act.6 ラトメディアでの災難
「ギルビスさんって、なんか不思議な人だったな。巫子についてやけに詳しいし…あの人も蹄連合の人?」
「ああ。あいつはシェイルの支部長。巫子について詳しいのは当たり前。あいつも巫子だったんだ。あれでも俺と同年代」
「え!」
妙に大人びた雰囲気だと思ったわけだ。面食らったルナセオは、足を滑らせて転げるように転移装置に突っ込んだ。
◆
ラトメディアはひどく蒸し暑い土地だった。
転移した先は広いホールのようなところで、円形の、大変に豪華な部屋だった。縁に金糸の刺繍が織り込まれた赤い絨毯を辿ると、銀髪に瑠璃の瞳を持った男女の絵が壁にかかっている。トレイズの身長よりも随分高い長さの額縁は金ぴかで、天井のシャンデリアの光をきらきらと受け止めていた。床は大理石でできていて、つるつるしている。ルナセオは起き上がって辺りを見回した。多くの人がホールを行き交い、ルナセオには目も止めない。皆ゆったりとした派手な服を着ていた。
トレイズがマントを脱ぎ、装置から出てルナセオを振り返った。
「ようこそラトメへ。ここは貴宿塔。貴族たちが住んでいる塔だ」
「目がちかちかするよ」
瞬きを繰り返しながらルナセオも装置を抜け出して、トレイズの背を追って両開きの大きな扉を押し開けると、セピア色で固められたラトメの風景がぐわりと広がった。こんな時代でなければ美しかったろうに、ルナセオは思った。
静かな町並みだった。
塀のレンガがあちこち崩れ落ちて地面に転がっている。舗装された道路は薄汚れて、そんな地面にうずくまる乞食たち。彼らを見てみぬふりをしながら大通りを駆け抜ける人々。もとある家の外装が美しいだけに、いっそう惨めな光景だった。
ちらとトレイズを見ると、彼は平然と貴宿塔から大通りに通じる階段を下りていった。腕のない左の袖が、湿った風になびいている。彼はこれを見てなにも思わないのだろうか。赤錆色の混じった髪は、この町のレンガのように色あせて見えた。
トレイズが不意に振り返った。
「ルナセオ?」
「あ、なに?」
「なんだよ、ぼーっとしてると財布を取られるぜ…って、そもそも財布を持っていないんだったな。とりあえず神護隊に行くか。エルミに会いに行かなきゃ」
「そのエルミって人、神護隊なの?」
ルナセオは顔をしかめた。ラトメディアの神護隊員。聞くだけで嫌悪感がつのる。トレイズの知り合いなら悪い人ではないのだろうが、どん底の評判を誇る神護隊の本部に行くのは気が進まない。
そんな感情が顔に出たのだろう。ルナセオを見るなりトレイズは朗らかに笑った。
「前に話しただろ?神護隊の副隊長だ。大丈夫だよ、耳を見せなきゃ巫子だなんてわからないし、神護隊にどうこうされたりはしないよ」
「うん…」
とはいえ不安だ。涼しい空気のこもるマントをきつく巻きつけて、ルナセオは階段を駆け下りた。…すると。
「あれ、トレイズ?」
「え?」
階段の頂上から、トレイズを呼ぶ声。振り返ると、黒い神官服を着た少年がこちらを見下ろしていた。脇に帽子を抱え、コートの前を広げている。ブラウンの前髪をざっくりと片手でかきあげると、少年は瑠璃色の瞳を見開いて視線を移した。ルナセオも同じだった。少年の容貌は、瞳の色を除けば、グレーシャのそれに瓜二つだったのだ!
グレーシャそっくりの少年は、ルナセオを見て、また間抜けに口を開いた。
「珍しいな、ラトメに戻ってたなんて。しかも子連れ」
「お、お、お、お、お、お前…!」
トレイズは当惑していた。幽霊でも見るような目で少年を見上げている。ルナセオと大して背丈も変わらない少年は(そこもグレーシャと違った。あいつはクラス内でも1、2を争う長身だったから)、そんな大の男の視線に苦笑した。
「なんだよ。俺がどこかでのたれ死んでるとでも思ったか?」
「ラファ!」
どうやらグレーシャ似の少年はラファという名らしい。射るような目で彼を睨みつけるトレイズ。どうしたというのだろう。彼がこんな激情をあらわにするのを、ルナセオは初めて見た。
「なんでお前がここにいる?」
「仕事だよ、仕事。大会議の打ち合わせ。ついでにエルの顔でも見ていこうと思って」
「今すぐ出てけ!二度とラトメに来るなって言ったはずだ!」
ルナセオは唖然としてトレイズを見た。彼は左肩をきつく押さえている。古傷が痛むのだろうか。一方で、ラファと呼ばれた少年はふと微笑んだだけだった。少年はルナセオと同年代に見えるのに、その笑みはひどく大人びていた。
「文句ならシェーロラスディ陛下に言ってくれ。俺は最後まで反対したんだ」
「ハッ、ファナティライストの犬に成り下がっちまって。第九の巫子の傍はそんなに気分がいいのか?」
まただ。第九の巫子。その単語にルナセオがぴくりと反応すると、ラファはこちらをちらりと見た。
「腐るほど言っただろ。俺とトレイズの意見は違う。俺は第九の巫子を救う。物語なんてくそ食らえだ。…なんだ、トレイズ。アンタはまた繰り返すのかよ」
ラファはルナセオを顎でしゃくった。だんだんと不穏な雰囲気になっていく。
「そいつ、巫子だろ。トレイズが子供を連れてラトメまで来るなんてそれくらいの理由しかないもんな。第九の巫子については話したのか?どうせまたその責任も誰かに負わせるんだろ」
「黙れ!ルナセオにこんな話を聞かせるな」
「第九の巫子は殺させない。それが巫子の役目だったとしても」
ラファの声はひどく静かに響いた。そのことばが、ルナセオの頭に染み渡り、じわじわと実感を持って反響を始める。ルナセオは今回ばかりは残念なことに、鈍感でも頭が悪いわけでもなかったから、彼の言った意味はすぐに分かってしまった。
第九の巫子を殺すのが、巫子の役目?なんで?俺は、人を殺すためにトレイズに連れてこられたの?
ラファは皮肉っぽく笑って見せた。
「アンタは俺と違って、役目に忠実な巫子が欲しいんだ。さしずめエルにでも巫子の話をさせるつもりだったんだろ?あいつのほうがよっぽど説得には向いているからな」
「やめろ!」
ラファは口を閉じてじっとルナセオを見た。グレーシャとはちがう、美しい宝石のような瑠璃の瞳。先ほど貴宿塔で見た絵とそっくりな色だと思った。揺れるルナセオの視界のなかでそれだけが鮮やかな色だった。ラファが目を逸らす。ルナセオたちをすり抜けて階段を下りていく。
階段の最下段で立ち止まり、ラファは振り返った。今までの話が嘘のように、朗らかにルナセオに笑いかけてくる。
「そういえば自己紹介がまだだったな。えーと、ルナセオだっけ?俺はラファ・ノルッセル。ファナティライストの高等祭司をやってるんだ。…そこのトレイズとは、昔の仲間だよ」
巫子のな。
そう和やかに言い放って、ラファはひらひらと手を振ると、そのままいずこかへと立ち去っていった。残されたルナセオは、不安げにトレイズを見た。彼はまだ左腕をつかんだままだった。
「トレイズ…」
「あいつの言うことは聞くな。あの野郎、ますます性格が悪くなってやがる」
吐き捨てるトレイズ。ルナセオは階段を下りていく彼の背に向かって、恐る恐る尋ねた。
「…本当なの?」
「……」
「本当に、人殺しが、巫子の役目なの?」
トレイズは何も言わなかった。背中で語る、と人は言うが、その言葉のとおり彼の背中は雄弁だった。ルナセオは青ざめた。
「嫌だよ、そんなの」
後ずさった。
「なんでそんなこと、しなくちゃいけないんだよ、トレイズは、トレイズは、俺に…」
叫ぶ。信じられない。自分は人を殺したらしいけど、あんなのは、あんな気持ちはもうごめんだ。
「俺に、人を殺せっていうのかよ!」
ラゼが人を殺していた。彼女はなにも思わなかったのだろうか。巫子という生き物にとっては、それが当たり前だとでも言うのか。それで「巫子は世界を救う」なんて、そんなことを言って。
人を殺さなきゃ得られない救いなんて、間違っているのではないのか。
ギルビスの台詞が蘇る。巫子を救ってくれる人はどこにもいないのだと。彼も、ラゼも、トレイズも。きっと今のラファも。じゃあ、誰かを殺して、世界を救ったとでもいうのか。そんなのは自分には無理だ。
すると、トレイズの金色の瞳は、妙に沈んだ色をしてルナセオを見据えた。口の片方の端だけを上げて、無理矢理に笑ってみせる。
「…そうか」
低い声だった。不意に、ルナセオは、トレイズが自分よりもずっとずっと大人だということに気がついた。
「お前まで、ラファと同じことを言うんだな」
歩いていく、トレイズ。ルナセオは、足に根っこでも生えたように、その場に立ち尽くしていた。