act.8 ラトメ神護隊長
残酷描写を含みますので、苦手な方はご注意ください
マントの裏からチャクラムを取り出そうとして、やめた。
自分の身を守るためとはいえ、人を傷つけるためのものを手にするのはどこか機が引けた。でも、どこに逃げればいいかなんて分からない。
トレイズはいない。頼れるのは自分だけだ。
死にたくない、母さんが悲しむ。母さんがひとりぼっちになってしまう。父さんも、兄さんも、きっと…
そこまで考えて、ルナセオは足を止めた。頭の中で、先ほどのクレッセの言葉を反芻した。大事なひとが笑っていてくれるなら、僕は人だって殺してみせるよ。
ゆっくりとチャクラムを取り出す。手の震えは止まっていた。一振りすると、たたまれた刃があらわになった。四枚の、鈍く光っている刃物。これも、あの首のように誰かの血を滴らせるのだろうか。
怖いけど、俺は、家に帰るんだ。ルナセオはそのまま、裏通りを突っ切って駆けた。
◆
裏通りから大通りに出ようとしたところで、ちょうど走ってきた女性とまともにぶつかってしまった。よろめきそうになりながら、倒れそうにふらついた女性の腕をひっつかむ。彼女の小麦色の髪がふわりと舞って、二人は呆然と見つめあった。 見た目は若々しい女性の唇がこちらの名前を紡いだ。
「セオ、君…!?」
「マユキさん!」
マユキは鬼気迫る表情でルナセオに詰め寄った。
「どうしてセオ君がこんなところにいるの!?学校はどうしたの!」
「ま、マユキさん、これには深い事情が」
細かいことを説明している暇はない。そう言おうとした矢先、マユキの背後で剣を振りかぶる男の影が見えて、ルナセオは咄嗟にマユキを引き寄せて後ろに庇うと、チャクラムの刃で斬撃を受けた。
「貴様ら怪しいな。何者だ!?」
「うるさいなあ。通りすがりの旅人だよ。見れば分かるでしょ?」
精一杯虚勢を張ってはいるが、神護隊の剣圧は初心者もいいところのルナセオには重過ぎる。巫子の力を使うべきだろうか。ラゼはなんて言ってたっけ?
「そんなことより、いいの?さっき俺、ファナティライストの高等祭司って奴に会ったんだ。黒くて暑苦しい服着た、男の子を連れたヤツだろ?」
「!」
「なんだと!?」
一瞬だけ、神護隊員の剣にこめられた力が緩んだ。その隙を逃さずに、ルナセオはチャクラムの刃をたたんで、思い切り隊員の腹めがけて横なぎに振るう。
「ぐっ」
「これでも俺、武術の成績はいいんだよね!」
腹を押さえてうずくまった隊員はそんなこと聞いちゃいないだろう。ルナセオはマユキの腕をつかんで、再び裏通りに飛び込んだ。走りながらマユキがなおも聞いてくる。
「セオ君、一体なんでこんなところに?ラトメなんて危ないところ、あなたが来る必要もないでしょう?」
「えーと、それがどうやら必要だったらしくて…人に会いに来たんですけど、連れとも別れちゃったし、すぐにラトメを出ることになりそう」
ひとまず目標は「ファナティライストのロビ」だ。
とはいえ路銀はないし、食糧などもみんなトレイズが持っていってしまった。ひとまずはこの危険を乗り越えて、それらを確保できる場所に行かなければならないが、そのときにルナセオの命はあるのだろうか。
「マユキさんこそ、出張ってラトメにだったんだ。グレーシャが止めなかったんですか?」
「ラトメに行くなんて、あの心配性にそんな話ができるわけがないでしょう」
グレーシャのことだ、うるさいぐらいに親子喧嘩をはじめるに違いない。やはりあの冷静なラファとは違う。トレイズが怒鳴るのにも顔色ひとつ変えずに、微笑んで見せたあのラファとグレーシャは、明らかに別人だった。
「とりあえず、安全な場所に行くわよ。セオ君、ついてきてね」
「ま、待って、マユキさん!」
すたすたと一人で走り出すマユキを慌てて追う。大通りへと飛び出して、人目につかない位置を探り当て、マユキは風のように混乱の中を駆けていく。悲鳴を避けて、人々とぶつかりながら、ルナセオはふと大通りの中央から激しい泣き声が耳に入って足を留めた。
赤ん坊だ。悲鳴につられて泣き出したのだろう。親はどうしたのだろう。そこらに倒れている人間がごろごろいるから、もしかしてその中にいるのかもしれない。
何もできずに立ち尽くしていると、神護隊の男が、その赤ん坊に近づいていく。彼の機嫌は悪そうだ。凶悪な顔で赤ん坊を見据えている。なにやらわめきながら、剣を振りかぶる。
我慢はできそうになかった。
「やめろよ!」
「な、邪魔をするか、貴様!」
ルナセオは赤ん坊を拾い上げると、きょとんとしたアーモンド型の瞳で、その子はルナセオを見上げた。あどけないその表情を確認して、ルナセオは神護隊員をにらんだ。
「別にこの子を殺す必要なんかないだろ。関係ないじゃん」
「公務の邪魔だ!お前も妨害するならば容赦はせんぞ!」
「ザスディシア!なにをやっている」
その声に、いきり立つ神護隊員が凍りついた。ルナセオの背後を凝視して青ざめている。これまでの自信はどうした。ルナセオは振り返った。
金髪の男だった。トレイズと同じくらいの年に見える。口ひげの奥の唇は真一文字に引き結ばれ、みかん色の瞳は細められて、まっすぐに神護隊員を見据えている。
「れ、れ、れ…レインさん!」
「おまえ達の仕事は、我らがラトメに害をなすファナティライスト高等祭司を捕らえることだろう。違うか?」
「はっ、そ、その通りであります!」
「ならば子供は捨て置けばいい。行け!」
「は、はいィ!」
神護隊員は一目散に走り去っていった。ルナセオはレインと呼ばれた金髪の神護隊の男を呆然と見つめた。まだ腕の中の子供はぐずっている。
男は微笑んだ。
「危ないところでしたね。お怪我はありませんか?ルナセオ様」
「なんで、俺のなまえ」
レインは何も言わずに微笑んだ。すると、彼の背を追ってやってくる影がひとつ。
「ルナセオ!」
「えっ、トレイズ!?」
トレイズは息を切らせて、向かってきた勢いもそのままに、ルナセオの左肩をひっつかんだ。腕の中の赤ん坊がびくりと大きく震えた。
「無事か!?怪我はないか?くそ、俺が目を離した隙にこんなことになるなんて」
トレイズは今にも泣きそうだった。それを見て、足のつま先がじんと温かくなるのを感じた。
彼は、ルナセオを見捨てたわけではなかったのだ。思うよりも先に目頭が熱くなった。自分はこんな赤ん坊のように、子供じゃないのに。トレイズの姿を見るなり安心してしまった自分が悔しくて、ひたすらにチャクラムを握り締めるしかできなかった。
「まあトレイズさん、落ち着いて。ひとまず神宿塔に向かいましょう。今日はあそこは閉鎖されていますから安全ですし」
レインが口を挟んできた。そういえば彼は誰だろう。見たところ神護隊のコートを着ているが、そこらで暴れている隊員とは毛色が違うようだった。
ルナセオが首をかしげてレインを見ると、彼はくすりと微笑んだ。
「そういえば、自己紹介を忘れていました。私の名はレイン。ラトメディア神護隊長を務めております」
「ら、ラトメ神護隊長!?」
彼が件の、トレイズの後釜であり、貴族達を陥れようと画策している神護隊長。もっと知的で陰険そうな人間を想像していたが、目の前のレインという男は優しげで人情に厚そうな顔だった。この男がそんなに計算高い人間だとは思えない。
レインが行きましょう、と促したところで、ルナセオを呼ぶ声が道の端から響いた。
「セオ君!」
「マユキさん」
きっと途中ではぐれたのに気付いて引き返してきたのだろう。マユキはこちらに駆け寄るなり、目を白黒させてトレイズを見た。見るとトレイズも呆然としていた。
「トレイズ、なんであなた、ここに」
「マユキこそ、いつの間にラトメに?」
「…ふたりとも、知り合いなの?」
二人は気まずそうに顔を見合わせるなり口をつぐんだ。なにやら複雑な仲らしい。と、レインが助け舟を出すように、ルナセオの手から、またぐずりだした赤ん坊を取り上げた。
「ちょうどよかった、マユキ様。悪いんですが、この子を保護してやっていただけませんか?」
赤ん坊をマユキに押し付ける。有無を言わせず子供を任せられた彼女は、戸惑いながら子供とレインを交互に見た。
「そりゃ構わないけど、あなた達は」
「ひとまずトレイズさんとルナセオ様をラトメから逃がさなきゃ。神宿塔の転移陣に向かいます。マユキ様、貴方は早く舞宿塔へ」
矢継ぎ早に言葉を浴びせかけると、マユキは唇を引き伸ばして頷いた。とにかくも悠長に話し合っている暇はない。
「…分かったわ。事情は分からないけど、セオ君。気をつけるのよ」
「はい。マユキさんも」
「さあ、行くぞセオ。チャクラムを離すなよ!」
ぐいとトレイズがルナセオの腕を引っ張った。男三人が走り去っていく方向を見送りながら、マユキは不安げに眉をひそめた。
「あのチャクラム…」
◆
ばたばたと走りながらルナセオは声を張り上げた。
「その神宿塔ってのは?」
「神官の住んでる塔だよ。今日は休息日だから封鎖されてる。だから、神護隊も入ってこないはずだ」
「私が鍵を持っていますので、すぐに入れます。一人、途中で拾った子がいますが…」
拾った子?
くりかえすと、レインは立ち止まった。見上げると、目の前には大きな白い塔。外壁のデザインは貴宿塔と変わらないらしい。
「旅人のようです。ルナセオ様と同じくらいの年頃の。友人とはぐれたらしいのですが…とにかく、彼女だけでも無事に逃がそうと思って」
そう言ったとき、レインの背後、神宿塔の大きな扉の継ぎ目から、見るもまばゆい光がぶわりと飛び出してきた。塔内いっぱいに溢れたと思われる光は、どう考えたって尋常じゃない。なにか大規模な魔術でも発動したかのようだった。
「なんだ!?」
トレイズが声をあげた。レインはさあと青ざめて、慌てて扉を押し開いた。
「見てきます、お二方はそこでお待ちください!」
レインが光の止んだ神宿塔に飛び込むのを見て、ルナセオはトレイズを見上げた。
「なんなんだろ」
「あの光、もしかして…」
トレイズにはなにやら心当たりがあるらしい。つぶやくトレイズに事情を聞こうと口を開くと、すぐさま切羽詰まった様子でレインが顔を出してきた。
「トレイズさん!ルナセオ様!来ていただけませんか!?」
騒々しい男だ。トレイズとルナセオが一旦顔を見合わせて、扉を押し開くレインの脇から塔の中に入ると、外の月光がわずかに差し込んだだけの薄暗い神殿がそこには広がっていた。
赤いじゅうたんがまっすぐに敷かれ、突き当りには大きなステンドグラスがきらきらと月の光を浴びている。その手前には漆塗りの黒い机があり、両脇には小さな灯をつけた金の燭台が置かれていた。
机の手前に、一人の少女が立っていた。旅用のマントは薄汚れ、雨にでも遭ったのだろうか、しっとりと濡れている。顔立ちはどこにでもいそうな平凡な様子なのに、どこか神々しく感じるのは、彼女の栗色の髪、もみあげの辺りだけ、血でも塗りたくったような赤色をしているからだろうか。
彼女の若緑色の瞳と、ルナセオの目とが、ばちりとかちあった。