赤の巫子"が、その身に世界でもっとも尊い色だといわれる赤を宿して、歴史の節目に現れるという話は、この世界に生きる子供であれば知らぬものはいないほど有名なものだ。彼らは不老不死の身体と絶対無敵の魔力を持ち、巫子の宿す赤のことを、"赤い印"と呼ぶのだそうだ。
とはいえ、あくまでそんなものは御伽噺に過ぎないはずだ。不老不死なんて馬鹿げているし、本当にいるわけがない。そう笑ってやりたいのに、父の表情があまりに鬼気迫っていて、メルセナは結局口をつぐんだ。
父はそっと娘の手首を取って、細くて長い指で、こびりついた赤色をなぞった。帯は自然に肌に馴染んで、生まれつきついていたものだと言っても納得してしまいそうなほど。すると、父がぽつりとつぶやいた。
「ギルビス様にご相談しなければ」
「え…?ギルビス?」
メルセナが問う間も与えずに、父はまとっていたマントをずっぽりと小柄な娘にかぶせた。背の高い父のマントはメルセナにはぶかぶかで、フードをかぶせられて前が見えなくなってしまう。
「パパ、見えないわ!」
「頼むから我慢してくれ、メルセナ。父さんの手を離すんじゃないぞ」
厳しい声音で言うなり、父はメルセナの手首を握ったまま走り出した。早速長いマントの裾を踏んづけてつんのめったが、父は構わず駆けていく。
「ねえ、パパ!なんなの、一体?」
「セーナ、絶対そのフードを取っちゃいけない。いいね?私がいいと言うまで声も出しては駄目だ。そのマントの中身が君だって、誰にも悟られるな」
「パパと一緒にいる子供なんて私くらいよ…キャッ」
転ぶついでに舌を噛みそうになって、父の理不尽な願いなしでも二つ目は聞かねばなるまい、メルセナは思った。
すぐにクレイスフィーの町に入ってメルセナは眉をひそめた。月の位置を見るに、まだ時刻は宵の口といったところだろう。それなのに、いつもは夜になっても賑やかなクレイスフィーの大通りには、人っ子一人、スラムから溢れた貧民のひとりですら、いなかったのだ。
嫌な予感がひしひしとマント越しにメルセナの肌を刺す。父は一直線にクレイスフィー城の門を目指していた。その手前で、ふと柔らかな声がして、父がぴたりと立ち止まった。メルセナはつんのめった。
「ああ、エルディ。やっと合流できた。セーナは見つかったかい?」
「ギルビス様」
白いマントを夜闇にはためかせて、ギルビスは穏やかに微笑んだ。不安なことがいくつも続いていたメルセナの心を、その優しい表情がゆっくりと溶かしていくようだった。メルセナは喉まででかかった嗚咽を寸でのところでとどめた。
ギルビスはぼそりとつぶやいた。人気のない大通りに視線をめぐらせて。
「嫌な夜だ。妙な予感がしたから、書類をダラーに押し付けて出てきたが…何かあったのかい?その布ぐるみはセーナだろう?」
「ギルビス様、信じられないお話かもしれませんが、落ち着いてお聞きください。…セーナが"赤の巫子"になりました」
いつだって微笑を絶やさないギルビスの表情が消えた。口をつぐんだギルビスはまるで別人だった。びりびりと彼から放たれる緊迫感と、濃紺の瞳の暗さに、メルセナは恐怖を覚えて父にしがみついた。ギルビスは、化け物でも見るような顔をしてメルセナに言った。
「…巫子、そうか。それは厄介なことだね」
皮肉るような口調が、あの優しいギルビスから飛び出すなんて。面倒なことになったとばかりに髪をくしゃりとやり、ギルビスはすぐにメルセナから視線を外した。
「ギルビス様」
「ああ、分かってる。分かってるさ…くそ、ラトメが混乱状態でなきゃ、早々に"神の子"に引き渡せただろうに」
「蹄連合に助力を求めたいと思います。"神の子"側の彼らならば、おそらく保護も…」
「そうだな。危険だが、やはりラトメに行くといいだろう。城の転移陣を使えばすぐだ。本部の場所は分かるな?」
「承知しております」
メルセナは途方に暮れた。厳しい表情の男二人が、自分のことをもてあましていることだけは確実だった。メルセナひとりが状況を全く理解できていない。赤の巫子といわれても、とても信じられないし、それでこんなに不穏な空気を纏う要員ができたのも意味不明だ。パパやギルビスは、どうしてこんなに怖い顔をしているのかしら?
すると、視線をこちらに落としたギルビスが、不意に目を細めてまっすぐにメルセナを射抜いた。深くよどんだ彼の濃紺は、あんなにも恋しいはずなのに、なぜだか今は怖くてたまらなかった。
「セーナ」
いつもとは違う硬い口調だった。
「いいかい、メルセナ。不安だろうが、何があろうと、絶対に自分を見失ってはいけないよ。自分がどうしたいのか、何をすべきなのかを、決して忘れちゃいけない。いいね?」
「…よくわからないわ」
小声で首を振りながら返すと、ギルビスはようやっと、いつもの柔らかな微笑みを表情にのせた。
「いずれ分かるよ、さあ、城へ…」
しかし途中で彼の笑みは掻き消えた。メルセナの肩越しにじっと何かを見据えている。左手がふらりと腰の長剣に伸びる。振り返ろうとすると、頭上の父が「動くな」と低く制した。視線だけ上げた先で、父は瑠璃色の瞳をこらして闇をのぞいていた。
何が起こったの、声を潜めて尋ねようとしたその時、ざり、と明らかに自分達とは違う道を踏みしめる音が耳に入った。ざり、ざり、ざり…足音は増える。不自然なくらいのんびりと、メルセナの背後に迫ってくる。
「僕が抑える」
ギルビスがつぶやいた。すらりと長剣を抜く。
「エルディ。城へ行くのはどうやら無理らしい。"枯れ森"に入れば"巫子狩り"も撒けるだろう」
「…ギルビス様がそんなに巫子についてお詳しいとは存じ上げませんでした」
「まあね。一時期当事者だったことがあってね」
当事者?オウム返しに聞こうとしたメルセナの口を、緊迫した空気を纏った父がふさいだ。彼もまた、コートの裏側からダガーを取り出していた。
「ギルビス様、このご恩は必ず」
「ああ、死ぬなよエルディ。仕事が溜まってるんだ、早めの帰還を頼む」
戦場に発つ前の口上じみていて、いやなかんじだ。メルセナは何も分からぬまま奈落の底へと突き落とされた気がした。びりびりと夜の冷たい風と静寂が肌を刺し、暗然としたシェイルの冷酷な町並みの中で、ギルビスの寒さに上気してほんのわずかピンクに染まった頬と、口を塞ぐ手から伝わる父の体温だけが希望だった。
その時のことだ。
真後ろから夜闇をつんざく轟音と同時に、ぐいと父がメルセナを引っ張った。よろめくメルセナの髪を、ちりとなにかがかすめて、それはギルビスの刃によって弾かれ地に落ちた。よく見えないが、鉛かなにかの塊だった。ひしゃげてつぶれたまま転がって、メルセナのつま先にそっとキスされる。
瞬間、父とギルビスの深刻な台詞の意味を悟って、メルセナの肌がぞぞと粟立った。
「行け!」
「走れ、メルセナ!」
父とギルビスが示し合わせたように叫んだ。パパ、こんなに足が速かったなんて知らなかったわ!混乱して場違いなことを考える。見慣れたレンガ造りの町並みがびゅんと後ろへ飛んでいく。硬い道路に、二人のかかとが鈍く鳴った。
メルセナは振り返った。
夜の闇に溶け込むギルビスの髪も軍服もあっという間に見えなくなったが、白いマントが視界の一番向こうで揺れている。だがすぐに黒い何かがギルビスを取り囲み、唯一鮮明だったその色もたちまち塗りつぶされてしまった…
と、前を行く父が突然足を止め、メルセナはまともに彼の背中に突っ込んでしまった。
「なんなの?」
毒づきながら父が口を噛み締めて見る先をのぞき、はっと息を呑んでメルセナはマントのフードを顔にまきつけた。
黒いマントを纏う人たちだ。各々、闇色の筒のようなものを持ち、フード越しに、嘗め回すようにメルセナたちを見ている。不躾な視線が恐ろしい。父にしがみつくと、エルディは大丈夫だとつぶやいて、メルセナの肩をぐっと引き寄せた。
「そこをどけ」
押し殺した父の声に、マント集団の一人が返した。
「そこにいる巫子を置いていくならな」
「ハッ、誰が!」
「ぱ…パパ、パパ」
がちがち歯が鳴った。今や彼らは筒の先っぽをメルセナたち…どちらかというと、エルディのほうに…向けていた。父はダガーをくるりと回した。
「セーナ、なにがあっても、私がついて行けなくなったとしても、奴らから逃げて、ラトメに向かうんだ。いいね?」
「えっ!い、い、いやよ、いや!パパ、ギルビスと約束したばっかりじゃない!"死ぬなよ"って言われたでしょ、忘れないでよ!」
涙が溢れてきたが、無造作にぬぐった。視界だけは鮮明にしておかなければ、きっと危険だろうから。父はふと笑った。
「…それもそうだ」
「話は終わったか?」
冷徹にマントの男が言った。エルディがメルセナの手を握りなおす。ダガーを旨に構えて、腰を落として、場違いにも、メルセナは今更父の格好よさに気がついた。
「ああ、やはりお前らを蹴散らすことに決まったよ」
「フン!身の程知らずが…」
「それはどうかな?これでも僕は、以前の"巫子"の師を務めたんだ」
父が自分のことを「僕」と言うのは、それだけ感情が昂ぶっているときだと相場が決まっていた。エルディの台詞に、マント集団がざわついた。
「何だと!?」
「まさか…」
「いや、惑わされるな!きっとハッタリだ…」
パァン!
そう言った男の筒が火を噴いた。メルセナは先ほども聞いた音にぎゅっと目をつぶった。父は動かない。だが、頭上からくすりと笑う声がして、恐る恐る目を開くと、エルディが頬を血で濡らしながら、不敵に笑っていた。
「パパ!血が…」
「ちょうどいい、自分で切る手間がはぶけた」
こめかみの傷口から自分の血を指で掬い取り、なんてことはない口調で言ってのけるエルディ。続けて、鋭い調子で朗々と呪文を紡ぐ。
「我らを照らす麗しき月よ、今ここに我が血の盟約を持って、我らを救いたまえ…」
「呪文を言わせるな!撃て…」
「やめてェ!」
意識する間もなく、メルセナは父の前に躍り出ていた。助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて…誰か!左手首の"印"が強く熱を持った。
――君が望むなら、いくらでも。
誰か、青年の声が柔らかくメルセナの頭の中で反響した。ぴん、水面に一滴の雫が降り立つような、劇的な音。それに呼応するように、マント集団の背後に広がる"枯れ森"から、怒り狂った獣たちの獰猛な吠える声がいくつも上がった。
一瞬だけ、マントたちの動きが止まる。…エルディには、それだけで十二分だった。
「我らに仇なす者に久遠の眠りを!」
ふわり、柔らかな光が辺りを照らし、マントたちに降り注いだ。光がやむ頃には、男達は銃を取り落とし、いびきを上げながら硬い地面に倒れこんだ。その時にはもう既に、"枯れ森"からの遠吠えも消えている。
「そんなにもたないはずだ。さあ、行こう!」
エルディに引き連れられて、メルセナは"枯れ森"の中へと、再び飛び込んでいった。