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ベストフレンズ  作者: 菊池まりな


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第68話 沈黙

 八月に入ると、紗奈の部屋のカーテンは、ほとんど開けられることがなくなっていた。


 時間の感覚は、もはや意味をなさなくなっていた。朝も昼も夜も、同じような薄暗さの中に溶けていく。スマホの画面だけが、外の世界と繋がる唯一の光だった。だが、その画面を開くことさえ、日に日に難しくなっていった。


 通知は溜まっていく。母親から、悠真から、佐伯から。最初のうちは、既読だけはつけていた。既読をつけないと、もっと心配されるという計算が、かろうじて紗奈を動かしていた。


 だが、その計算をする力さえ、少しずつ失われていった。


「元気にしてる?」


「今度ご飯行こうよ」


「レポートの件、大丈夫だった?」


 文字は目に入る。だが、それに対して何を返せばいいのか、頭の中で言葉が組み立てられない。返信を考えようとすると、途中で思考がぷつりと途切れる。まるで、糸が短すぎて、結び目まで届かないような感覚だった。


(返さなきゃ)


 分かっている。分かっているのに、指がスマホに触れる直前で止まってしまう。その状態が、何時間も続くこともあった。


 母親からの電話は、次第に出られなくなっていった。呼び出し音が鳴るたびに、紗奈は布団の中で体を丸めた。出れば、何か聞かれる。何か答えなければならない。その一連の流れを想像するだけで、胸の奥が締めつけられた。


(心配かけてる。分かってる。でも、出られない)


 罪悪感と、動けないことへの無力感が、交互に押し寄せてきた。どちらも紗奈を追い詰めるだけで、どちらも紗奈を動かす力にはならなかった。


 食事は、一日にコンビニのおにぎり半分ほどになっていた。空腹という感覚自体が、遠のいていた。味もあまり感じなかった。ただ、生きるために最低限、何かを口に入れているという、義務のような行為だった。


 鏡を見ることも減っていた。たまに目に入る自分の顔は、どこか他人のもののように見えた。


(私、誰だったっけ)


 そんな、輪郭を失うような感覚が、ふとした瞬間に紗奈を襲った。


 悠真からのメッセージは、まだ続いていた。頻度は減っていたが、途切れることはなかった。


「紗奈、最近連絡少ないけど、元気にしてる?」


「心配してるよ。返事だけでもくれると嬉しい」


 紗奈はその文字を、何度も何度も読み返した。悠真の優しさが、そこには確かにあった。だが今の紗奈には、その優しさを受け取るための器が、どこにも見当たらなかった。


(迷惑かけてる)


(返事もできない自分、最低だ)


(でも、何て返せばいいか、分からない)


(「大丈夫」って、もう噓すら、うまくつけない)


 指がスマホの画面に触れる。文字を打とうとする。だが、どんな言葉も、今の自分から遠すぎるように感じられた。「大丈夫」も「疲れてる」も「頑張ってる」も、すべてが、もう自分のものではない言葉のように思えた。


 結局、その日も、紗奈は何も送れなかった。


 夜、天井を見つめながら、紗奈はぼんやりと考えていた。


(このまま、消えてしまえたら)


(誰にも迷惑をかけずに)


(誰も、悲しませずに)


 その考えは、以前のように鋭い痛みを伴わなかった。むしろ、静かで、凪いだ水面のように、紗奈の中に横たわっていた。それが、かえって怖いことだと気づく力すら、もう残っていなかった。


 窓の外で、蝉の声が遠くに聞こえていた。夏の盛りだというのに、その音は、紗奈にはひどく遠い世界の音のように感じられた。


 数日後、紗奈のスマホの通知は、誰からも気づかれないまま、ただ静かに積み重なっていった。




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