↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ベストフレンズ  作者: 菊池まりな


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
58/95

第58話 届かない声

 五月の連休が明けてから、紗奈の中で、何かが少しずつ変わり始めていた。


 ゼミの課題は問題なくこなせていたし、新しくできた友人ともそれなりに話せていた。傍から見れば、順調な大学生活を送っているように見えたはずだった。


 でも紗奈自身は、自分の内側で何かが少しずつ乾いていくのを感じていた。


──楽しい、と思えない。


──でも、楽しくないと言えば、心配をかける。


 高校三年生のあの一年間、紗奈は「弱さを見せてもいい」ということを、時間をかけて学んだはずだった。悠真に、母親に、少しずつ「つらい」と言えるようになっていた。


 なのに今、その言葉が、また喉の奥に詰まっていた。


「なんで、また言えないんだろう」


 誰もいない部屋で、紗奈は独り言のように呟いた。




 理由は、紗奈自身にもはっきりとは分からなかった。ただ、いくつかの感覚が重なっていた。


 高校時代は、悠真がいつも近くにいた。つらいと言えば、すぐに気づいてもらえる距離だった。今は違う。連絡しなければ、誰も気づかない。


 「連絡して」と言われても、その一歩を踏み出すこと自体が、以前よりずっと重く感じられた。


 それに、恋人になったことで、新しい怖さも生まれていた。


──重いと思われたくない。


──「彼女」なのに、こんなに不安定でいいのだろうか。


 友達だった頃には感じなかった種類のプレッシャーが、紗奈の中に静かに積み重なっていた。




 悠真は、紗奈の些細な変化に気づいていないわけではなかった。


 返信が短くなったこと。既読がついてから返ってくるまでの時間が、少しずつ長くなっていること。


 でも、大学生活が始まったばかりで忙しいのは自分も同じだった。悠真は「新生活の疲れだろう」と、その変化を自分自身に説明していた。


「今度、そっち行っていい?」


 悠真がそう送ると、紗奈からは少し間を置いて返信が来た。


《うん、いいよ。でも今週はちょっと課題が》


《じゃあ来週は?》


《来週も、多分》


 具体的な約束にならないまま、会話は流れていった。悠真はそれを「お互い忙しいから仕方ない」と受け止めていたが、心のどこかで、小さな引っかかりを感じてもいた。




 紗奈の母親も、娘の変化に気づいていた。


 週末に実家に帰ってきた紗奈は、以前より口数が少なかった。食事の量も、心なしか減っているように見えた。


「大学、楽しい?」


「うん、楽しいよ」


 即答だった。あまりにも即答すぎて、母親は逆に不安を覚えた。去年のあの冬、紗奈が「大丈夫」と繰り返していた頃のことを、母親は忘れていなかった。


「無理してない?」


「してないよ。ただ、新しい環境に慣れるのに、ちょっと時間かかってるだけ」


その説明は、もっともらしく聞こえた。母親も、それ以上は踏み込まなかった。「新生活だから仕方ない」──誰もが、そう自分を納得させていた。




 紗奈の下宿先の部屋。


 夜、レポートを書く手が止まって、紗奈はしばらく画面を見つめていた。


 悠真にメッセージを送ろうとして、指が止まる。


「つらい」と打っても、消した。


「会いたい」と打っても、消した。


 代わりに送ったのは、こんな一文だった。


《元気にしてる? そっちも忙しそうだね》


 当たり障りのない言葉。本当に伝えたかったことは、その裏に隠れたまま、画面の向こうには届かなかった。


 悠真からはすぐに返信が来た。


《元気だよ! こっちもバタバタだけど、楽しくやってる》


《紗奈も無理しないでね》


 「無理しないでね」という言葉に、紗奈は小さく笑った。皮肉な笑いだった。無理しているかどうかを、自分でも分からなくなっていた。


 窓の外では、五月の夜が、静かに更けていった。


 誰も悪くなかった。ただ、少しずつ、大切な言葉たちが、届くべき場所に届かなくなっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。