由比ヶ浜ケイの受難─第1章─第8話「アイドル水泳大会」
【由比ヶ浜ケイの受難】
「アイドル水泳大会……新人アイドル達の登竜門。ここで目立てばブレイクの可能性もある、超人気の深夜番組だよ!」
瓦幸慈は、まるで宝くじに当たったかのようなテンションで説明した。
しかし、提示された条件は「死の宣告」に等しかった。
問題は大きく分けて2つ。
1. 無謀なマッチメイク
大会は15人のアイドルが5人ずつ3つの組に分かれ50メートルのレースを行う。
第1レースは「カナヅチ・初心者枠」、第2レースは「普通枠」。
そして第3レースは、水泳経験者やスポーツ自慢たちがしのぎを削る「ガチ勢枠」。
なぜか、水泳経験ゼロの私が、この大トリである第3レースにねじ込まれている。
2. 素人のMC
そして最大の問題。ド素人の私が、この番組の司会進行を務めるということ。
深夜番組とはいえ、バラエティの進行は戦場だ。間の取り方、振りのタイミング、トラブルへの対処。
それを、台本も読んだことのない私が?
(……このマネージャー、無茶苦茶な仕事を振ってきやがる)
ケイは内心で毒づきながら、震える声で尋ねた。
「……それで、本番は?」
「来週の日曜日だよ!」
あと一週間。
たったの7日間。
その間に、プロでも緊張する生放送の進行台本を完璧に覚え、さらに水泳経験者たちと渡り合えるレベルまで泳力を上げろというのか。
普通なら「無理」と断る。
だが、もう仕事は決まっている。
逃げれば「ドタキャン」として炎上。失敗すれば「放送事故」として炎上。
私の平穏な人生は、どちらに転んでも火だるまだ。
(……ならば)
ケイの中で、冷徹な計算機が弾き出した答えは一つ。
「……やるしかないわね」
私は腹を括った。
恥をかいて終わるか、死ぬ気で足掻いて最低限の「形」にするか。
後者の方が、まだ生存確率は高い。
ケイは顔を上げ、二人の協力者に指示を飛ばした。
「ねぇ愛理さん、司会進行のコーチングってできる?」
「任せなさい!」
愛理がドンと胸を張った。
「芸歴13年の『神野愛理』が、業界のオキテからカメラワーク、ワイプの抜き方まで全部叩き込んであげる! スパルタだよ?」
「望むところ。……それから瓦さん」
「は、はい!」
ケイはメガネのマネージャーを睨みつけた。
「貴女は私の水泳の練習に付き合って。それと……用意してほしいものがあるわ」
「了解! ケイちゃんのためなら何でも!」
こうして、由比ヶ浜ケイの受難史上、最も過酷で濃密な一週間が幕を開けた。
放課後・レッスン室
由比ヶ浜ケイに、気の利いた「会話スキル」など存在しない。
日陰者として生きる上で、目立つ発言や気の利いた返しは「リスク」でしかなく、不要と判断して切り捨ててきたからだ。
ゆえに、生放送でのアドリブ司会進行など、本来は不可能である。
……だから。
「生放送で起こりうる、思いつく限りのアクシデントと会話パターンを全て頭に叩き込む!」
ケイは、電話帳のように分厚いノートを机に叩きつけた。
「お……お〜」
神野愛理が、その狂気じみた物量に圧倒されながら小さく拍手する。
「会話とは常に変動する数値。ならば、その変動パターンを全て記憶してしまえばいいのよ」
「相方がボケた場合」「スベった場合」「噛んだ場合」「機材トラブル」「CM明けの無言」……。
ケイにとって、司会進行はコミュニケーションではない。「フローチャートの高速処理」だ。
全ての分岐をあらかじめ脳内に構築し、相手の反応に合わせて最適解を出力する。
それは天才・神野愛理の発想にもない、記憶力オバケのケイにしかできない力技だった。
「なかなか凄い方法を選んだねケイちゃん……(この子、やっぱり変だわ)」
愛理は苦笑いしつつ、ホワイトボードに向かった。
「よっしゃ! じゃあまず、今回一緒に司会進行を担当する大御所芸人さんなんだけど……この人のボケ、全部で50パターンあるから覚えて!」
「了解」
ケイの脳内データベースに、新たな地獄のファイルが作成された。
同日・夜:室内プール
「それじゃあ、特訓を始めるわ。瓦さん、例のものを」
「う、うん……!」
夜の静寂に包まれた市民プールの貸切レーン。
ケイはプールサイドに座り込み、瓦から受け取った手足首用の重り(各5kg)を巻き始めた。
計20kgの枷である。
「ケイちゃん……本当にそれで泳ぐの? 重すぎるよ……」
瓦が心配そうに覗き込む。
「こうでもしないと勝てないわ」
ケイは真顔で答えた。
「私は素人。技術を習得する時間はない。なら、基礎出力を上げるしかない。この重さで水をかけば、外した時に飛ぶように泳げるはず……」
少年漫画のような理屈だが、今のケイにはこれに縋るしかなかった。
彼女はゴーグルを装着し、競泳水着姿で立ち上がった。
「あとは徹底的に、理想的なフォームを頭に叩き込む……」
ザブンッ!!
ケイは勢いよく水面に飛び込んだ。
その瞬間。
ゴボゴボゴボッ……
浮く気配など微塵もなく、ケイの身体は鉛のようにプールの底へと直行した。
「ケイちゃーーーん!!!!」
瓦の悲鳴がプールにこだまする。
泳ぐどころか、ただの入水自殺に近い光景。
由比ヶ浜ケイの水泳特訓は、「まずは水に浮く」という生物としての生存競争からスタートした。
本番当日・MC楽屋
「よ、よろしくお願いします……」
テレビ局の専用楽屋。
由比ヶ浜ケイは、借りてきた猫のように体を小さくして挨拶をした。
目の前にいるのは、芸能界の重鎮にして、今回共に司会進行を務める大御所芸人・しらぬいホンマだ。
「おう、アンタがケイちゃんか! 見たで文化祭の動画! ごっつガチガチやったなぁー!!」
「あは……」
ガハハ! と豪快に笑うその姿は、テレビで見た通りのスキンヘッドに小太り、そして愛嬌のある小さな丸メガネ。一見優しそうなおっちゃんに見えるが、その声量と圧は「怪物」のそれだった。
「で、では……私はこれで……」
ケイが愛想笑いを張り付け、その場を後にしようと後ずさりする。しかし、怪物は逃がさない。
「いやー、うちの孫もアイドルやっとるんやけどな! 正直、ケイちゃんの方が愛嬌があるというか、人間味があってええわ! なぁ!!」
バシッ! と背中を叩かれる。
(……孫?)
ケイは痛みに耐えながら、瞬時に分析した。
声が大きい、距離が近い、デリカシーがない。
私の最も苦手な「台風」のようなタイプだ。
「そ、そうですかー……では、失礼します……!」
「おう! 本番頼むで! ほなまたな!」
ガチャ……。
ケイは命からがら楽屋を脱出した。
「ふぅ……」
一息ついたのも束の間。彼女は表情を引き締め、次なる戦場――アイドルたちが集められた大部屋へと向かう。
「よろしくお願いします……」
ケイは大部屋に入り、深々と頭を下げた。
しかし、返ってきた反応は極めて薄かった。
「……おはようございます(棒)」
「……(チラッと見てスマホに戻る)」
当然だ。
ここにいるのは、地道なレッスンと下積みを重ねてきたアイドルたち。
対して私は、たまたま文化祭の動画がバズり、ポッと出でMCの座を射止めた「実質素人」。
彼女たちからすれば、面白くないどころか「聖域を荒らす異物」でしかない。
視線が痛い。空気が冷たい。
だが、由比ヶ浜ケイは砕けない。
(……想定通り。敵意の数値は計算内よ)
彼女に課せられたミッションは、「皆に好かれること」ではない。
「司会進行を放送事故なく無難にこなし」「水泳レースで他のアイドルに食らいつき、無様に溺れない」こと。
それさえ達成できれば、この地獄から生還できる。周りの目なんか知ったこっちゃない。
「……着替えよう」
ケイは自分のロッカーを開けた。
そこには、この番組から生還するために用意した、とある「秘策」が入っていた。
由比ヶ浜ケイは覚悟を決める。
生き残るために、なりふり構っている暇はないのだ。
そして本番。
プールサイドに設置された特設スタジオの雛壇には、色とりどりのフリルやリボンがあしらわれた、可愛らしい水着を着たアイドルたちが座っていた。華やかで、まさに「アイドル水泳大会」という絵面だ。
「……ふぅ」
そこへ、司会進行の由比ヶ浜ケイがMC席へと歩みを進める。
ざわめきが起きる。当然だ。
彼女が身に纏っているのは、飾り気のない、水の抵抗を極限まで減らすための漆黒の『競泳水着』。ゴーグルも首から下げている。
周りが「可愛さ」を競う中、一人だけ「タイム」を競う装備。
それは「絶対に惨敗はしない」「溺れて笑いものにはならない」という、日陰者の悲壮な決意の表れだった。
「ガチンコ! アイドル水泳大会〜!!」
しらぬいホンマの鼓膜を破らんばかりのタイトルコールとともに、番組収録がスタートした。
ケイは口角を規定の位置まで引き上げ、完璧な「愛想笑い」を浮かべる。
早速、ホンマが仕掛けてきた。
「今回の司会進行は、今話題のケイちゃんや! いやー、文化祭の動画見たで! ガチガチに緊張しながら、こんなポーズ決めとったやろ!」
ホンマが変な顔をして、あの「引きつったピースサイン」を大袈裟に真似してみせる。
スタジオのアイドルたちが爆笑する。
(……殴りたい。だが、想定済み)
いつもなら顔が引きつってフリーズするところだ。
だが、今のケイには愛理叩き込みの「対応フローチャート」がある。
『イジられた場合』→『否定せず乗っかる』→『笑いに昇華』。
ケイは愛想笑いを崩さず、カメラに向かってホンマと同じポーズをビシッと決めた。
しかも、あえて当時の「引きつった顔」を再現して。
ドッッッ!!
スタジオはさらに盛り上がり、和やかな空気に包まれた。
「可愛いー!」「再現度高い!」という声が飛ぶ。
ケイは安堵した。第一関門突破。ピエロになることで、場の空気を支配した。
その後も、次々と飛んでくるしらぬいホンマのボケや無茶振りを、ケイは機械的ながらも正確に捌いていく。第1レース、第2レースと順調に進行していった。
CM中のセット転換の合間。
ふと、ホンマがマイクを外してケイに話しかけてきた。
「お前、やるなぁ! 間もええし、度胸もある」
「え……」
「でも初めてやから、内心ガチガチに緊張しとるやろ。……よう頑張っとる、その調子や」
ニカッと笑うその顔に、先ほどまでの「デリカシーのないおっちゃん」の面影はなかった。
そこにあるのは、場を回し、共演者を気遣う「大御所」のオーラ。
意外な優しさに、ケイは目を見開いた。
ただの声のデカい芸人じゃない。この人は、全部見えている。
「……ありがとうございます」
ケイは初めて、愛想笑いではない素の表情で頭を下げた。
そして番組は進行し、いよいよ大トリ・第3レース。
水泳自慢たちが集うこのレースに、競泳水着のケイが混ざる。
ケイはプールの飛び込み台に並び、ふぅ……と深く息を吐いた。
周りは自信に満ちた表情のアスリート系アイドルたち。
対する自分は、一週間前まで25mも泳げなかった素人。
(……狙うは『中位』。目立たず、溺れず、無難に終わる)
だが、矛盾しているようだが、そのためには全力が必要だ。
素人が経験者の中で「無難」を演じるには、死に物狂いで食らいつき、「勝ちに行く」気概で泳がなければ、即座に置いていかれ「無様な敗者」として目立ってしまう。
(やるしかない。あの地獄の重り特訓を信じろ)
ケイはプールの水面を睨みつけ、ゴーグルを装着した。
その目は、アイドル番組のそれではなく、獲物を狙う殺し屋の目だった。
「位置について……」
静寂。
ケイは前傾姿勢をとる。筋肉が軋むほどに力を溜める。
パンッ!!
乾いた銃声が、スタジオに鳴り響いた。
バシャアアァッ!!
水しぶきと共に、由比ヶ浜ケイはロケットのように飛び出した。
速い。想像以上に、速い。
(軽い……! まるで羽が生えたみたいだわ!)
ケイは驚愕した。
手足に巻き付けていた20kgの重りから解放された身体は、信じられないほどの軽快さで水をかいていた。
さらに、理詰めで叩き込んだ「最も効率的なフォーム」と、見た目を捨てて機能性に特化したガチガチの競泳水着が、驚異的な推進力を生み出していたのだ。
グングンと加速する。
横目で確認すると、水泳自慢のアイドルたちが後ろに見える。
会場がどよめくのが水の中でも分かった。
「おい、あのMCマジだぞ!」「はえー!」
ラスト10メートル。
ケイは先頭を泳いでいた。
(勝てる……! このままタッチすれば1位よ!)
無様な敗北を回避するどころか、トップでのゴール。
「司会進行もできて、水泳もガチで速いクールなアイドル」。完璧なシナリオだ。
ケイは勝利を確信し、壁に向かって最後のラストスパートをかけるために右足を強く蹴り出した。
そう、心の中で安堵した、次の瞬間だった。
ビキィ……ッ!!
「――っ!?」
右脚のふくらはぎに、電流が走ったような激痛が奔った。
筋肉が石のように硬直する。
攣ったのだ。
(……あ)
走馬灯のように、ここ数日の記憶が蘇る。
7日間休みなしで駆け抜けた地獄の猛特訓。
さらに前日に瓦幸慈がねじ込んだライブステージでの激しいダンス。
そして今日は、慣れないヒールで長時間立ちっぱなしの司会進行。
全ての疲労が、この一番大事な瞬間に、右足の一点に集中して爆発したのだ。
推進力を失ったケイの身体は、物理法則に従い、急激に失速した。
そして、ゴール板を目の前にして、ゴボゴボゴボ……と虚しく水底へと沈んでいく。
そのシュールすぎる光景に、一瞬の静寂が訪れ――直後、怪物の爆笑が轟いた。
「ガハハハハ!!! ケイちゃん攣りよったで!! ここで足攣るとか、やっぱおもろいなぁアイツは!!!」
しらぬいホンマの声が、スタジオの空気を「悲劇」から「喜劇」へと一変させた。
心配よりも先に、笑いが来た。
トップ独走からの、ゴール手前での沈没。それは計算では決して生み出せない、バラエティとして100点満点の「オチ」だった。
『キャハハハ!』『うそー!』
スタジオ中が爆笑の渦に包まれる中、ケイはスタッフに救助され、プールサイドに引き上げられた。
ずぶ濡れの競泳水着姿で、情けなさそうに「……すみません」と呟くケイ。
結果は最下位。
しかし、この瞬間、由比ヶ浜ケイは番組の中で誰よりも「おいしい」爪痕を残すことになったのだった。
「はぁ……」
収録が終わり、スタッフに借りたバスタオルを肩にかけ、びしょ濡れのまま楽屋への廊下を歩く由比ヶ浜ケイ。
右足を引きずり、その口からは魂が抜けたような深い重いため息が漏れた。
(……最悪だわ。あんなに特訓して、結果は溺れて抱きかかえられて退場なんて)
司会進行としては成立したかもしれない、オチ要員にはなれたかもしれない。だがプライドはズタズタだ。
もう誰とも顔を合わせたくない。このまま消えたい。
「お疲れ様!」
後ろから明るい声が聞こえた。
ビクッとして振り返ると、そこには先ほどまで競い合っていた共演者のアイドルたちが立っていた。
本番前の楽屋で、冷ややかな視線を向けていたあの彼女たちだ。
「……あ、お疲れ様です……(また笑われるのか…)」
ケイが身構えると、彼女たちは駆け寄ってきて、キラキラした笑顔で口々に言った。
「司会進行、めっちゃ上手かったね! 本当に素人?」
「そうそう! しらぬい師匠のボケ捌くとか、あたしたちでも無理だよー!」
「それに、あのオチ! 最高だったよ!」
「最後あんなガチで泳いどいて足攣るとか、計算でもできないって! ギャップ萌えすぎ!」
そこには、敵意や嘲笑の色はなかった。
あるのは、同じ過酷な収録(戦場)を乗り越えた「戦友」への敬意と、親しみ。
完璧すぎるクールキャラだと思われていたケイが、最後にドジを踏んだことで、彼女たちの心の壁が取り払われたのだ。
「あ……」
予想外の温かい言葉の数々に、ケイの頬が緩む。
「……ありがとうございます。皆さんも、お疲れ様です…」
ケイはふっと微笑んだ。
それは愛想笑いでも、引きつった笑いでもない、安堵からくる自然な笑みだった。
その瞬間、廊下の空気が華やいだ気がした。
「じゃあまたねケイちゃん! 今度連絡先交換しようよ!」
「また現場で!」
手を振って去っていくアイドルたち。
ケイは少しだけ軽くなった心で、再び歩き出した。
(……悪い気はしない。……しない、けれど)
ズキリと痛むふくらはぎをさする。
(こんな目に遭うのは、二度と御免だわ)
心臓に悪い生放送。
死ぬ気の肉体改造。
そして全国放送での「足攣り」という羞恥プレイ。
ケイの目から光が消え、修羅の色が宿る。
(……瓦さん。この落とし前はきっちりつけてもらうわよ)
今日こそは、あの暴走マネージャーにキツく言っておこう。
「もう二度と、こんな無茶な仕事は受けない」と。私の平穏を返せと。
そう固く誓い、拳を握りしめる由比ヶ浜ケイであった。




