─第3章─2話「スタンダード」
【由比ヶ浜ケイの受難】
由比ヶ浜ケイは、深く、深く悩んでいた。
(……なんで、こうなったの)
すっかり「アイドル」になってしまった自分。
貴重な土日は、マネージャー・瓦幸慈が取ってくる無数の仕事で丸々潰れる。平日は平日で、最低でも週に4回は放課後の過酷なレッスンが待ち受けている日々。
ケイの切なる願いは、ただ一つ。
『元の、目立たない日陰者に戻りたい』。
だが、現実は残酷だった。
瓦幸慈の「仕事を選ばない」というブラックな方針は、結果的にケイのメディア露出度をかなり高めていた。
さらに、高校生最強アイドルである神野愛理を下したという『伝説』。
2つが合わさった結果、彼女のファンは着々と、しかも爆発的な勢いで増え続けていたのだ。
外堀は、完全に埋められている。もう、どう足掻いても戻れない。
実際、今の由比ヶ浜ケイは、日本屈指の名門である朝陽ノ高校にあっても、アイドル科のエリートたちを凌ぐ『トップクラスの実力者』として認知されていた。
それでも、戻りたいものは戻りたい。
しかし、「クラスで配布物を渡す時だけ接触するあの人」という、かつての盤石で愛おしい立ち位置は、二度と彼女の元へは戻ってこないのだ。
「はぁ……」
放課後の廊下。
ケイは死んだ魚のような目をしながら、トボトボと重い足取りで歩いていた。
周りには、高校生最強、幽玄の美霊、そしてサバイバーになりつつある元弟子など、怪物しかいない。
精神的疲労が限界に達しようとしていた。
「あ、由比ヶ浜さん」
ふと、声をかけられた。
ケイがうつろな顔を上げると、そこには見知った顔があった。
茶髪をシンプルなポニーテールで結った先輩、南美香だった。
「……あ」
その姿を見た瞬間。
由比ヶ浜ケイの心に、ブワッと温かいものが広がった。
至ってシンプル。純粋にアイドルを頑張る、常識的で真っ当な先輩。
(……普通だ)
思わず、安心感が湧き上がるほどの『普通』。
「フッ……」
ケイの口角が、無意識のうちにだらしなく緩み、思わずにやけてしまう。
疲労しきったケイの身体と心に、南美香が放つ「普通」というオアシスの水が、五臓六腑へと染み渡っていくのを感じた。
「…………なんだか、猛烈にバカにされている気がするわね……」
突然にやけ出した後輩を見て、南美香はジト目で一歩後ずさった。
「……いえ。なんだか、凄く安心しました……」
「……そう」
ケイが憑き物が落ちたような穏やかな顔で答えると、美香は訝しげに眉をひそめながらも、それ以上は踏み込んでこなかった。
怪物だらけの環境において、適度な距離感を保ってくれる常識人の存在。
由比ヶ浜ケイにとって、それは砂漠で見つけた一滴のオアシスに他ならなかった。




