─第4章─最終話「由比ヶ浜ケイの決断」
【由比ヶ浜ケイの受難】
ケイは、ジャージ姿で控え室のソファに深く沈み込んでいた。
その敗北に、『安堵』は微塵もない。
持ち前の記憶力と、徹底した理詰め思考によってここまで上り詰めてきた自称・日陰者の『初めての挫折』。
由比ヶ浜ケイの胸の奥には、どうしようもない感情が込み上げていた。
「…………はぁ」
ケイは大きく、長く溜め息をつき、血走った目でスマホに何かを猛烈な勢いで打ち込んでいるマネージャー・瓦の方を向いた。
「瓦さん、一つ頼みがあるの」
「……ん? どうしたの、ケイちゃん?」
スマホから顔を上げた瓦に向かって、ケイは静かに、しかし決して揺らぐことのない瞳で告げた。
「普通科からアイドル科へ転入する手続き、手伝ってくれる?」
決勝戦のステージ。
そこには、肺の空気を絞り出されるような、窒息しそうなほどの静寂があった。
神野愛理と、城ヶ崎莉杏。
言葉はひと言も交わさなかった。互いが互いを、自分と同じ『神の領域』に立つ唯一の特異点だと完全に理解している。
ただそこに在るだけで肌が粟立つ、膨大な存在感の衝突。
それはまるで、灼熱の太陽と、冷たく美しい月が同時に空に見えるような、異常な雰囲気だった。
「決勝戦、先攻! 城ヶ崎莉杏ッ!!」
アナウンスが響く。莉杏はゆらりと動き出し、ステージの光の中へと溶けていった。
開演。
その瞬間、コンサートホールから「色」が消えた。
カッ!!!!
照明が最大出力で焚かれ、ステージ上が真っ白な光に包まれる。
眩しい。目が焼けるほどに明るい。だが、観客が感じたのは「光」ではなく、底知れぬ『白い闇』だった。
流れるのは、不協和音ギリギリの旋律が幾重にも重なる、アヴァンギャルド・アンビエント。
リズム隊が消え、心臓の鼓動のような重低音だけが不規則に響く。
「───ッ」
その「白」の中で、莉杏が踊る。
重力を完全に喪失したような浮遊感。関節が在るべき場所にないかのような、軟体的で、グロテスクなまでの美しさ。
彼女が指先を動かすたびに、空間の座標が狂い、観客の視界が歪む。
囁くような、それでいて脳髄に直接響く歌声。
それは決して甘いラブソングではない。獲物を巣穴へ誘い込む、恐ろしくも美しい蜘蛛の糸だ。
明るすぎて、何も見えない。彼女の輪郭が光に溶け、自分の精神が『城ヶ崎莉杏』という巨大な虚無に飲み込まれていく感覚。
恐怖と、圧倒的な恍惚。誰もが呼吸を忘れ、瞬きすら許されない。
そこにいたのは、人の形をした何か……『美霊』そのものだった。
音が、唐突に途切れる。
光がフッと消え、暗闇の中に莉杏のシルエットだけが残った。
「…………」
彼女は最後に、ゾッとするほど美しい、女神のような笑みを浮かべていた。
拍手すら起きない。ただ、完全に圧倒された静寂だけが会場を支配していた。
決勝戦の特別ルールにより、スコアは後攻のパフォーマンス終了後に一斉公開される。だが、誰もが肌で予感していた。
『大会のハイスコアが更新された』、と。
莉杏が舞台袖へ戻ってくる。
汗ひとつかいていない涼しい顔で、出番を待つ愛理の横をすり抜ける。その時も、言葉はなかった。
入れ替わりに、神野愛理が一歩を踏み出す。
『白い闇』に塗りつぶされた会場。完全に凍りついた空気。
愛理は深く息を吸い込み、ニカッと笑った。
「よっしゃ……!」
彼女がステージに向かうその背中は、どんな深い闇も焼き払う『ビッグバン』の予兆そのものだった。
「後攻! 神野愛理ッ!!」
愛理がステージ中央に立った瞬間、莉杏が残した冷気がジワリと溶け出した。
彼女はマイクを握り、閉じていた瞳をパッと開く。
「行くよッ!!!!」
ドッパァァァァァァン!!!!
一音目から、世界が反転した。
莉杏の白い闇を、とてつもない熱量で塗り替えていく。
曲は、とてつもなく壮大で、どこまでも温かい『フルオーケストラ・ポップス』。
ブラスバンドのファンファーレが、新しい宇宙の誕生を高らかに告げる。
「――――ッ!!!」
愛理が駆け出す。その一歩一歩が、凍てついた大地に熱を灯していく。
彼女のパフォーマンスは、観客を置いてけぼりにする「支配」ではない。凍えていた観客の手を一人一人強く握りしめ、「生きろ! 歌え! 楽しめ!」と魂を直接揺さぶる『創世』のエネルギー。
──サビ。
会場のボルテージが臨界点を超える。
愛理の声が、光の奔流となって降り注ぐ。それはまさにビッグバン。
爆発的な熱狂が、会場の壁を、天井を、そしてアイドルの常識を吹き飛ばす。
莉杏の作った『白い闇』は完全に破壊され、愛理を中心とした新たな宇宙が『創世』される。
眩しい。あまりにも眩しくて、涙が出るほど温かい。
誰もが理性を失い、喉が枯れるまで彼女の名を叫んでいた。
これが、高校生最強アイドル・神野愛理。
演奏が終わり、光の余韻が漂う中、城ヶ崎莉杏がステージに戻ってきた。
美霊とビッグバン。
二人がステージ中央で並び立つ。互いに全力を出し尽くした充足感だけが、二人の間に漂っている。
会場中が固唾を飲んでメインモニターを見つめる。
審査員席の坂本雅らが、震える手で最後の入力を終えた。
ドラムロールなど鳴り響かない。そんな安い演出など不要なほどの、究極の緊張感。
ドン、と二つの数字が同時に表示された。
【先攻】 城ヶ崎 莉杏
得点:【391点】
「……ッ!!」
会場がどよめく。
準決勝の388点を超えた。莉杏は最後の最後で自らの殻を破り、自己最高記録を更新したのだ。神の領域をさらに拡張した、驚異のスコア。
そして。
【後攻】 神野 愛理
得点:【393点】
【勝者:神野 愛理】
一瞬の静寂の後、会場が割れんばかりの大歓声と拍手に包まれた。
393点。
400点満点中、ほぼ満点に近い「完全なるアイドル」の証明。
その差、わずか2点。
しかし、その2点に、太陽としての意地と、王者の絶対的な輝きが全て詰まっていた。
「…………」
莉杏はスコアを見上げ、ふっ、と短く息を吐いた。
悔しさはある。だが、それ以上に憑き物が落ちたような清々しい顔で、隣に立つ愛理へ視線を向けた。
愛理は満面の笑みで、莉杏と客席に向けて高くピースサインを掲げた。
秋の激闘『朝陽ノフォールカップ』は、こうして王者が再び玉座につく、圧巻のフィナーレで幕を閉じたのだった。
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