act.7 蹄連合
「おまえは!」
クレッセたちと別れてから、一度も口を開くことのなかったデクレが、思わずといった調子で声を上げた。そこには怒りも憎しみもなく、ただただ驚きだけがあった。
対する女性は、これまでの粗野な神護隊の男たちとは比べ物にならないほど、上品で凛とした佇まいだった。よく覚えていないけれど、あの雨の日もそうだった気がする。物腰柔らかに微笑んで、彼女はマユキを見た。
「…ほら、来ましたよ。マユキ様、どうやらあなたの異議は意味を成さないようです」
なんの会話をしていたのか、マユキは盛大に舌打ちをして、女性から顔を背けた。一方で、銀髪の女性は小さく笑ってネルたちを迎える。
「ようこそいらっしゃいました。お見苦しいものをお見せしてしまったようで失礼いたしました」
「…ねえレフィル、ここは蹄連合の本部じゃないの?どうして神護隊の人がいるの?」
挨拶も忘れてネルが問うと、今まで笑いをこらえていたらしい、不自然にゆがんでいたレフィルがもう駄目だとばかりに噴出した。豪快に笑い声を上げる彼に、ネルとデクレはぽかんとして、マユキは苛々と髪をかき回した。
レフィルは楽しげに女性に声をかけた。
「エル、珍しいね!君が怒っているのを見るのは何百年ぶりだろう!」
「人が怒っているのを笑い事にしないでください、レフィル。まったく、あなたもどうしてこの方々を連れてきてしまったのか…これではクレッセを逃がして、ラファに保護させた意味がありません」
「……どういうことだ?」
警戒心もあらわにデクレが低く問うた。すると、レフィルがああ、と朗らかな調子で返した。
「なるほどね、やっぱりそうだと思った」
「なんなの?」ネルがなおも尋ねると、レフィルは肩をすくめた。
「彼女はクレッセの教育係だったのさ。名前は、えーと…エルミだっけ?あだ名で呼ぶと本名を忘れてしまうよ。急にクレッセが影も形もなく消えてしまったのは、君のしわざというわけだ。クレッセ一人でラトメから逃げ切れるわけがないし、きっと誰かが手を貸したんだろうとは思ってたんだけど。君、クレッセに情でも湧いたのかな?」
「人聞きの悪い。私がそんな柄に見えますか?私は連合の利益を考えて行動した、それだけです」
穏やかに、エルミ、と呼ばれた女性が返した。「エルミ」。そう、確かあの時もそう呼ばれていた。
「ご紹介に預かりました。七、八年振りになりますか、エルミと申します。このラトメディアを守る、神護警備部隊の副隊長です」
「…わかった、もしかしてあなた、スパイなんだ!」
ぴんときてネルが声を上げると、エルミは微笑んだ。彼女の隣でマユキが鼻を鳴らして割り込んだ。
「ネル、デクレ。とにかく、ラトメへようこそ。だけどね、あなたたちはここへ来てはいけないの。今すぐレフィルに、名もなき村へ帰してもらいなさい。クレッセのことは、私たちがなんとかするから」
「…クレッセ」
デクレがうつむいた。きっと彼は混乱している。あの小さな「クレッセ様」と、先ほど別れたクレッセの差異、それから目の前の、父を斬った女性に。
レフィルは何も言わないだろう。きちんと説明できるのはネルだけだった。…レフィルに誘われるままにやってきたこの蹄連合の内情を、見極められるのは自分だけだ。
ネルは一歩前に出た。
「帰りません。マユキおばさんには悪いけど」
「ネル!」
「きっと私、帰っちゃいけない。なにも分かってないのに、帰るわけにはいかないよ。私たち、クレッセを探してここまで来たの。エルミさん、あなたがどうしてユーるおじさんたちを連れて行ったのか、どうしてクレッセを逃がしたのか、…なんで、あの時デクレはさらっていかなかったのか。教えてください」
マユキは困惑して息を呑んだ。デクレなど目を白黒させてこちらを見ていた。まさか、この頭の悪そうな少女が、突然核心に触れてくるとは思いもよらなかったのだろう。レフィルとエルミは、なにやら興味深そうな顔を見合わせている。
エルミは笑みを消した。まじめな口調で、ネルとデクレをソファに促した。
「どうぞ、お座りください」
「エルミ!」
「マユキさま。彼女たちはすでに巻き込まれています。ユール様をこちらにお連れすることが、貴宿塔で決まったあのときから。ラトメまで来てしまった以上、中途半端に放り出すのはかえって危険でしょう」
一同が寝るとデクレに話をする方向でまとまったのを見て、一人マユキはいきり立った。ヒステリックに叫ぶ。
「もうどうにでもすればいいわ!私は知らない!」
そのまま転移装置から出て行ってしまうマユキ。ネルとデクレがそれを見ていると、エルミはまったく気にした風もなくソファで優雅にお茶をすすっている。
「マユキ様は心配されているのですよ。クレッセも、ユール様も、そしてデクレ様、あなたも、ご家族でいらっしゃいますから。それに、プライベートで…何かあったようです、少々気が立っていらっしゃる」
そうしてエルミは、テーブルに重ねられていた空のカップを手に取ると、ポットからお茶を注いでネルとデクレに差し出した。なぜかレフィルの分はなかった。
「けれど、この場に残らないということは、あの方も分かっているのでしょう。あなた方には、すべてを知る権利があるとね。…さて、お話をはじめましょうか。改めまして、エルミとお呼びください」
「あ、ネルです」
「…デクレ」
「ネルにデクレ。あなた方は、"不老不死"と呼ばれる一族について、なにかご存知ですか?」
不老不死。不意にクレッセのことが思い出された。赤の巫子。老いない体。
「赤の巫子のことなら、おとぎ話くらいのことなら」
「"赤の巫子、不老不死の身体と絶対無敵の魔力を持ち、歴史の境に現れて世界を救うだろう"ってやつだね。でも、実際にどうやって世界を救うのかは知らないだろう?」
レフィルの質問に、ネルもデクレも頷いた。あの博識なデクレですら知らないことなのだから、よほど限られた人にしか知らされていないことなのだとネルは思った。
エルミがやや眉をひそめて言う。
「くだらない筋書きなんですよ。巫子というのはですね、ネル、デクレ。全部で十人いるとされていますが、でも、実際に世界を救うのは、その中の九人だけなのです」
「わかるかい?巫子は、歴史が混乱に陥ったときに現れる。だけど、その『混乱』を作るのもまた、巫子なんだ」
よく分からない言い回しだ。ネルとデクレが首をひねっていると、レフィルは皮肉っぽく笑った。
「つまりはこういうことさ。巫子の中のひとりが、世界を混乱に陥れる。それを阻むのが残りの九人だ。そのために、九人の巫子は、世界を破滅へと導く"第九の巫子"を殺さねばならない。ずっとずっと昔から、そういう風にできているんだ」
かちり、頭の奥でパズルのピースがはまったようだ。
時を止めたクレッセ。記憶があいまいになったクレッセ。でも、その呪いは巫子の中でも、彼にしかかからないのだと言っていた。ネルが巫子になっても、仲間にはなれないと言った、クレッセ。
「まさか」
声が震えた。あの少年は、微笑んで、ネルを見ていた。つぎにあうときは、きっとてきどうしだ。
レフィルとエルミは、無情にも同時に頷いた。
「そして、クレッセがその"第九の巫子"です」
◆
世界を壊したかったのだ。
父を斬られ、弟と離れ離れになって、そんな絶望の中で生きていくしかないのなら、こんな世界はいらないと思った。
エルミがユールを斬ったのは本意ではないというのは納得したし、自分という立場の難しさも理解はしている。でも、やっぱり、やっぱり、世界を許すことはできない。
このまま自分を飲み込もうとする黒い波におぼれて、何も思わずに一思いに破滅の化身となってしまいたい。
だって駄目だよ、世界はいつも、誰かをふしあわせにする。
「ネル…」
クレッセはつぶやいた。
能天気で、女の子の癖にちょっと怪力で、笑うとかわいい。誰かを信じることしか知らなくて、まっすぐで、
なんであの子が、巫子になんてならなくてはいけないのだろう。よりにもよって、幼馴染である自分を殺さなくてはいけないのだろう。誰でも愛することのできるあの子に、できるわけがなかった。ネルはきっと泣いてしまうから。クレッセの敵になりたくないと言って、絶対に泣くんだ。
そうして結局はネルが一番に傷ついてしまう。そんなのは、自分が幼馴染を泣かせるのは嫌だった。
だから、ネルが自分を殺すよりもはやく、僕は世界を壊さなくてはならない。
やさしすぎる月明かりの下で、クレッセは拳を握り締めた。
◆
「そうですか、クレッセが」
エルミに会うよう言われた旨を彼女に伝えると、目の前の女性は目を伏せて、カップをソーサーに戻した。
「…協力、そうですね。確かに、私ならあなた方をお助けできることもあるでしょう」
「それじゃあ!」
クレッセが、世界を壊すなんて嫌だ。ネルと、デクレと、クレッセと。三人がすべてだった、あの森での日常。それがなくなってしまうなんて。クレッセだって、それが本当の願いだなんて思えない。
それ以前にある重大な問題を差し置いて、ネルはエルミに、クレッセを助ける協力を願い出た。相手もそれはわかっていたのだろう。エルミは快く頷いた。
「いいでしょう。クレッセをラファから引き離すことは難しいでしょうが…ある程度あなたがたを援助するくらいなら、私にもお役に立てることはあるでしょう」
「ありがとう、エルミさん!」
「ですが、条件がいくつかあります。無償であなた方の助けにはなれません。
ひとつは、今言ったとおり、クレッセをラファの保護からはずさないこと。彼はラファの守護によりかろうじて自我を保っている状態です。ラファから引き離せば、彼の巫子の力はすぐに暴走するでしょう。
そして、もうひとつ…私があなた方に協力する代わりに、あなた方も私に、ご協力いただけませんか?」
もしかして、また蹄連合の協力、というやつだろうか。ネルが首をかしげると、エルミは微笑んだ。
「これは蹄連合とは関係のない…いえ、どちらかといえば、私とレフィルはこの目的のために、神護隊や連合に所属しているのですが…」
「人を斬ったりしなくちゃならなくても、ラトメに残る理由?」
直感でネルは思った。きっと、彼女だって、やりたくてユールを斬ったわけではないのだろう。するとエルミはネルの台詞に苦笑した。
「そうですね、この目的を果たす必要さえなければ、私もこんな腐った国に長居はしないでしょう。…私の友人を、救う手助けをしていただきたいのです」
「友人?…"神の子"じゃなくて?」
エルミは頷いた。
「もちろん、私たちの目的の延長線上には、"神の子"の救出がある…彼女は、"神の子"に保護されていたんです。貴宿塔の連中はまだ勘付いてはいないようですが、このままだとそれも危うい」
そういえば、レフィルも以前、「"神の子"にしか成せないことをやってほしい」と言っていた。それが、その人物の救出ということだろう。そしてきっと、ここまでエルミとレフィルが話をしてくれていたのは、彼らの目的をネル達に託したかったからなのだろう。
「誰なの?」
「名前は明かせません。私の唯一無二の親友です」
「このエルにここまで言わしめる、僕の最愛の女の子さ」
二人は神妙な口調で言った。その姿は、やはり見目の年齢のそぐわない、ちぐはぐな印象を植え付けた。エルミはそっと息をついた。
「とはいえ、それはいつでもいい。とにかくそれに協力してくださるという言葉ひとつさえあれば、私は喜んであなた方の助けとなりましょう」
「とにかく、エルミさん達の友達を助けるお手伝いをすればいいってことだよね、それなら…」
「僕は反対だ」
口をつぐんで話を聞くばかりだったデクレが低い声で唸った。彼はきつい面持ちで、エルミと、そしてレフィルを睨んでいた。
「こいつは父さんを斬ったんだ。そんな奴に協力してもらうだなんてごめんだ」
「でも、デクレ…」
「ネルだって!クレッセが、あのクレッセが、本物だってわかってたのに…僕になにも言わなかったじゃないか!」
怒りの矛先がネルに向いた。ネルは途方にくれた。
「だって、だって…クレッセが、デクレには絶対言っちゃ駄目だって…」
「なんでだよ!僕はクレッセのきょうだいなのに!本来なら、ネルより先に、僕が知るはずじゃないのか?…まさか、まさかネル、最初から、全部ぜんぶ、知ってたんじゃないのか?ソラおばさんと一緒になって、僕をだまして、」
「馬鹿言わないでよ!私がデクレに嘘つくわけない!」
「嘘つき!」
互いに立ち上がって叫んだ。レフィルとエルミは止めようともしない。妙に達観した様子で二人の応酬を見ている。ネルは泣きたくなった。クレッセが黙っていたことだって、彼は絶対に、デクレをのけ者にするためではなかったはずだ!
そう思うと、それを察せないデクレに怒りすら湧いてきた。ネルは拳を握り締め、思い切りデクレを殴った。デクレの白い頬が、ぱっと紅色に染まった。
「デクレのわからずや!だいきらい!じゃあもういいもん、私ひとりでクレッセを助けるんだから!」
さっと身を翻して、転移装置に飛びこむと、今度は何も問われることなく、ネルは一階に戻っていた。何も語らぬ魔方陣を見下ろす。誰も、自分の気持ちを分かってくれる人なんていないような気がした。
とぼとぼと、舞宿塔からの出口へと続く扉に向かった。扉は開いている。誰かが開けっ放しにしたらしい。それがまた、さっさとここから出て行ってほしいと拒絶されているような気がして、ネルはまた落ち込んだ。
舞宿塔の外から、なにやら歓声が聞こえてきた。なんだろう、なにか出し物でも来ているのかな。今はとにかく、気持ちをやわらげたかった。急ぎ足で扉を抜けて、…そして、なんということだ、ネルは絶句した。
剣、鮮血、狂笑。
ラトメの町並みが、悲鳴と恐怖の渦に塗りつぶされていた。