それがあなたの『正義』なのね
私の婚約者が、壇上で声を張り上げていた。
「サリナ・アルティア子爵令嬢! 私はあなたとの婚約を、本日をもって破棄する!」
大広間が静まり返った。全校生徒が、私を見た。
私は人ごみの真ん中に立って、ティーディーの顔を見ていた。
知っていた。こうなると、分かっていた。
守護妖精を失ってから、ティーディーの目が変わった。いや、正確には――変わったのではなく、もともとそういう目だったのだと、守護妖精がいなくなって初めて気づいた。妖精というフィルターが消えると、人の目はそのままの現実を受け取ってしまう。
ティーディーの目は、ずっと前から、サリナを見ていなかった。
「妖精が告げている。あなたは私の運命を曇らせる影だと。妖精を失い、魔法も使えない欠陥品に、侯爵家の名を汚す資格はない!私の正義の元に、サリナとの婚約破棄を行う。そして、男爵令嬢のリリアを新しい婚約者として迎える」
欠陥品。
その言葉が、大広間に響いた。
隣の女子生徒が、気の毒そうな目でこちらを見た。
本当は、泣き喚きたかった。
でも全校生徒の前で、泣くのは嫌だった。縋るのも嫌だった。叫ぶのも嫌だった。
だから、ただ立っていた。
リリアが歩いてくる。淡い金髪と翡翠の目。「魅惑の妖精」を持つと噂の女。その守護妖精が放つ淡いピンクの光が、彼女をふわりと包んでいた。
周囲がうっとりした目で彼女を見ていた。
サリナには、ただ綺麗で妖艶な女が歩いてくるように見えた。
「サリナ様。あなたを恨まないで。妖精の定めは誰にも変えられないの」
その声には慈愛が満ちていた。
けれども、口元には微かな笑みの陰が刻まれていることに、サリナだけが気づいていた。
サリナはしばらく黙っていた。
本当は怒りたかった。でも胸の奥で何かが固まって、その固まりが声の代わりに出てきた。
「分かりました。あなたの正義に従います」
ティーディーが眉をひそめた。
「ふんっ……それだけか?婚約破棄で本当にいいのか?」
「そうですね。かまいません」
「泣くとか、縋るとか、もう少し……。まあ、泣いても縋っても、婚約は破棄するがな」
「私があなたに縋らなくて、がっかりしているんですね?さすがティーディー様ですわ」
私の嫌味に対して、学園がシーンとした。
「学園も去ることになるだろうな。お前のような、欠陥品の居場所はここにはないから」
「そうかもしれませんね。婚約破棄、承りました。それでは、ごきげんよう」
踵を返した。
廊下に出てから、初めて、足が震えた。
壁に手をついて、深呼吸を三回した。
深呼吸の後、震えが収まると同時に、お腹が減っていることに気がついた。
食堂に寄ってチョコメロンパンを買った。
廊下の窓から外を見ると、秋の木々が橙と紅に染まっていた。銀杏の葉が一枚、ひらひらと落ちてきた。
こんな時でも紅葉はきれいだな、と思った。
═══════════════════════════════════════
守護妖精がいなくなったのは、婚約破棄の三日前のことだった。
その日は酷く荒れた、嵐の夜だった。
秋の終わり、雷が学園の尖塔を白く染め、サリナは回廊の窓に額をつけて外を見ていた。
次の瞬間、耳の奥で何かが切れた。
痛みはなかった。でも、ずっとそこにあった低い音が、ふいに消えた。
それは、川のそばで育って、川に水があることが当たり前になっているのに、ある日急に川が干上がったみたいな感覚だった。
翌朝、学園にいる妖精師に見てもらうと、「妖精との絆が断ち切れた」と言われた。
この世界において、守護妖精は魔法の源泉だ。
人は生まれた時から、必ず一体の守護妖精とともにある。妖精は普通の人の目には光る球体にしか見えないが、その輝きの強さや色でおおよその階位が分かる。
上位の妖精を持つほど強力な魔法が使え、貴族社会では「どれほど高位の妖精を連れているか」がそのままステータスになる。
王家や公爵家の生徒は深金色や純白の妖精を連れていることが多く、高位の妖精を連れていると、学園の廊下を歩くだけで周囲のものたちは道を開ける。
守護妖精は、持ち主の耳元で絶えず囁き続ける。
それが妖精の「加護」だ。持ち主の判断を助け、感情を整え、世界をほどよく見やすく整えてくれる。
――少なくとも、そう言われている。
妖精を失うということは、魔法を失うということ。そして加護の囁きを失うということ。貴族として、学園生として、もはや存在価値がない。妖精師はそう言いたそうな顔をしていた。
「まあ。そうなんですの。どうしましょう」サリナは妖精師に言って、部屋を出た。
気づけば食堂でメロンパンを鷲掴みにしていた。
嫌なことがあった時にしか解禁しない、サリナなりの厄払いだ。
ふかふかの生地をカフェラテで湿らせて、噛むことも忘れて喉に送る。
お世辞にも行儀が良いとは言えない、食べ方だった。
まあ、なんとかなるさ。
妖精が消えただけ。それだけだ、と自分に言い聞かせた。
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それからの学園生活が、地獄だった。
廊下を歩けば、クラスメイトが聞こえよがしに言う。
「妖精を失った子って、なんか気持ち悪くない?」
「もう魔法も使えないんでしょ。何のために学園にいるんだろうね?授業受ける意味ある?」
「妖精がいてもいなくても、私はあの子は苦手だったわ」
守護妖精がいた頃は、こういう声が聞こえなかった。妖精の加護が、不快な現実を「背景の雑音」に変えてくれていたから。
妖精が『感情を整え、世界をほどよく見やすく整えてくれる。』というのは本当だったようだ。
妖精を失った今は全部の雑音が、ダイレクトにサリナへ届く。
うるさかった。汚かった。時々、びっくりするほど惨めだった。
正式な学園からの追放令は、婚約破棄から三日後に届いた。
「魔力不安定による学園環境への悪影響」
そんな建前を並べた書面で命じられたのは、影の街への移送だった。
これほどまでに滞りなく、滑るように追放が決まったのは、実質的にリリアが裏で手を引いた結果だと分かっていた。けれど、今の私にはそれを証明する術も、彼女の嘘を暴く力も残されていなかった。
実家であるアルティア子爵家すら、私を拒んだ。父も母も、ただの一度も扉を開いてはくれなかった。妖精の加護を失った私など、今の彼らにとっては、家を汚す不気味な異物でしかなかったのだ。
---
影の街は、王都の城壁の外側にある。
魔力が薄く、守護妖精も弱くしか光らない地域。正規の仕事に就けなかった人々、妖精の恩恵から外れた人々が寄り集まって暮らしている。
舗装されていない路地に、傾いた家々が並ぶ。でも夕暮れになると、残照が路地の石畳を金色に輝かせ、それは思いがけず美しい光景になる。
最初の夜、廃屋の床に横になって天井を見た。黴の匂いと、遠くから聞こえる誰かの笑い声に寂しさを感じた。
そこはとても寒かった。
泣いてスッキリしたいと思ったが、涙が出なかった。疲れすぎていたのかもしれない。
「こんなとこで一人になっちゃった。でも、なんとかなるかなあ?」サリナは小さく呟いた。
不思議となんとかなる気がした。根拠は全くなかった。でも声に出すと、少しだけ楽になった。
翌朝、街を歩いた。古本屋で魔法の基礎書を見つけた。持ち金の半分を使った。
妖精がいなくても、魔法が使える方法が書いてあることを期待して、この本を買った。
残り半分で食材を買い、炊き込みご飯みたいなものを作った。味は普通だった。
初めての料理にしては、上手にできたと思う。食べながら今日買った魔法の本を読んだ。
持ち金の半分を使って買ったのに、妖精なしで魔法が使える方法について何も書かれていなかった。
追放されてから三日目、散歩していた時に、廃れた薬草師の工房を見つけた。
工房は老いた女性が一人で営んでいた。
試しに「弟子にしてください」と言ったら「給金は出ないよ。それでもいいかい?」と言われた。
「食事と屋根があれば、問題ありません」と答えたら「物好きだね。さあ、入っといで」と言われた。
それで話がまとまった。
老師は不愛想だったが、教えることは丁寧だった。
「影の街で魔法を使うなら、実は妖精の声は必要ないの。手で触れるみたいに、魔力を確かめなさい。焦らず、丁寧に。あんたは器用そうだから、できるよ。さあ、練習してみな!」
老師の言ったことは本当だった。加護を失い、魔法の資格を剥奪されたはずの指先から、確かに魔力が染み出していた。
最初の一ヶ月、試したのはコップ一杯の水だった。三回に一回、ようやく水が底に少し溜まった。とても弱い魔法だった。
次の一ヶ月は、薬草を煎じるための小さな火種だった。やがて、成功率は二回に一回というところまで底上げされた。
三ヶ月目に入る頃には、複雑な薬の調合すら安定してこなせるようになっていた。
かつての優雅な宮廷魔法とは程遠い、『生活の、そして生存のための魔法』だったが、影の街で生きていくためには十分だった。
けれど、自分の意思で魔力の筋を編み上げ、望んだ結果を手繰り寄せる感覚は、何物にも代えがたい高揚をサリナに与えていた。
妖精の助けなしに魔法を紡ぐことは、ひどく刺激的だった。
自分の頭で理を考え、試行錯誤を繰り返し、魔法が形を成した瞬間の充足感。それは、脳を痺れさせるほどに心地よいものだった。
かつて隣に妖精がいた頃は、その導きに従ってさえいれば、何不自由なく完璧な魔法を扱うことができた。それは確かに「楽」ではあった。
けれど、サリナの心には常に、埋めようのない物足りなさが澱のように溜まっていた。
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『真視の眼』が覚醒したのは、工房に来て一ヶ月が過ぎた頃だった。
老師の棚の奥に、埃をかぶった薄い冊子を見つけた。題名もなく、著者もなく、ただ古い言語でびっしりと術式が書かれていた。
古い言語で書かれているはずなのに、なぜかサリナはその術式を読むことができた。
術式とは、妖精が持ち主に作用する時の「魔力の構造」のことだ。
老師に教わって魔力を手探りするうちに、サリナはその感覚を少しずつ掴んでいた。
でもこの冊子に書かれている構造は、今まで見てきたどの術式とも違った。
複雑なのではない。むしろ逆だ。
普通の術式は「妖精の光を通す」ことで成立している。
持ち主の魔力が妖精を経由して、外の世界に作用する。
光のフィルターを通すことで、魔力は安定し、方向が定まり、精度が上がる。
でもこの術式は、そのフィルターを「取り外す」構造をしていた。
妖精を介さずに、魔力を直接動かす。より正確に言えば――妖精が「見せたくないもの」を取り除かずに、世界をそのまま見る。
老師に見せると、彼女はしばらく黙った。煙管をゆっくり一口吸って、ぽつりと言った。
「千年前に封印されたはずの術式だよ。『真視の眼』。妖精のフィルターを通さず、世界を直接見る力。妖精がどんな姿をしているか、何を囁いているか、全部そのまま見える。それを使えた術師は、歴史上たった一人しかいないとされている」
「……どうして封印されたんですか?」
「妖精にとって都合が悪かったから、じゃないかね」老師は煙をゆっくり吐いた。「本当の姿を見られたら、困る連中がいるってことだよ」
サリナはしばらく黙った。
それから、ゆっくりと、術式を手の中で組み上げてみた。
見えた。
老師の肩に浮かぶ守護妖精の球体の内側に、小さな人型の影がいた。羽を持ち、じっとこちらを見ていた。囁きは聞こえなかった。老師の妖精は、ただ静かにそこにあった。
「……見えました」
「だろうね」
老師は短く応じ、手元の薬研を動かす手を止めた。
「あんたが今まで妖精なしで魔力を動かせていたのは、もうその力が使えていたからだよ。自分で気づいていなかっただけで」
サリナは、じっと自分の右肩を見つめた。
そこに、かつて慈しんだ妖精の光はない。けれど、掌を流れる熱い拍動は、以前よりもずっと鮮明に世界と繋がっている。
「……すごい。妖精がいなくても、なんとかなるものなんだ」
小さく零れた声には、確かな根拠が宿っていた。
だが、サリナは知る由もなかった。
老師が背を向けたまま、目を見開いて硬直していたことを。
実のところ、「影の街なら妖精の加護なしで魔法が使える」などというのは、老師が咄嗟についた出鱈目だったのだ。
絶望に暮れる元令嬢を、せめて明日まで生かすための、中身のない優しい嘘。
魔力が使えずとも、薬草を刻んだり煤を払ったりする働き手としては重宝するから、死なない程度に希望を持たせておこう——その程度の、打算混じりの慈悲だった。
(……馬鹿な。あり得ん。あり得んはずだ)
老師は震える指先を隠すように、固く拳を握りしめた。
数百年、誰も成し得なかった「自立した魔法」。
欠陥品と蔑まれ、全てを剥ぎ取られたこの少女は、今、自力で世界の禁忌をこじ開けてしまった。
千年の時を経て、真実を視る唯一の眼が、この薄暗い工房で産声を上げていた。
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グリーンが来たのは、影の街に移ってから二週間後のことだった。
夕方の路地。工房からの帰り道、サリナは手に鍋を持ってぼんやり歩いていた。キャベツが余っているし、卵もある、ならスープにしようと考えながら足元の石畳の凸凹をよけていたら、曲がり角で誰かとぶつかった。
鍋を落としてしまった。
「すみません!」「こちらこそ」
顔を上げると、ひどく場違いな人間が立っていた。
騎士の訓練服。でも階級章はない。長身で、肩幅が広く、左の頬から顎にかけて細い傷跡がある。目の色は深い紺色で、こちらを真剣な顔で見下ろしていた。
「サリナ・アルティア子爵令嬢ですね?」
「はい、そうですが」
「私はグリーン・ヴァーンと申します。第三騎士団所属です。学園では同期でした」
サリナは彼のことを覚えていた。授業中は後ろの席にいて、魔法の実技は正確だが目立たないと言われていた人だ。
真視の眼で彼の守護妖精を見ると、深金色の光を放つ球体の内側の小さな人型が、何かを囁こうとしていた。でもグリーンの表情は変わらなかった。妖精の言葉が届いているのかいないのか、サリナには判断できなかった。
「どうしてここにいるのですか?」サリナは身構えて聞いた。
「サリナ嬢の様子を見に来ました」
「騎士団の命令でしょうか?」
「いいえ、個人の判断で来ました」
「あの……あなたの足元にある鍋を拾ってもらってもいいですか?」
「あ」グリーンは鍋を拾い、差し出した。「これで何を作るんですか?」
「スープにしようと思っていました」
「美味しそうですね」グリーンは笑顔で言った。
「普通ですよ」
「もしよかったら、食べてもいいですか?」
「卵があと一個しかないですけど」そのまま食べずに帰ってくれたらいいなと思いながら、サリナは言った。
「半分でいいです。お願いします」
こうしてサリナが折れ、グリーンは夕飯のスープを食べていった。
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騎士団に所属するグリーンが、なぜ学園にいたのか。
それを知ったのは、しばらく後のことだ。
グリーン・ヴァーンはヴァーン公爵家の三男だった。本来であれば、家の後継争いとも騎士団とも無縁に、公爵家特有の深金色の妖精を連れて学園を卒業し、どこかの貴族令嬢と婚約するはずだった。
しかし十四歳の時、国境で起きた騒乱に巻き込まれた。たまたま領地視察に同行していたグリーンは、王直轄の特務騎士団の隊長を庇って左頬に傷を負い、代わりに騒乱を一人で収めた。
それ以来、王直轄の特務騎士として動いている。学園への潜入も任務のひとつで、学園内外の不審な妖精の動きを観察するためだった。王都で彼に剣で勝てる騎士は、ほぼいない。深金色の守護妖精は公爵家の証で、その輝きは「黄金の騎士」と呼ばれたティーディーより格が上だった。
なぜそれを隠して動いているのか。サリナには分からなかった。でも聞かなかった。
グリーンは一週間に一度来るようになった。
サリナが失敗して炭になったものを一緒に食べた日もあった。
グリーンはそれも「一風変わって美味しいです」と言って食べた。
「本当にそう思っていますか?」
「サリナが作ったものなら、なんでも美味しいです」
「塩と砂糖を間違えてても?」
「はい。しょっぱいケーキでも、甘いシチューでも、なんでも美味しく食べます」
嘘はついていない、と感じた。グリーンとは、こういう人なのだろう。
ある日、市場を歩いた。グリーンが魚の値段を交渉している間、サリナはドーナツを一個買い、その場で食べた。
大きいドーナツだったが、お腹が空いていたので二口で食べた。
グリーンが戻ってきて、サリナの顔を見て、一瞬固まった。
「何でそんなに見てくるんですか?」
「……もしかして、何か甘いものを食べましたか?」
「食べましたけど、何か問題でも?」
「えっと、顔に粉がいっぱいついていて。このままだと顔がかぶれちゃいます」
「ああ、ドーナツの粉ですね。もう私は令嬢でないので、お気遣いなく」
グリーンは懐から布を出して、何も言わずにサリナの顔を拭いた。
サリナにグッと近づいてきて、真剣な顔で拭いた。
あまりにも真剣な顔をしているグリーンがなんとなくおかしくて、サリナは笑った。
グリーンも、ほんの少し、目の端に笑みが滲んだ。
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グリーンは不器用だった。でも、いつもとても真剣だった。
サリナの誕生日に花を持ってきたが、茎がとても短かった。
さらに新聞紙みたいなもので巻いてあって、新聞紙の塊をもらったと、最初サリナは思った。
でも花自体は、サリナが好きな白い野花を選んできていた。
魔法の練習で手の指が荒れていたら翌週に薬を持ってきた。
工房で疲れて眠そうにしていたら「今日は早く寝てくださいね」と言って帰った。
「ねえ」ある日、サリナは言った。「グリーンさんは私のことが好きなんですか?」
「そうですよ。今頃気づいたんですか?鈍いですね」
「え?鈍いとか、ど天然なグリーンさんに言われたくないんですけど。ちなみに、いつから好きでいてくれたんですか?」
「最初からですよ。初めて出会った時からです」恥ずかしそうに、グリーンは言った。
「もしかして、学園の時からですか?」
グリーンは少し間を置いた。
「そうですよ」
「私も、グリーンさんが好きです」とサリナは言った。
「ありがとうございます」
「…………なんか、ありがとうじゃないと思うんですけど」
「では何と言えばよかったですか?」困った顔でグリーンは言った。
「自分で考えてください!もう、知りません!」真っ赤な顔で怒ったふりをしながら、サリナが言った。
「…………嬉しいです。ずっとサリナが好きだったので。ずっとそばにいてください」
サリナは「よろしい」と笑った。
グリーンも、嬉しそうに笑った。
═══════════════════════════════════════
ポーションを完成させたのは、影の街に来て三ヶ月目だった。
守護妖精に頼らない魔法理論と、老師から学んだ薬草の知識と、『真視の眼』を組み合わせた特別な『魔力回復薬』だった。
妖精を失いかけた人間でも飲めば一時的に魔力が戻る。影の街では夢のような薬だった。
サリナの作った『魔力回復薬』を求めて、工房には行列ができた。
その評判が、王都にまで届いた。
しかしそれは、終わりの始まりだった。
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ある朝、工房に王都の検査官が来た。
三人だった。揃いの制服を着て、腰に証章を下げていた。そのうちの一人が持っていた書類を、老師の前に広げた。
「薬師組合による調査です。妖精の加護を持たぬ者が製造したポーションは、不純物混入の危険がある。ただちに製造を停止し、在庫を提出してください」
「調べてから判断してくれんか」老師は静かに言った。「不純物なんか入っていない。検査すれば分かる」
「いいえ。組合の判断が先です」とだけ言い残し、ポーションをいくつか手にして、王都の検査官は帰っていった。
三日後、結果が通知された。
『毒物認定』
そしてその翌日、王都の騎士が工房に来て、サリナを連行した。
---
牢は、石造りだった。
地下に作られた小さな部屋で、窓はなく、明かりは遠くの松明が廊下に投げる薄い光だけだった。
床は冷たかった。
サリナは壁に背をつけて座り、膝を抱えた。
怖かった。本当に怖かった。
学園で追放された時も、影の街に来た最初の夜も、こんなに怖いと思わなかった。
なんとかなる、と呑気に考えることができていた。
でも今回は、恐怖で体を動かせなかった。声を出すことも怖くてできなかった。
牢の中の暗闇と自分が交わって、一つの暗闇になってしまう想像を何度もした。
サリナは冷たい床に座って、ただ膝を抱えて固まっていた。
廊下の向こうで、看守が話し声を立てていた。内容は聞こえなかった。でも笑い声だけが、断片的に届いた。
真視の眼で、廊下の向こうにある看守の守護妖精を見た。橙色の球体の内側の人型が、看守の耳元で何かを囁いている。「お前の仕事は正しい」「あの女は危険だ」「気にするな」と。
あの看守は妖精の囁きに従っているだけだ、と分かっていた。
でもそれが、少しも慰めにならなかった。
暗い牢の中で、一日が過ぎた。
食事は一日一回、乾いたパンと水が運ばれた。パンは硬かった。サリナは食欲がなかったけど、全部食べた。食べなければ、すぐに死んでしまうと思ったから。
二日が過ぎた。
暇すぎて天井の亀裂を数えた。三十七本あった。数え直した。やはり三十七本だった。
もう一度数えた。
三十七本だった。
三日が過ぎた。
怖さは、いつの間にか怒りに変わっていた。
私は人を助けようとしただけだ。妖精の恩恵が届かない場所で、妖精なしで魔力を動かして、苦しんでいる人たちのためにポーションを作った。それが毒だと言われた。
毒じゃない。私は知っている。調べれば分かる。でも調べる前に決めた。
誰かが動いた。
誰かが、私をここに閉じ込めることを決めた。
その「誰か」の守護妖精が、今頃どこかでにやにや笑いながら舞っているのが、なんとなく見える気がした。
四日が過ぎた。
怒りは、また別のものに変わった。
疲労だった。
体が重かった。思考がうまく動かなかった。何かを考えようとすると、途中で霧の中に消えていった。
グリーンのことを思った。
来てくれるだろうか。でも来られるだろうか。来てくれたとして、どうにかなるだろうか。
考えても答えは出なかった。霧の中に消えていった。
五日が過ぎた。
ただ、天井を見ていた。
三十七本の亀裂が、薄暗い光に縁取られ、沈黙を深めるように横たわっていた。
---
一週間後に老師が保釈金をなんとか集めて出してくれた。
鉄格子の向こうから、聞き慣れた足音が近づいてきた。グリーンが迎えに来てくれたのだ。
重い扉が開いた。サリナは立ち上がろうとしたが、一瞬、視界がぐらりと揺れた。五日間、ほとんど動かさなかった足はひどく痺れ、差し込んできた光が痛いほどに眩しい。
「無事か、サリナ……?辛かったですよね?もっと早く来たかったんですが、すみません」
駆け寄ったグリーンが、倒れそうになる肩を支える。その手の温かさが、非現実的だった世界にサリナを繋ぎ止めてくれた。
「大丈夫……。来てくれて、ありがとう」
グリーンは痛ましげに彼女を見つめ、それから、何かを飲み込むように小さく吐息をついた。
「……お腹も空いていますよね? 帰ったら、温かくて美味しいものを腹いっぱい食べましょう」
それ以上言葉は交わさなかった。けれど、その温かさを胸いっぱいに感じた。
牢を出ると、空が驚くほど広かった。
つい先日までは当たり前だった風景が、今は震えるほどに尊い。
サリナは言葉を忘れ、しばらく空を見上げ続けた。グリーンは急かすこともなく、ただ隣で静かに寄り添ってくれている。
(グリーンがいてくれて、よかった。)
サリナはそう思って目を閉じた。
---
工房に戻ると、老師がお茶を淹れてくれた。
何も言わなかったが、その手はわずかに震え、背後ではグリーンが深く安堵の溜息をついた。
サリナは両手で茶碗を包み、一口飲んだ。
カップから伝わる熱が、言葉のない『おかえり』のように感じられた。
ただそれだけのことが、視界を熱く滲ませた。
---
次は魔獣だった。
影の街の外れに「灰色熊」が迷い込んだのは、保釈から五日後のことだった。
正規の騎士団は「灰色熊」の討伐に来なかった。
影の街に正規の騎士団が来ることは、ほとんどない。壁の外の話には、王都は関わらない。そういうものだった。
路地を逃げる人々の声が聞こえた。老師の工房の戸を誰かが叩いた。「助けてくれ」という声だった。
サリナは急いで外に出た。
灰色熊は、路地の突き当たりで立ち上がっていた。全長は二メートルを超えていた。怒っているのか、あるいは迷い込んで混乱しているのか、大きな鼻面を振り立てながら唸っていた。
周囲に人はもういなかった。逃げた後だった。
サリナは手の中に魔力を集めた。
「真視の眼」で魔獣の魔力の根源を直接掴む。妖精なしの術式で、流れを制御する。ポーションを何十本も作り、牢の中で五日間じっとしていたけど、でもこの身体の中で魔力は動いている。
足の震えを、抑え込むことができない。
怖かった。目の前にあるのは、ただの敵ではない。触れれば容易く圧し潰される、死そのものの塊だ。
その大きさと重さに、呼吸の仕方さえ忘れそうになった。
やるしかなかった。やらなければ、待っているのは一方的な蹂躙だ。
張り詰めた緊張の糸を指先に集め、一気に術式を解放する。
魔獣の動きが止まった。その隙を逃さず、サリナは誘導の糸を紡ぎ続けた。
じわじわと、泥の中を進むような足取りで、巨体を街の外へと押し出していく。
全身から噴き出す汗が視界を遮り、膝ががくがくと震えた。魔力が削り取られるたび、体の芯が空洞になっていくような、凄まじい喪失感に襲われる。
それでも、意識を繋ぎ止めた。
やがて魔獣が大きく身震いし、地響きと共に路地を抜け、壁の外へとその姿を消した。
――世界から、暴力的な地響きが消えていった。
サリナは糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。
地面はひどく冷たかった。
けれど、その冷たさが心地よかった。立ち上がる力は、一滴も残っていなかった。
---
翌朝。
路地に出ると、誰かが遠くでサリナを見て、さっと視線を逸らした。
嫌な予感がした。
工房に戻ろうとした時、前から近所の中年の男が歩いてきた。サリナと目が合った。
男は立ち止まり、こちらをじっと見てから言った。
「あんたが昨日の魔獣を、呼んだのか?」
「呼んでいません。私は魔獣を追い払いました」
「そういうふうには見えなかったな。妖精もない女が、あんな大きな魔獣をひとりで追い払えるわけがない」
サリナは黙った。
「妖精なしで魔法を使うなんて、まともじゃない。魔獣と話でもできるんじゃないか?」
「魔獣と話なんて、できません」
「そうに違いない。ああ、不吉だ」
男は吐き捨てるように言って、行ってしまった。
次の日も、同じようなことがあった。
井戸で水を汲んでいると、後ろで女たちが話しているのが聞こえた。
「あの子、また工房で変なことやってるらしいよ」
「妖精もないのに魔法って、どういうこと?」
「気味が悪い。魔獣を引き寄せる体質なんじゃないの?」
サリナは水を汲み終えて、静かに立ち去った。
振り返らなかった。
---
石が飛んできたのは、三日後だった。
工房に向かって歩いていると、路地の角から小石が飛んできた。足元に落ちた。最初は偶然かと思った。
二個目が飛んできた時、偶然ではないと分かった。
路地の暗がりに、子どもが三人いた。十歳前後だろうか。こちらを見ていた。その目に、怯えと、悪意と、徒党を組むことで膨れ上がった歪な強気が混ざっていた。
「魔獣女!」
誰かが叫んだ。三人のうちの誰かだったが、特定できなかった。
三個目の石が来た。今度は少し大きかった。肩に当たった。鋭い痛みが走った。
サリナは立ち止まった。
怒鳴ろうとした。でも声が出なかった。子どもたちを見ていたら、その背後にある守護妖精の光が見えた。小さな球体の内側で、人型の影が子どもたちの耳元に口を寄せていた。
「あいつは危ない」「石を投げろ」「みんなそうしている」
妖精の囁きに従っているだけだ、と分かっていた。
だから余計に、腹が立った。
自分では何も考えず、妖精の声のまま石を投げている。その石が誰かに当たっても、痛くても、それが不当であっても、妖精がそう言っているから正しいのだと思っている。
サリナは石を拾わなかった。投げ返さなかった。
ただ歩いた。
四個目の石が背中に当たり、痛かったけど歩き続けた。
工房に入って扉を閉めてから、初めて肩をさすった。じんじん痛んだ。痣になるかもしれなかった。
老師は奥で薬草を刻んでいた。何も言わなかった。サリナも何も言わなかった。
ただ作業台に座って、しばらくじっとしていた。
---
その夜、老師の工房の窓ガラスが割れた。
石が飛び込んできた。砕けたガラスが床に散らばった。外で誰かが走り去る音がした。
老師は立ち上がって、割れた窓を見た。
「すみません」サリナは言った。「私のせいです」
「あんたのせいじゃないよ。気にしないでいいから」
「でも」
「妖精の声に従っている連中のせいだ」老師は静かに言った。「あんたのせいじゃない」
サリナは、散らばったガラスを片付けた。
余計な思考を遮断するように、ただ黙って、一枚一枚を拾い集めていく。
ふとした拍子に、鋭い破片が指先を裂いた。
じわりと赤い血が滲み出し、透明なガラスの上に小さな斑点をつくる。
サリナは、その赤をただ見つめていた。痛みは遠く、自分の指ではない何かを見ているような、ひどく冷めた心地だった。
老師は何も言わなかった。ただサリナの横に膝をつき、節くれ立った大きな手で、残りのガラスを静かに拾い始めた。
---
その夜、サリナは泣いた。
久しぶりに、泣いた。老師の工房の奥で、膝を抱えて、声を殺して泣いた。
何が悲しいのか、何が辛いのか、うまく言葉にできなかった。
ただ全部が、積み重なって、もう重かった。
追放。投獄。石。割れた窓。助けたのに「魔獣を呼んだ」と言われた。信じてもらえなかった。正しいことをしたはずなのに、正しいと認めてもらえなかった。
妖精の声に従っているだけの人たちに、妖精の声を信じられない私が、ずっと追われている。
疲れた。
本当に疲れた。
でも、泣き終わったら、明日また工房に行くのだろう。それも分かっていた。
どこにも行かなかった。ただそこにいた。
しばらくそうしていたら、窓がノックされた。
グリーンだった。夜中にサリナを心配して来てくれたのだった。
---
「……どうして、来たんですか?」
縁が赤く腫れた目で、サリナは絞り出すように尋ねた。
「サリナのことが気になって。……足が勝手に向いてしまったんです」
グリーンは困ったように、けれどどこまでも穏やかに微笑んだ。
「……外に、出られますか?」
「どこか、行きたい場所があるんですか?」
問い返されたサリナは、少しだけ視線を彷徨わせた。
「どこでも。ただ、遮るもののない空が見たいの」
二人は梯子を伝い、屋根にあがった。
見上げた夜空には、数え切れないほどの星が散らばっていた。
守護妖精が放つ意図を持った輝きとは違う、ただの、名もなき星々。
それはずっと昔からそこにあって、解釈も、囁きも、いかなるフィルターも通さない、ただの光だった。
「……悔しいです」
震える声が、夜の静寂にこぼれた。
「そうですよね」
隣に座るグリーンは、ただ前を見つめたまま答えた。
「助けたのに、追い立てられました。石を投げられて、窓を割られて……。妖精の声に従っているだけの人たちに、何もかもを押しつけられたんです」
口にするたび、抑えていた感情が尖った棘となって胸を刺す。
「……そうですね。辛いですよね」
肯定するグリーンの声は、どこまでも穏やかで、揺るぎなかった。
「理不尽だと、思います。……どうしても」
「そう思うのも、無理はありません」
彼はサリナの怒りも、悲しみも、否定せずにそのまま受け止めた。
サリナは深く、長く、溜めていた息を吐き出した。
「……ありがとう。来てくれて」
グリーンは何も言わなかった。ただ、肩に外套をかけてくれた。
夜空が、ゆっくりと動いていた。
「私は」グリーンは空を見ながら言った。「サリナが正しい評価を受ける場所に、必ず連れて行きます」
「そんな場所あるんでしょうか?」
「私が作ります。私がサリナを守ります」
揺れない声だった。炎みたいな、静かで確かな声だった。
サリナはしばらく空を見ていた。
なんとかなる、とまた思った。今度は、違う根拠があった。
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学園の創立記念祭の日が来た。
あの日、すべてを奪われ追い出された場所。
未練などないはずなのに、サリナはここ一ヶ月、吸い寄せられるように学園の見える丘へと足を運んでいた。
遠く霞む学び舎を「真視の眼」で凝視したとき、最初に見えたのは、かつての級友たちの華やかな魔力ではない。空を裂くほどにどす黒く、肥大化した異様な光の柱だった。
それは、リリアの肩で甘くささやく「魅惑の妖精」が放つ術式だった。
フィルターを通さない剥き出しの視界で捉えたその姿は、周囲の羨望と称賛を際限なく吸い込み、どろどろに腐り果てた怪物の成れの果てだった。
(……もう、持ち堪えられないだろう)
他者の心を強引に捻じ曲げ、愛を奪い取る代償。その術式はとっくに限界を超え、内側から爆発する寸前の悲鳴を上げている。
それが弾けたとき、学園がどうなるか。
サリナは、その結末をこの眼で確かめる義務があると感じていた。
「本当に行くのですか?」
「ええ。あの妖精に何かあるとすれば、創立記念日の今日だと思うの」
「創立記念祭は、全校生徒と来賓が一堂に会す、一年で最も人が集まる日だから」
隣を歩くグリーンは、サリナを引き止めなかった。
追放された身で戻れば、どんな扱いを受けるか分かっているはずなのに。
彼はただ「気をつけてください。私も一緒に行きます」とだけ短く告げ、当然のようにサリナの影に寄り添って歩き出した。
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リリアが「聖女」と本格的に呼ばれるようになったのは、今からから二ヶ月前のことだった。
きっかけは、学園の礼拝堂で起きた「奇跡」だ。
礼拝中、リリアの「魅惑の妖精」が放つ淡いピンクの光が天井一面に広がり、その場にいた全員が「えも言われぬ至福」を感じた、と証言した。
妖精師が鑑定し、「高位の加護による神聖な発現」と認定した。
その翌週には学園中に噂が広まり、一ヶ月後には貴族社会にまで届いていた。
実際には、「魅惑の妖精」が礼拝堂という密閉空間で術式を過剰放出しただけだった。
真視の眼があれば、それは一目で分かる。けれど誰もそれを持っていなかった。
聖女という肩書きは、リリアへ向けられる感情の量を何倍にも膨らませた。
人々は彼女に憧れるだけでなく、祈るように見上げるようになった。
羨望は崇拝に変わり、崇拝は「魅惑の妖精」の養分となって、際限なく術式を肥大させていった。
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サリナ達が大広間へ足を踏み入れたのは、式典が始まってしばらく経った頃だった。
加護を失い、存在の「光」を欠いた女は、人々の意識に引っかからなかった。
まるで透明な幽霊にでもなったかのように、サリナは誰にも気づかれず会場の端に立ち、壇上のリリアを見据えた。
予想通りだった。いや、それ以上だ。
祝祭の拍手が最高潮に達し、人々の熱狂がリリアへと注がれたその瞬間。
歓呼の絶頂で、それは起きた。
「魅惑の妖精」が、パンパンに膨らんだ。
もともと他者の感情を捩じって操るこの妖精は、対象が少なければ均衡を保てる。
けれど「聖女」となったリリアへ今夜向けられた感情は、数百人分の崇拝だった。
羨望、恋慕、信仰に近い熱狂——それら全てが妖精を経由して増幅し、リリアへと返し続けた。
この二ヶ月間、術式は肥大し続け、今日この瞬間、その器がついに音もなく崩れた。
「真視の眼」で見るサリナには、その瞬間がくっきりと見えた。
リリアの肩の球体に、内側から亀裂が走った。亀裂の隙間から、おびただしい量の術式が黒煙のように噴き出している。淡いピンクだったはずの光は今や黒みがかった紫に変色し、脈打つたびに不規則に明滅していた。
球体の内側の小さな羽の生えた人型の妖精は、もはや「心を操る」という行為をやめ、羽をばたつかせながらただ絶叫していた。
その叫びが目に見えない波となって会場に広がり、人々の耳の奥へ強引に滑り込んでいく。
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会場の端から、パニックが連鎖した。
フィルターが歪むとき、人はまず「ちぐはぐな感覚」から気づく。
さっきまで美しく見えていた人が、急に別人のように見える。
好意だと思っていた感情が、根拠のない霧のように消えていく。
そして少し遅れて——隠れていた感情、飾られていない表情、誤魔化されていた印象が、全部剥がれて現れる。
「……あれ、私、なんでここにいるんだっけ」という声が、どこかから上がった。
それが引き金だった。
リリアの顔から血の気が失せ、石膏像のように白く染まっていく。もう自分自身ですら、その肩で嗤うモノを制御できていない。
ティーディーの悲鳴が上がった。
「リリア! お前は聖女だ、美しくあれ!」
けれど、『魅惑の妖精』はすでに理性を失い、際限なく肥大している。その叫びは、どろどろに濁った狂気の中へ、虚しく吸い込まれて消えた。
サリナは会場の中央へ歩いた。誰も気づかなかった。
サリナは両手を天に掲げ、「真視の眼」で魔力の根源を真っ直ぐに掴んだ。
この半年、指先が凍える夜も、石を投げられた日も、ただひたすらに編み続けてきた術式を――今、一気に解放する。
溢れ出したのは、光だった。
それは太陽のような熱も、妖精のような眩惑も持たない、もっと静謐な何か。
しんしんと雪が降り積もる朝、夜明け前の空がうっすらと白み始める、あの吸い込まれるような薄青い光だ。
揺らがず、媚びず、すべてをあるがままに照らし出す――千年もの間、闇に封じられてきた「真視の光」。
耳を埋め尽くしていた甘い囁きが、ふっつりと止まった。
訪れたのは、暴力的なまでの静寂だった。
人々は、ただ、互いの顔を見た。
フィルター越しの偶像ではなく、剥き出しの、ただの人間として。
宙を漂う守護妖精たちの、本当の姿が同時に、露わになった。
光る球体が、透けて中が覗けた。
内側にいたのは、羽を持つ小さな人型の影だった。
掌に乗るほどの体躯で、くるくると忙しなく飛び回りながら——人の耳元に、口を寄せていた。
その妖精の顔を、人々は見てしまったのだ。
細く吊り上がった目。薄く引き伸ばされた唇。人間に似ているのに、どこか根本的にずれている、気味の悪い顔だった。
嘲るような、値踏みするような、獲物を前にした捕食者のような——そういう表情で、親しげに耳元で囁きながら、ちらりとこちらを見て、また不気味に笑った。
ある妖精は、仲の良かった友人の耳元で「あの子はあなたを妬んでいる」と繰り返しながら、その顔に浮かぶ傷つきの表情を、うっとりと眺めていた。
ある妖精は、恋人の隣で「この人はいずれあなたを捨てる」と囁きながら、滲む不安を舌なめずりするように味わっていた。
また別の妖精は、おっとりした顔で「お前は正しい、みんなが間違っている」と吹き込みながら、持ち主がそれを信じる瞬間に、満足そうに目を細めた。
妖精たちは人々の反応を楽しんでいた。
それが日々繰り返されていることを、人々は理解してしまった。
人々は声を失った。
自分の肩を見た。自分の耳元で囁きながらくるくると動いている妖精の実体を、「見てしまった」。
守護してくれていると信じていた存在が、羽をはためかせながらこちらを見返し——ゆっくりと、その細い目を、弧を描くように細めた。
悲鳴を上げ、多くの人がよろめいた。両手で耳を塞ぎ、「嘘だ」と叫ぶ人もいた。
誰もが息を呑んだ。「守護」してくれていると思っていた存在の、本当の顔を見た瞬間だった。
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リリアがは、床に座り込んで泣いていた。
暴走した妖精は、嘘をつく理由を消してしまう。彼女は泣きながら、自分がやってきたことを全部しゃべった。ポーションを毒と偽るよう検査官に頼んだこと。魔獣をサリナが呼んだと見せかけるために結界を操作したこと。サリナの追放令を出すよう学園理事に圧力をかけたこと。全部を。
「え……この子、こんなに性格悪かったの?」
「魅惑の妖精がなかったら……ただの腹黒い人じゃないですか」
「サリナさんを嵌めたって……全部嘘だったの?」
リリアは床の上で、もう美しくなかった。魅惑の妖精の加工がなければ、彼女はただの、恐怖と後悔で泣き崩れた人間だった。
ティーディーは硬直していた。妖精のフィルターが消え、ただの現実が見えている。そこにあるのは――彼が「聖女」だと信じて新しく婚約者にした女が、自分の元婚約者を嵌め、冤罪を作り、追放までさせた事実だった。
「俺は……俺は、何を……」
サリナはティーディーの前に立った。対等な高さで。
「あなたは妖精の声を信じた。それはあなたが選んだことです」
「だが、俺は……リリアを、本物だと……」
「そうね。でも、それも今日までのことだわ」
ティーディーの顔が崩れた。サリナは踵を返した。振り返らなかった。
重い扉を押し開けると、そこには、いつものようにグリーンが立っていた。
「……終わりました。全部」
サリナがそう告げると、彼は深く、慈しむように頷いた。
「帰りましょう」
差し出されたその言葉に、胸の奥に溜まっていた最後の熱が、ふっと解けていく。
「……はい。帰りましょう」
二人は肩を並べ、静かな学園の廊下を歩きだした。
開け放たれた窓からは、突き抜けるような秋の空が見える。
それはフィルターも、囁きも、濁りもない、澄み渡った青。
ただ広くて、どこまでも高い、「ただの空」だった。
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半月後、ティーディーが影の街に来た。
工房の前でグリーンと鉢合わせたらしく、二人は無言で向かい合っていた。グリーンは腕を組んで、扉の前に立っていた。通せんぼというより、岩が立っている感じだった。
サリナが出てきて、まず気づいたのはティーディーの顔だった。やつれていた。「黄金の騎士」の光はなかった。ただの、少し疲れた男がいた。
「サリナ。話を聞いてほしい」「どうぞ」
「……全部、俺が間違っていた。リリアに騙されていた。お前を追放したのも、欠陥品などと言ったのも、俺の判断だ。今となっては分かった、お前がどれだけのことをしていたか」
「真視の眼の術式は王室から正式に認められた。お前のポーションの需要は王都の貴族の間にも広がっている。お前の価値を、俺は最初から見誤っていた」
価値。その言葉を、サリナは心の中で転がした。
「つまり」
サリナは、感情を削ぎ落とした声で言った。
「私が『使える駒』だと分かったから、ここへ来たんですか?」
ティーディーの顔が、目に見えて強張った。
「そういうつもりじゃ、ない。俺はただ――」
「じゃあ、どういうつもりですか?」
遮る言葉に、一切の容赦はなかった。
「……やり直せないか、と思って」
彼の表情に嘘はなかった。本気で後悔している。本気で、そう思っているように見えた。
だから、余計にきっぱり言えた。
「無理です」
「サリナ――」
「聞いてください」サリナは言った。「あなたが妖精の声を信じたのは、あなたの選択です。全校生徒の前で、私が欠陥品だと言ったのも。婚約を破棄したのも、全部。でも、私はそれを許します。」
サリナはまっすぐ彼を見た。
「許しますが、あなたのところには戻りません」
ティーディーの目が揺れた。
サリナはグリーンを振り返った。グリーンは相変わらず岩みたいに立っていた。でも、ほんの少しだけ、目の端が柔らかかった。
「それが、あなたへの答えです」
ティーディーは、しばらく動かなかった。それから、静かに頭を下げた。
「……分かった」
彼は力なく踵を返し、薄暗い路地の向こうへと消えていった。丸まった背中はひどく小さく、あの大広間の壇上で、万雷の拍手を浴びていた「黄金の騎士」の面影はもうどこにもなかった。
静寂が戻った路地に、穏やかな足音が近づいてくる。
グリーンが、サリナの隣にそっと寄り添った。
「……もう関わることは、ないでしょう」
サリナがぽつりと零すと、グリーンは何も言わず、大きな手で彼女の頭を優しく撫でた。
子供をあやすような、けれど慈しみに満ちたその掌の温度が、強張っていたサリナの心をゆっくりと解いていく。
「お疲れ様。よく頑張りましたね、サリナ」
その一言に、肩の力がふっと抜けた。
かつての仲間に決別を告げた痛みも、これまで一人で抱えてきた重荷も、その温もりの中に溶けて消えていくようだった。
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それから半年が経った。
サリナの研究――「真視の眼」の術式の復元――は王室に認められ、学園の魔法教育が見直されることになった。妖精は魔法の唯一の源泉ではない、という事実が、この世界に初めて公式に認められた瞬間だった。
リリアは学園を去った。ティーディーは降格処分を受け、「黄金の騎士」の称号を剥奪された。薬師組合の不正は解体され、老師の工房は影の街の公認研究所になった。
サリナは学園に戻った。今度は、自分の研究室を持って。
春になった。学園の中庭に花が咲いた。白いルーナリア、青紫のフォスファ、小さな黄色いミリア。
グリーンは、研究室に頻繁に来た。相変わらず不器用だった。
彼は「甘いものが好きだと聞いたから」と、真剣な面持ちで包みを差し出してきた。けれどそれは、子供がお祭りなどでいたずらに使う、パチパチする刺激的なキャンディーだった。
「……グリーンさん、このお菓子、パチパチして痛いです」
「え。まさか……本当だ。すまない、パッケージが可愛くて、美味しいと思ってしまったんだ」
耳の端を少し赤くして、彼は申し訳なさそうに視線を泳がせた。
研究が行き詰まり、机に突っ伏して唸っていた夜のこと。背後からそっと差し出されたのは、本物の白猫だった。
「……え?この子ぬいぐるみじゃなくて生きてますよね?どうやって連れてきたんですか?」
「猫は癒しだという話を聞きまして……執事の飼っている猫を借りてきたんです。どうですか?癒されますか?」
「癒されます……。でも、研究室にペットを入れるのは禁止ですよ」
十五夜の晩、月見をしようと誘った時には、彼は軍用の双眼鏡を携えて現れた。
「サリナに素敵な月を見てもらいたくて、一番いいものを持ってきました」
「月は観察じゃなくて、ただ眺めるのがいいんですよ。……ほら、隣に座ってください」
差し出されるものは、いつもどこか的外れで。
けれど、そのどれもが私のために、彼が頭を悩ませて選んでくれたものだった。
全部、おかしくて、トンチンカンだった。
――そして、全部が、愛おしくて嬉しかった。
ある夕方、グリーンは研究室の窓際に立って、外の空を見ていた。夕焼けが橙から紫に染まっていくのを、黙って眺めていた。横顔に古い傷跡が薄く光った。
ああ、私はこの人のことが好きなのだ、とサリナは思った。
ただ、それだけのことだった。何の魔法も、特別な理由もいらない、あまりに簡潔な事実。
けれどそれは、どんな複雑な術式よりも、揺るぎなく、確かなものだった。
---
三日後の夜、グリーンが「丘の上へ行こう」と言った。
学園の裏手の丘。夏草が膝の高さまで茂っていて、歩くたびに青い匂いが立つ。頂上に着いた時、風が来た。草が一面に揺れた。最初の星が一つ、また一つと灯り始めていた。
「私は」
グリーンが、静かに、けれど決然と言葉を紡いだ。
「あなたを正しい場所に連れて行くと約束しました。……それは、実現したと思っています」
「……はい。ありがとうございます」
「次は――」
「次は?」
問い返すサリナを真っ直ぐに見つめ、彼は一歩、距離を詰めた。
「あなたともっと幸せな場所へ、一緒に行きたい。……そう思っています」
ふわりと、草原を撫でる風が吹き抜けた。
緑の波がざわめきながら、なだらかな丘を下っていく。
「……次は、俺自身のわがままを言わせてください」
グリーンは、サリナの震える両手をそっと大きな掌で包み込んだ。その手は驚くほど温かく、そして、彼もまた緊張しているのか、わずかに強張っているのが伝わってくる。
「あなたの研究室の隣に、私の居場所をください。……いえ、それだけでは足りない」
彼は一度言葉を切り、意を決したようにサリナの瞳の奥を覗き込んだ。
「一人の男として、あなたの生涯を隣で守らせてはもらえませんか。……私を、あなたの夫にしてください」
ふわりと、再び草原を撫でる風が吹き抜けた。
緑の波が今度は丘を駆け上がり、どこまでも高い秋の空へと溶けていく。
サリナは、瞬きをするのも忘れて彼を見つめた。
視界が熱く滲み、世界が鮮やかな色を取り戻していく。
「……今の言葉は」
サリナは、かすれた声で問い返した。
「私への、求婚に聞こえますが」
グリーンは照れたように、けれど逃げずに力強く頷いた。
「そうです。……そのつもりで、言葉を選びました」
長い、沈黙があった。
草原を渡る風の音だけが、二人の間を通り過ぎていく。
サリナは、潤んだ瞳でじっと彼を見つめ返し、それから悪戯っぽく、けれど慈しむように微笑んだ。
「……いいですよ。私の隣、空けておきますね」
その言葉に、グリーンは憑き物が落ちたような、心底安堵した顔を見せた。
今度は、二人の新しい時間が静かに動き出すための、祝福のような沈黙が流れた。
夏の夜空が広がっていた。守護妖精のまやかしではない、ただの星が、数えきれないほどの光となって降るように輝いていた。
白いルーナリアが、夜風に透けて気持ちよさそうに揺れた。
---
次の日の夜、研究室に戻ると、グリーンが椅子で眠っていた。
珍しいこともあるものだなと、サリナはしばらくその寝顔を眺めた。普段は整った顔が、眠っている時だけ少し幼く見える。左頬の傷跡が、燭台の灯りに薄く照らされていた。
毛布を取りに立ち上がりかけた、その瞬間。
……聞こえてしまった。
聞くつもりはなかった。けれど、静寂がそれを許さなかった。
グリーンの深金色の妖精が、ゆらりと揺れた。球体の内側で、人型の影がうっとりと口を動かしている。
『サリナは、お前に従順で、お前の欠点を全て許してくれる、都合の良い女神だ』
サリナは動きを止めた。毛布を抱えたまま、影のように立ち尽くす。
眠るグリーンの肩口で、妖精がくすくすと笑った。その声は、かつてリリアの肩で嗤っていた怪物と、驚くほどよく似ていた。
グリーンは眠り続けている。穏やかな顔で、規則正しく息をして。
あの日、炭になった料理を笑って食べた時も。
牢の外で、真っ先に駆け寄ってくれた時も。
丘の上で、一生懸命に求婚してくれた時も。
妖精は、ずっと、こう囁いていたのだろうか。
そして彼は、その声をどんなつもりで聞いていたのだろうか。
妖精の声に従っていたのだろうか。
サリナは、そっと燭台に手を伸ばした。
「……そう」
小さく零れた呟きが、誰に宛てたものかは分からない。
サリナが指先で芯をなぞると、燭台の火は呆気なく消えた。
視界から光が失せ、部屋に完全な闇が訪れる。
真実を視る唯一の眼だけが、暗闇の中で、静かに開かれていた。
ーーおしまいーー




