由比ヶ浜ケイの受難─第1章─9話「ざまぁみろ」
【由比ヶ浜ケイの受難】
11月上旬・とある公園
木枯らしが吹き抜け、地面には枯れ葉が舞う11月上旬の土曜日。
とある静かな公園のベンチに、一人の少女が座っていた。
「はぁ……」
チャコールグレーのロングチェスターコートに、黒のタートルネック、細身のパンツとレザーブーツ。
スタイリッシュで都会的な冬の装いだが、その顔半分はマフラーで埋もれ、サングラスで表情を隠している。
由比ヶ浜ケイだ。
久々のオフ。彼女は喧騒から逃れるように、人気のないこの場所に来ていた。
あの「アイドル水泳大会」以来、彼女の環境は激変した。
「足が攣る」という神懸かったオチと、司会進行の意外な安定感が評価され、オファーが殺到したのだ。
呼ばれるステージの規模は大きくなり、深夜のバラエティ番組への出演も増えた。
そして比例するように、瓦幸慈が無理やりねじ込む「昆虫食」等の過酷な体当たりロケも急増した。
普通のアイドルであれば、涙を流して喜ぶサクセスストーリーだろう。
しかし、由比ヶ浜ケイは「日陰者」を目指す少女。
彼女にとってスポットライトは、平穏な生態系を破壊する天敵でしかない。
「……このままアイドルとして……二度と静かな生活は戻ってこない……」
ケイの日常は、文化祭以来、喧騒に塗れていた。
学校へ行けば、奇異と羨望が入り混じった眼差しに晒される。
廊下を歩けば、ヒソヒソと自分のことを話す声が聞こえる。
『あ、由比ヶ浜だ』『テレビ見た?』『虫食ってたやつだ』
……煩わしい。元の、誰にも認知されない「空気」のような生活に戻りたい。
「それに……」
ケイはスマホを強く握りしめた。
ここまでトントン拍子で売れすぎた弊害。
ネット上には、心ない言葉を投げかける輩が一定数現れていた。
『ゴリ押しウザい』
『実力ないのにコネだろ』
『運営の枕か?』
今まで、リアルでの悪口や陰口は「所詮、他人の評価」と受け流して生きてきた。
だが、顔も見えない数十、数百のアンチからの悪意の奔流には、耐性がない。
身に覚えのない誹謗中傷。勝手に作られる虚像。
「……ッ」
流石に、心が折れそうだ。
ケイは空を見上げた。鉛色の曇り空が、今の自分の心境と重なる。
視界が滲む。涙が出そうになる。
ふと、一人の少女の顔が脳裏をよぎった。
全ての元凶、神野愛理。
「……愛理さんも、同じなのかな……」
彼女は3歳から子役として芸能界に身を置いてきたという。
そこに、彼女自身の選択肢はあったのだろうか?
物心ついた時には大人たちに囲まれ、「女優」という商品を演じさせられてきたのではないか?
自分は高校生になってから無理やり乗せられたが、彼女は生まれた時から、敷かれたレールの上を走らされている。
「……フッ……」
そう思うと、少しだけスッキリとした気分になった。
それは、同じ檻の中に閉じ込められた『同類』がいることへの安心感。
そして何より……自分がこんな目に遭うきっかけを作った彼女への、
「貴女も自由なんてないのね、ざまぁないわ」
という、昏く歪んだ優越感だった。
自然と涙は引っ込んだ。
他人の不幸は蜜の味。最低だが、今はそれが唯一の鎮痛剤だ。
さぁ、帰ろう。明日のために英気を養おう。
ブーブー! ブーブー!
コートのポケットでスマホが震えた。
画面には『瓦 幸慈』の文字。
「……はい」
「あ、ケイちゃん! お疲れ様!」
電話の向こうから、無邪気で残酷な声が響く。
「また昆虫食のオファー来たんだけど、今度は『わんこそば』形式なんだって! どんぶり3杯ぐらいいけるよね? 一応これはキツイかな〜と思って確認したんだけど……」
ブチッ。
ケイの理性が切れる音がした。
「断って!!!!」
叫ぶように言って、即座に通話を切る。
スマホを持つ手が震えている。
「うっ……うぅ……」
さっき引っ込んだはずの涙が、今度は堰を切ったように溢れ出した。
神野愛理への「ざまぁ」など、何の慰めにもならなかった。
いま、現実にどんぶり一杯の虫を食わされようとしているのは、私だけなのだから。
冷たい風が吹く公園で、スタイリッシュなコートを着た美少女が一人、声を殺して泣いていた。




