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鈴虫涼子

作者: 蓮池桜
掲載日:2026/03/04

「痛い!」インターホンに出ようとしてソファから勢いよく立ち上がった瞬間、涼子の足の裏に鋭い痛みが走った。再び座り込み痛みをこらえながら傷を確かめる間もインターホンは執拗になり続けている。こんな鳴らし方をするのは大抵ろくでもないセールスか新聞の勧誘だ。両親はすでに他界しているし、涼子に荷物を送って来る知人もいない。ネットで買い物もしない、個人情報が見えない巨大な網に絡め取られ身動き出来なく成りそうで好きでは無い。生身の人間との関わりも避けがちな涼子は、要するに臆病なのだ。インターホンは放っておく事にして、足の裏をまじまじと眺めて眉をしかめた。親指の付け根に刺さり血を滲ませた犯人は隆の固い爪だった。いくら下に新聞紙を広げて欲しいと頼んでもオットマンに足を乗せて爪を切り、そこら中に爪を飛ばしてしまう。その度に辛抱強く隆が爪をきり終えるのを待ち丹念に掃除機をかけなければならなかった。欠点と言える程では無いけれど、一緒に暮らした数ヶ月、彼を非難出来る数少い悪癖だった。隆が出て行って何週間も過ぎて、ようやく隆の不在に慣れ彼に繋がる物は全て処分し何も残っていないはずだった。それが不意にこんな形で痛みを伴い不在を主張するなんて、毛足の長いラグに潜み何日も静かに機会を狙っていたのだろうか。

 隆と出会ったのは雨の夜。書道の稽古の帰り道地下鉄の改札を抜け外に出た涼子が強い雨脚に驚いてタクシー乗り場に向かって走り出した瞬間だった。

普段なら路線バスでのんびり帰るのだが、その夜は苦心して書き上げた展示会用の作品を雨で濡らしたく無かった。大切に胸に抱えた作品の包みを隆とぶつかったはずみで濡れた歩道に落としてしまった。小さな悲鳴を上げて、慌ててしゃがみ込んで包みを拾う涼子を何人かの通行人たちが振り返った。

 隆はうろたえて詫びを繰り返したが、涼子はそれに応えず包みを拾ったが、すっかり水をすったそれは中の作品が絶命したのを物語っていた。幾ら技巧を凝らしても二度と同じ物は書けない、その時の心の有様、筆を運ぶ勢い、息づかい全て一筆一筆に現れてしまう。師範に「大体よろしいでしょう、けれど、もう少しだけ書いてご覧なさい。」そしてようやく褒められた作品が、雨の歩道で息絶えてしまい、この何か月かの苦労が水の泡になってしまった。放心している涼子に隆は「すみません、大丈夫ですか?」と声をかけた。その声でようやく我に返ったが答える気力も無く、丁度着いたバスに乗り帰宅した。濡れた包みを放り出し化粧も落とさずベットにもぐり、そのまま眠ってしまった。展示会の作品は何とか気を取り直して書き上げたが、それはもう情熱を失い覚めた文字で、やはりあの雨の日に台無しにしてしまった文字達を蘇らせる事は出来なかった。師範は明らかに違う作品を見ても何も問わないでいてくれた。常に寡黙で自己主張をしない涼子の心の機微に静かに感応し優しく指導する師範を慕っていた。一度「貴女なら、師範としての実力は充分よ、子供達を教えて見ない?」と問われたが涼子は震えて断った。内心とんでもない人と関わるのさえ億劫で不器用な自分が子供を教える等到底無理だと思った。幼い時から大人しい性格で、わがままを言ったり泣きわめく事が無かった。人と競ったり自分を主張するのが苦手な涼子に取って、退屈で孤独な日常を癒してくれるのが書道だった。だが書道を始めたのは涼子の意思ではなく、母のすすめで何となく抗いもせずであった。性に合っていたようで成人した今も続いている。父は腕の良い鳶職人で、暮らし向きは悪く無かった。仕事から戻ると玄関の上がりがまちに腰を下ろし「おい!」と母を呼ぶ。母は弾かれたように出迎え、父の地下足袋を脱がせ桶に用意した湯で丹念に父の足を拭き浄める。少しでももたついて父を持たせると容赦なく罵声を浴びせた。母の白い腕が父の足に蔦が絡む様に動く様子を涼子は見てはいけないものを見ている気がしたが、毎日夕まぐれの薄暗い玄関で繰り返されるその儀式を見ずには居られなかった。父の視線はかがんでいる母のうなじにじっと注がれていた。艶めかしいエロティックと言う言葉は幼い涼子の語彙には無かったが、今思い出しても、夕まぐれの妖しい空間で丹念に父の足を拭く母の姿に耳たぶまで紅潮してしまうのだ。職人気質の父は詰まらない事でも激高し母の頬を打った。母は決して抗わず消え入る様な声で「すみません、堪忍して下さい。」と繰り返した。父の罵声から逃れて台所に立ち、怯えた涼子も母の足元に膝を抱えて息を潜めた。抱えた膝に雨だれが落ちる様に母の涙が落ちた。見上げると母は肩を震わせて声を出さずに泣いていた。泣き声を立てると「うるさい!」とさらに怒りを買うからだ。涼子も泣きべそをかいたが決して声は立てなかった。母は「ごめんね、大丈夫だから」と幼い娘にまで詫びを繰り返した。母の頬を打った夜、父はまるで何か帳尻を合わせるかの様に母を抱いた。夜中に襖を隔てて大きく空気が揺れる気配に目を醒ますと、隣で寝ているはずの母の姿はなく隣室から布の擦れ合うかすかな音と鈴虫の泣き声…。涼子には隣室で何が起きているか理解出来なかったが、身じろぎもせず母の不在に耐えた。そうしなければいけない気がしたのだ。しばらく我慢すれば又眠りにつける、そのまま動かずにいると小さな鈴虫の鳴き声が途絶え、父の野太い声が「愛想のねぇ女だな、面白くねぇ」とつぶやくのが聞こえた。鈴虫の鳴き声が聞こえた翌朝は母が台所で食事の支度をしながら周囲をはばかるように小さな声で鼻唄を歌っていた。明るい唄声では無かったが、涼子は母の機嫌が良く幸せそうに見えて嬉しかった。父は涼子にも気まぐれに接した。ほろ酔いで帰宅した日など無遠慮に膝に抱き、無精髭の生えた顔を涼子の柔らかな頬に擦りつける

ざらついて痛かったが、黙って耐えた。土産の寿司を手ずから涼子の口に運び「うまいだろう?」と聞いたりしたが、涼子は逆らうのが怖くて味のサッパリ分からない寿司を飲み下し小さく頷いた。「ちぇっ!親娘して似ていやがる。愛想がねぇ」不機嫌な時は「あっちへ行ってろ」と邪険にする。後者の方が涼子には楽に呼吸が出来た。自分の機嫌次第で女を玩具にしたり道具にするのが男。そして女は黙って従う、今の時代ではとんでもない不文律が両親の間に存在し、そんな空気を吸いながら成長した涼子は無意識に自我や感情を面に出さない娘になった。思春期を迎えた涼子は好んで哲学書や宗教に関する本を読んだ。ただ周りの空気に静かに溶けてふわりと漂う自分とは何者か?それが知りたかったがいくら読み漁っても本当の自分の望みや姿を見出せずにいた。そしてそう言った形而上の事柄を疑いも信じてもいない。ただ続けて来た書道に没頭する時は、身体の血流を感じ、シュッシュッと墨をする音に呼吸を合わせ、清々しい墨の香りを静寂の中で思い切り吸い込む。この一瞬だけが紛れも無く自分が生きていると体感出来る事柄なのだ。成長するに連れて涼子は美しくなった、臆病な性格を裏切るように人目を引く。男子生徒から告白されたり痴漢に遭ったり、泣きたい位煩わしかった。父までが涼子涼子と些細な用事を言いつけ何かと構いたがり以前は「静子、静子」とうるさく母を呼び付けていたのに何がどうなったかサッパリ理解出来ず、とにかく毎日が憂鬱だった。

 そんな母の激情をたった一度だけ見たのは涼子が短大を卒業し地元の保険会社で働き始めた春、昨夜の深酒がたたり父は足場から転落死した。余りにも突然のあっけない最後だった。母は涼子が物心付いてからついぞ聞いた覚えの無い声を上げ、父の亡骸に取り付き狂ったように号泣した。死を悼むというより、今まで押し殺した愛憎のありったけを絞り出すかの母の姿に皆が狼狽した。葬儀や様々な煩わしい事後処理の後、母は周囲の反対を押切り家を売り最寄り駅近くのマンションを買った。父の亡骸に取りすがり泣いた時と同じく、頑として自我を通す母の姿に涼子だけではなく親戚一同が驚いた。仕事中の事故死でもあり多額の補償金や生命保険金で全て賄えた。引越しも済み母娘2人の静かな暮らしが始まった。暮らしが落ち着いた頃から少しづつ確実に母は生気を失い始めた。拠り所をなくした宿り木か

痩せ細り枯れてゆく姿そのものだった。あれ程気に掛けていた髪の手入れや化粧もしなくなり終日ぼんやりして、祭壇の父の遺影を見つめたり、父の遺品と言っても地下足袋や作業着だけだが手に取りさすったりする毎日だった。引越しの前後は気丈に振舞っていたが日に日に弱々しく虚ろであった。

 ある日つとベランダに出た母が「涼子、このマンションは父さんが関わった建物なの」とポツリと言った。それでこのマンションに固執したのかと腑に落ちた。その話をしてから母はよくベランダでぼんやりする事が増えた。涼子は嫌な予感がしてわざと明るく「母さん、コーヒー入れたから」と室内へ促した。そうした危ういが静かな生活が流れ胃癌を患った母は死に抗いもせず治療を拒み父に頬を打たれ組み敷かれ、か細く泣いていた生き方そのままに涼子25歳の春この世を去った。鈴虫の亡骸、安らかな表情、涼子は父が去ってから遠からずこんな日が来ると覚悟していた。

 1人になり所在ない日々をぼんやり過ごしたか、相変わらず書道には打ち込んでいた。母の様に男に従属して生きる気は無い、かと言って自分が何者か輪郭さえつかめない事実に苛立つ。そんな空白の時間を塗りつぶす絵の具がケーキ作り。レシピ通りきっちり材料を計り手順を守ればそれなりのパステル画は完成する。ただ最後の仕上げ、美味しいと喜ぶ誰かがいないのだ。ケーキを焼いては両親の祭壇に供え、後は捨ててしまう。一体自分は何がしたいのだろうか。

 学生の頃に誘われるままに男子学生とデートらしき事もして見た。遊園地に行ったり映画も見たが、いわゆる若い女の子らしい嬌声を上げたり、わざとらしい笑い声を立てる事が出来ず、いつも気まずい空気が流れて後が続かない。美しい容姿の為に社会に出てからも幾人かの男と付き合ったが、人形のようにただ美しいだけで感情表現の乏しい涼子に男達はすぐに飽きて去って行った。深い関係も持ったが、その行為には常に後ろめたさと父と母の幻影がつきまとい何の悦びも与えられなかった。むしろ男と女、恋愛、結婚にその行為が重大な意味を持つとは信じ難かったし、早くこの馬鹿馬鹿しい作業を済ませ墨の香りのする静かな空間に身を置きたかった。屈辱的な姿勢を強いる男がいたり、あからさまに女性遍歴を誇示し自己陶酔する男がいたり、映画やドラマのムードを演出する男もいた。いずれにせよ涼子が我を忘れ声を上げる事は一度も無かった。皆去り際異口同音に「美しいが面白く無い女」と評した。どこかで聞いた台詞、鈴虫が泣いた夜に父がつぶやいていた。

 そんな時に出会ったのが隆、雨の日のハプニングから数日後、地下鉄を降りバスを待って涼子に隆から近づいた。「夕飯おごらせてよ」最初は自分に声をかけられたとは思わなかった。隆の顔も覚えていなかったし何より疲れていた。「雨の日にぶつかって、何か大事なもの台無しにしたんだよな?すんげえおっかない顔してたじゃん。お詫びに飯奢らせてよ」ようやく事情が飲み込めたが、無言でバスに乗ろうとした涼子の腕を強引に掴み「そんな怖い顔しないでよ。本当に飯奢りたいだけだから、俺隆、桑原隆。近くで働いてる。あんたこの時間このバスに乗るだろう?毎週金曜。非番の時はあの雨の日からずっとあんたの事探してたんだ。すぐそこだから。美味い寿司食わせるオヤジがいるんだ。大丈夫、飯食ったら又このバス停まで送るから」一方的にまくし立て返事を聞こうともせず涼子の腕を掴んだままズンズン歩き出す。何故か耳朶に「すみません」と父に詫びる母の声が蘇り苛立ちを覚え意を決して「痛いから腕を離して下さい」と告げたが怒りとは裏腹に、その声は母に似て細く弱々しく悲しく響いた。「ごめんごめん!でもやっと声聞けた。」今までも涼子を強引に扱う男は何人もいたし、何かにつけて人に逆らえない性格のせいで残業や気乗りのしない食事会にも参加した。ただ人形のように従い空気のようにそこにいるだけ、酒で場が盛り上がるといつしか存在すら忘れられてしまう。だから隆と寿司を食べたとしても今までと何も変わらないと知っていた。逆らうよりはサッサと食事をすれば自分のつまらなさに懲りて二度と誘わないだろうから成り行きに任せた。

 涼子の美しさに派手さは無く、淋しげな面差しと透き通る白い肌、華奢なうなじや薄い肩が保護欲を掻き立てる。伏し目がちな眼差しに長いまつ毛が影を落として風情がある。口数は少いが頼りなさげに話す声が細く切ない余韻を残す。その夜も隆が1人でしゃべりまくり、涼子は寿司にもほとんど手をつけず、かろうじて頷いたり、言葉少なに返事をするだけで終わり次はもう無いだろうと思うとホッとした。隆は約束通りバス停まで涼子を送ると「じゃあ」と手を振り踵を返した。あの雨の日と同じ疲労感を覚えた涼子はベッドに突っ伏し、ゆっくりと手足を伸ばして天井を見た。薄暗い空間に目を凝らして隆の顔を思い出そうとしたが、ゆらゆらと輪郭がぼやけていつの間にか眠ってしまった。

 驚いた事に隆はその後も懲りずに涼子を待って食事に誘った。断り切れずに幾度も付き合う内にマンションまで送り届けてくれるまでになった。「お前を見てると危なっかしくて、ほって置けないよ。いつもボウッとして、そこそこまぶいんだから気を付け無いと怪しい奴に食われちまうぞ。悪い虫が付かないように俺様がガードしてやるよ」勝手な理屈だと思ったが、暗に自分は怪しい男じゃないと主張しているのが笑えた。現に何度もマンションまで送りながら部屋に入ろうとせず節度を守る姿勢に好感が持てた。いつしか涼子の方から部屋に招き入れた。

 初めて朝まで過ごした時、鈴虫が鳴いたかどうかは覚えていないが、隆は果てしなく優しく穏やかで涼子は初めて男の腕の中にいる自分に違和感無く安らげた。隆とそうなってから初めてショッピングモールのコスメコーナーに足を運んだ。今まで全く興味の無い場所が眩しく映った。いかにも美容部員然とした女がにこやかに近づいて「何かお探しですか?」と尋ねた。もじもじしている間に、気付けばミラーの前に腰掛け顔をいじられていた。「本当にキメが細かくてきれいなお肌ですね~どんなお手入れなさってるんですかぁ」等と言いながら試した事も無いアイシャドウやチークにリップグロスで別人に仕立て上げられた。ミラーには見知らぬ女が居た。「良くお似合いですよ〜」涼子は慣れない香料やその場の空気に軽い目眩と頭痛を感じて一刻も早く立ち去りたかった。離れる理由に欲しくもないリップグロスとアイシャドウを買い慌ててその異次元を飛び出した。帰宅するやいなや洗面台で張り付いた仮面をスッカリ洗い流し、改めて鏡を見てからようやく深いため息をついた。隆はこの素顔を好むに違いない。

 数日後、隆は台風みたいに沢山荷物を抱えて転がり込んで来た。何度目かの食事の時に隆はポツリポツリと自分の過去を語った。地元の工業高校を出て大手企業の製品工場に勤めた、仕事は良くできて将来も嘱望されていた。3年後悲劇は起きた、ラインの作業中に安全確認を怠り手をプレス機に潰され退職を余儀なくされた。労災だけに相応の賠償金や障害年金もあるから暮らしには困らない。その時の恋人は隆の干したバナナのような右手を見て去ってしまった。「俺、正直腐ってたよ。金が有れば良いってもんじゃねえよ、明日何か来なけりゃいいと毎日毎日一歩も家を出ず部屋に居たさ。でさ、心配した先輩が無理やり珈琲に誘ってくれたんだ。何も話さなくてただ珈琲飲んだ。真っ暗な世界に珈琲の香りだけが感じられた、俺まだ生きてたんだと感じたよ。美味かったなあ~あの珈琲」「でさ、俺のこの手でも美味い珈琲なら出せるかもってさ」そんな経緯で今彼は珈琲専門店で働きながら豆の事、焙煎の技術、独自のブレンド等修行中らしい。将来は当然自分の店を持つと決めていた。「何で俺お前に惚れたか分かるか?」そう問われて涼子は首を横に振った。「お前、この手見てもただ首をかしげただけで何も聞かなかった、普通は可哀想だとか、どうしたんだとかゴチャゴチャうるせーんだよ。でもお前はそのあともただ黙って飯に付き合ってくれたじゃん。惚れんだろ、そりゃあ」

 隆との暮らしは穏やかに過ぎた。涼子の過去には触れずにひたすら大切なガラス細工を扱うように接した。涼子にもわずかな感情の変化が現れた、隆の冗談にかすかな笑い声さえ立てるようになった。「あ、今の受けた?」隆の明るさは陽だまりのように心をほぐした。初めて誰かの為にケーキも焼いた

「美味いじゃん、次はバスチー焼いて、俺美味い珈琲入れるから」その珈琲は本当に美味かった「良い香りだろう?」涼子は頷きながら無意識に「墨…」とつぶやいていた。隆は「あ~お前が時々シュッシュッてやってる奴か?アレも良い匂いだよなあ」シュッシュッには涼子も声を立てて笑えた。こうして涼子のかすかなつぶやきがリビングの空間に溶けてしまう前に優しくすくい上げて暖めてくれる限りない優しさが嬉しかった。「俺の珈琲とお前のケーキ夢のコラボじゃん!」何時の間にか未来の景色に涼子を加えた。書道にも変わらず励んだ、師範がある日「何か良い事が有りましたか?、最近の作品は生き生きと呼吸をしています。」芸術家の感性の鋭さに虚を突かれた、涼子は答えず耳たぶまで赤くした。「大変よろしくてよ。」何も詮索しない大人の品格に感謝した。

 雨の日の出会いから一緒に暮らして数ヶ月が過ぎたある日、仕事から戻ると隆の姿が無かった。仕事のシフトで彼が部屋にいない夜も有ったが、ガランとした室内とテーブルに残されたメモでただの不在では無いのを理解し震えた。わずかな変化は起きていた。テレビ画面を無表情で眺める涼子の横顔を隆はじっと見ていた。「お前、こんなの見ても何ともねぇの?」その時テレビは小児ガンと戦う子供と寄り添う母親のドキュメンタリー番組が流れていた。涼子はどう答えて良いか分からず黙って寂しくほほ笑んだ。「可哀想」と言うと嘘のようで嫌だった。何とも無い何とも無い…隆の言葉はグルグルと頭の中で回った。何とも無いの対極にある感情は何だろう?同情か哀れみか。いずれにせよ人は他人の悲劇に心底同苦は出来ない、何故なら当事者しか理解出来るはずがないし、あくまでも他人事なのだ。ただ歩いていただけで投身自殺に巻き込まれ亡くなったり、何の罪も無い人が無差別殺人の犠牲になったり、悲劇は日常的に報道される。何とも無い…でやり過ごすより他は無い。「可哀想、気の毒に」と言いながら、わずか何分後には夕食の後片付けをし、明日の準備をし、それぞれ自分の人生に戻る他無いのだ。有る者は慈善事業やボランティアに身を投じて「何とも無い」から脱却を図るだろう、しかしそれが出来ない者はせいぜい幸運に感謝したり不遇を呪ったりしながら自分のささやかな人生を生きている。

 母は涼子を何不自由無く育ててくれたが父の存在が世界の全てだった母から本当に深い愛情を受けた記憶が無い。だから辛い治療に耐える子供を見ても何の感情もわかず、そんな自分が悲しくもあった。似たような事が度々起きた。戦火の難民達、餓死する子供達。隆とのやり取りに、いつも涼子は寂しく眉をひそめるだけでごまかした。隆が残したメモには「お前は一度も俺を愛してはくれなかった」とだけ書かれていた。 

 「愛していたわ」と呟いたが、それを伝える相手はもうそこにはいなかった。足の裏に痛みを感じてからどの位ぼんやりしていたのか分からない。我に返り血の滲んだ傷を見た時、涼子は隆が消えてから初めて、いや生まれて初めて声を上げて泣いた。父の亡骸にすがり号泣した母のように。少し違っていたのは悲しみに少し喜びが交じったような不思議な涙だった。男が残した傷を撫で続けて、何時迄も声を上げて泣いた。涼子の震える肩をベランダから差し込む陽光が暖かく包んでいいた。

 



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