act.7 ラファの計略
残酷描写があります。苦手な方はご注意ください。
どれくらいそうしていたのだろう、階段に座り込んでいたルナセオは、頭上から響く、声変わり前の少年の呼びかけに、びくりと肩を震わせた。
「すみません」
「!」
顔を上げると、そこにいたのは小麦色の髪の少年だった。
黒い神官服に帽子をかぶっている。年のころは十歳ほどだろうか。どんよりとした雲の切れ間から差し込む月の光が、彼を照らしていた。彼はためらいがちにこちらに問いかけてきた。
「人を探しているんですけど…見ませんでしたか?僕と同じ黒い服を着た、やたらと目立つ瑠璃の目の男性」
そこまで言われて気がついた。帽子もきちんとかぶり、留め具もきっちりとはめられているが、少年の服は、ラファとまったく同じものだった。
ということは、もしかして、この自分よりもずいぶんと背丈も低いこの少年も、ファナティライストの高等祭司?まさか、だって高等祭司って、世界王に次ぐ世界で二番目に偉い人じゃなかったっけ?
ルナセオは目を丸くしつつ、階段のむこうを指した。
「あっちに行ったけど」
「ありがとうございます。…まったく、ラファさんってば、待ってるって言ったのに」
そう愚痴を吐きつつも、少年はその場を動かなかった。何を思ったか、そのままルナセオの隣に腰掛けて、大通りをそそくさと歩いている人を見るともなしに眺めている。
少年が伺うようにこちらを見た。
「…あなたも、誰かと待ち合わせ?」
「べつに、そういうわけじゃないよ」
ただ、トレイズにおいていかれただけだ。もう彼には見限られてしまったのだろうか。
でも、じゃあ、なんて言えばよかったのだろう。
喜んで、その「第九の巫子」とやらを殺すとでも言えばよかったのか?ばかげてる、狂ってる。
それまで空虚だった内心が、次第に怒りで満ちていく。なんだよ、トレイズ。勝手に俺のことを連れてきて、思い通りにならないからって、すぐに捨てるなんて。
ラトメの地理は、ルナセオには分からない。頼るあてなんてどこにもなかった。
ルナセオは、ひとりぼっちだった。
口をつぐむルナセオを見かねてか、少年がまた口を開いた。
「…なにか、悩み事?」
「え?」
「そんな気がしたから」
少年はにこりともせずに、ルナセオから目をそらした。彼の琥珀の瞳は光もなく、ただ暗くそこにあった。まるでからっぽのようだ、ルナセオは自身のひざを抱き寄せて尋ねた。どうせこれまでの縁だ、何を言ったっていいだろう。
「…あのさ、『人を殺せ』って言われたら、どうする?」
「うん?」
「いや、たとえばのはなし、だけど。突然、そんなことを言われたら、どうする?」
「……」
少年は探るような視線を一瞬だけよこしたが、しかし目を伏せて、ふと笑った。やさしくて、どこか恐ろしい笑みだった。
「じゃあ、僕からも質問。自分の大好きな人と、世界平和。とるならどっち?」
なぞなぞみたいだ。ルナセオは少年のからかうような口調に、ほんの少しだけ表情を和らげた。
「そりゃ、自分の好きな奴でしょ。平和とか、よくわかんないし」
「僕も」
くすりと、今度は子供っぽく、少年は笑った。
「でもね、ほかの人はそうじゃないんだ。みんなから責められるのが怖くて、自分がかわいくて。結局多くの人は、大切な人さえも捨ててしまう」
諭すような口調で、少年は言った。ほんの十歳かそこらの彼は、ひどく大人びた表情で、ルナセオに語りかけてきた。ルナセオはうつむいた。
「…でも、そんなのは悲しいよ」
「そうだね、そんなのは間違ってる」
だからね、そう前置きしてから、少年はふんわりと言った。
「僕は、大切な人が笑ってくれるなら…多分、人だってなんだって、殺してみせるよ」
◆
少年の名はクレッセというらしい。
ルナセオとクレッセは、妙に気が合うらしかった。大人びた、空虚な瞳で世界を見ているクレッセに、この短時間の間で、ルナセオはどうしようもなく惹かれていた。
互いのこともなにもわかっていないのに、なぜかふたりの会話は途切れることがなかった。ぽつりぽつりと、傘も必要ないような小雨のように、ふたりは貴宿塔の階段に座り込んで話していた。
「赤い花を見たことがある?」唐突にクレッセが尋ねてきた。
「花?」
「そう、血みたいに恐ろしくて、あたたかくて、そして悲しい花だよ。人の死を、悼むための花。その花畑には、ひとりの女の人が、そこから連れ出してくれるのを待っている。ひとり、たったひとり、踊るように。彼女はいつもいつも楽しそうに微笑んでいるのに、それでも孤独に泣いている。花の赤に囲まれて」
「…おとぎ話?」
「さあ。ただの夢物語なのか、それとも世界の真実か…ただ、"赤"は神聖な色だって、父さんや母さんから習っただろう?そんな花畑が存在していたら、そこは本当に神の世界かもね」
赤は、尊い色だ。血の色、人のいのちの色。
だから、赤を身にまとうのはどこか恐れ多くて避けられるし、その点で赤の巫子は神の使いのように語られることもある。世界に"赤"を刻むことを許された、唯一の立場。どんな王者の冠よりも価値ある存在なのだ。
昔、父がしてくれた話では、それにも勝る立場というものもあるらしいが、そんなものは本物のカミサマくらいしかいないだろう。
「じゃあ、その花畑にいる女の人ってのも、本当に神様なのかも。双子神の化身だったりして」
「セオ、僕はこう思う。その人はきっと、神様じゃないよ。神様の花畑で、ずっとずっと、神様の帰りを待っているんだ」
クレッセは楽しげに笑った。今まで見た中で、一番生き生きとした表情だった。
「その女の人は、アテナなんだ。神様の守護者、聖なる女性」
それを人は、"聖女"と呼ぶ。
「彼女は今も眠りから覚めていないんだって。ただ広がっている赤い花に埋もれて、ずっと戻らない、誰かの帰りを待っている」
どこかで、かちりと、パズルのピースがはまる音。赤の巫子、聖女、双子神、巫子の役目。すべてが赤い赤い細い糸でからまって、そして最後には、ひとつの答えをつむぎだしているような、そんな気がした。
そのとき。
「おい、クレッセ!」
先ほども聞いた声に、ルナセオはびくりと顔を上げた。見るとラファが、妙にあわてた様子で階段を駆け上がってくる。彼はクレッセと一緒にいるルナセオを見止めて、しばし目を丸くした。
「ラファさん、どこ行ってたんですか」
「帰りの手はずを整えてたんだよ。なんだ、お前ら仲良くなったのか?」
ラファはやんわりと笑った。グレーシャは、こんな笑い方はしない。よく見ると、グレーシャはラファよりも艶のある髪をしているし、瞳も大きい。思っていたよりも、ふたりは似ていないような気がした。ラファはクレッセの腕をつかんで立たせると、ルナセオにこっそりとささやいた。
「どうせ死ぬことはないだろうけど、一応忠告。今すぐラトメを出たほうがいい」
「ど、どうして?」
「どうしてもだよ。言っておくけど、ここに留まってたって、お前の教えてほしいことを全部話してくれるような奴なんてどこにもいない。…そうだな、ファナティライストの森に、ロビって男が住んでる。あいつに会うといい。嫌な奴だけど悪い人間じゃない」
「ちょっと」
「じゃあな!」
言いたいことを言うなり、ラファは、クレッセを引っ張って、来た道を戻っていく。クレッセが空いた右手でひらひらと手を振ってきた。このまま別れるのは惜しい気がして、ルナセオは叫んでいた。
「ラファさん!…ラファさんは、『役目』を果たしたんですか!?」
ラファはくるりと振り返った。彼もまた笑っていたけれど、それはクレッセに似て空虚なものだと気がついた。彼はまっすぐにルナセオを指差した。
「…それは、多分、"お前"が答えだ、ルナセオ」
「え?」
その目はなにかを訴えていた。悲しそうで、切なげで、そしてどこか懐かしむような、そんな瑠璃は、ついとルナセオから視線をはずして、ルナセオに明確な答えを残さぬまま、クレッセを連れていずこかへと駆けていった。
◆
ルナセオは立ち尽くしていた。
"俺"が答え?
どういう意味だろう。俺のどこかに答えがあるのだろうか。左耳の赤い印?ラゼのチャクラム?考えれば考えるほどわからない。
ルナセオはラファたちを追いかけようかと階段を下りていった。ゆっくりと段差を踏みしめて、最後の一段に足をつけたとき、
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!!」
「!?」
思考にさえぎられて周囲が見えていないとはこういうことを言うのだろう。ルナセオは目の前の現場を見て愕然とした。
大通りのど真ん中だ。白い詰襟のシャツに黒いズボン、麻のコートを羽織った男がふたり、互いに向かい合う形で立っていた。ラトメディア神護隊の制服だ。
…いや、違う…道行く人の表情が即座に強張ったわけを、ルナセオは一拍遅れて悟った。ふたりのうちの一方には、向かいあうための首がなかったのだ!
「ひ…ッ」
「皆の衆、見よ!」
その首は、倒れた一方の前に立つ男の手にあった。垂れ気味の目は見開かれたままだ。切れ目からは、鮮やかな血が次から次へとあふれている。神護隊の男は、仲間であるはずの生首をかかげて、いつの間にか背後に陣取っていた神護隊に合図した。
「探せ。手段は問わない」
「はッ」
意味はわからない。とにかく身の危険を感じた。神護隊は皆、抜き身の剣を握っていたのだ。
まずい、逃げなきゃ。
とっさにそう思って、ルナセオは裏通りに飛び込んだ。事情を飲み込めていない家なき子たちがきょとんとしている。ルナセオの背を追い立てるように、男が叫んだ。
「愚かにもこの男が、ファナティライストの高等祭司を我らがラトメディアの地へと引き入れたという!これは由々しき事態である!しかも、あろうことか、祭司の身分を保証してラトメに入れた者が、このフレイリアに今も潜んでいるのだ!」
ルナセオはひやりとした。ファナティライストの高等祭司…ラファとクレッセだ!
先ほどあわてたようにクレッセを連れて行ったラファ。「手はずを整えた」と言った。「今すぐラトメを出たほうがいい」とも。
まさか。
親友そっくりの少年の目論見に、ルナセオは顔を歪めた。