由比ヶ浜ケイの受難─第1章─5話「笑わないアイドル」
【由比ヶ浜ケイの受難】
アイドル棟、レッスン室にて。
防音の効いた部屋に、二人の少女の声が響く。
「……それで、歌うのはどんな曲なの?」
「これなんだけど……」
ケイはスマホを取り出し、瓦幸慈がコネと土下座で勝ち取ってきた楽曲のサンプルを再生した。
優雅で、どこか悲しげなピアノの旋律が静かに流れ出す。
しかし、数秒後。
激しいドラムンベースのリズムと共に、BPMの速いシンセサイザーのメロディが疾走し始めた。
静寂と激情が交差する、アートコア。
テーマは『栄光への一歩を踏み出す曲』だ。
「……いいじゃん! この疾走感とクールな感じ、ケイちゃんに合ってるよ!」
愛理が目を輝かせて太鼓判を押す。
「早速だけど歌ってみてくれる?」
「う、うん……」
ケイはおずおずと歌い出した。
ピッチは不安定、声量は蚊の鳴くよう。
「〜♪」
「……まぁ、はじめはこんなもんだよ!」
愛理は努めて明るく、適当に慰めた。
(……曲は良い。でも、この歌唱レベルに加えて、ダンスの基礎もない。本番まであと6日で何とかなるかなぁ……)
さすがのポジティブモンスター・神野愛理でも、冷や汗が出る状況だった。
「……やるしかないわ」
ケイは青ざめた顔で、しかしハッキリと言った。
「中途半端なものを出して、これ以上恥をかくのだけは御免よ」
その言葉に、愛理はニカッと笑った。
「よっしゃ、じゃあ早速始めよ! まずはさっきの歌なんだけど、喉の使い方を……」
――30分後。
「アー……」
「そうそう! その感じで歌えば大丈夫だよ! お腹から支える感じ!」
「(……ケイちゃん凄い。教えた事をすぐに実践できてる……やっぱり才能あるなぁ)」
愛理は内心で舌を巻いていた。
喉の開き方、共鳴の位置。感覚的な指導を、ケイは一度聞いただけで修正してくる。
『記憶力のケイ』。その異名は伊達ではない。彼女は身体操作のイメージすらも「記憶」し、再現する能力を持っていたのだ。
「じゃあ次はダンスを教えます! ケイちゃん運動神経良いから大丈夫でしょ!」
「……そんな簡単なものかしら」
ケイは日陰者の文学少女だが、実は体育の成績は常に上位だった。
それは彼女が意外にも『健康志向』で、体型維持と健康管理のために、普段からランニングや筋トレをルーチンワークとして行っていた事が要因だった。
「健全な精神は健全な肉体に宿る」。
これもまた、彼女の理詰めな生き方が生んだ副産物だった。
さらに1時間後。
「……そうそう、うまいうまい! 飲み込みが早いからこれなら間に合いそうだね!」
「そ、そう?」
高校生最強アイドルからのお墨付きに、思わずケイは照れたように頬を掻いた。
文化祭で見せたあのステップは、まぐれではなかった。
基礎体力と、愛理の動きを完全コピーする観察眼。
素材としては、既に完成されていたのだ。
「じゃああとは、踊りながら歌う練習と……自然な笑顔だね!」
「え?」
愛理の言葉に、ケイが凍りついた。
由比ヶ浜ケイは、常に「感情」を殺して過ごしてきた。
笑えば目立つ。怒れば波風が立つ。
無表情こそが、彼女が理詰めで導き出した「目立たないための最適解」だったからだ。
出来る表情といえば、せいぜい愛想笑いか、困り顔くらい。
「笑って、ケイちゃん! アイドルスマイル!」
「こ、こう……?」
ケイは口角を無理やり持ち上げた。
頬の筋肉がピクピクと痙攣し、目は笑っていない。
「…………」
愛理の顔から、笑顔が消えた。
「………壊滅的」
「う………」
それは笑顔ではなかった。まるで親の仇を前にした殺し屋か、引きつった能面のようだった。
可愛い顔立ちが台無しになるほどの、不気味な不協和音。
「……今は笑顔はいいや! 無理に笑うと客が引く!」
愛理は即断した。
「いっそ一切笑わないクール系アイドル目指そ! そういう人もいるし! 曲もアートコアだし!」
「笑わない……アイドル?」
「そう! 孤高の歌姫って感じで!」
こうして、偶然と苦肉の策により。
「笑わないクール系アイドル・由比ヶ浜ケイ」が誕生した。
「お疲れケイちゃん! 練習メニューはチャットに送っといたから、1人でも練習頑張って!」
「お疲れ様、今日はありがとう愛理さん」
夕暮れの帰り道、二人は駅前で別々の帰路についた。
愛理の背中を見送りながら、ケイは重い足取りで歩き出す。
「はぁ……」
ケイは深く悩んでいた。
なんだか、どんどん引き返せなくなってきている。
文化祭の代役、商店街のモデル、そして日曜のライブ。
このままでは、なし崩し的に本当にアイドルになってしまい、一生をスポットライトの下で晒され続けることになるのでは……?
「……ゾッとする」
背筋に冷たいものが走る。
だが、これ以上考えるのはやめよう。悪い予感ほど当たるものだ。
(そうだ、まだ引き返せる。まだ間に合うわ)
ケイは思考を切り替えた。
明日、学校で瓦さんにハッキリと頼もう。「次のライブで引退させてほしい」と。
そもそも「アイドルを始めた」という認識すらないのだ。ボランティア活動の延長のようなもの。辞めるも続けるもないはずだ。
由比ヶ浜ケイは決意した。
そのささやかな抵抗が、翌日、木っ端微塵に砕け散るとも知らずに……。
「え? もう1ヶ月先までスケジュール入れちゃってるけど?」
「………は?」
放課後の教室。
ケイの引退宣言を聞くよりも早く、瓦幸慈は爆弾発言を投下した。
「この短期間で? 1ヶ月先まで?」
「うん! ライブハウスの対バンとか、雑誌の取材とか、地域のイベントとか!ケイちゃんのバズった動画のおかげで仕事も土下座すれば簡単に取れるんだよ!」
悪びれる様子もなく、むしろ「褒めて!」と言わんばかりの笑顔だ。
「か、瓦さん……私もうアイドルは……それにこないだは『これっきり』って……」
「あ、それね! 大丈夫、ちゃんと考慮したよ!」
幸慈はメガネをクイッと上げ、自信満々に答えた。
「『これっきり』って、『平日は予定を入れないで(学業優先)』って意味でしょ? 大丈夫! 全部土日に入れといたから!」
「そうじゃなくて……!」
違う。そうじゃない。
「これっきり」は「二度とやらない」の意味だ。日本語の解釈が根本からズレている。
ケイが訂正しようと口を開きかけた、その時だった。
幸慈がケイの手をギュッと両手で握りしめた。
「あのね、ケイちゃん」
幸慈の瞳が、涙で潤んだようにキラキラと輝き出した。
「私、ケイちゃんのマネージャーやれて、今本当に幸せなんだよ! 生きる希望が見つかったっていうかさ!」
「……え?」
「毎日が灰色だったけど、ケイちゃんのために営業したり衣装考えたりするのが、本当に楽しくて……!」
幸慈は頬を紅潮させ、熱っぽく語る。
それは純粋な感謝と、重すぎる愛の告白だった。
そして、由比ヶ浜ケイがアイドルを続けざるを得なくなる、決定的な一言を口にした。
「だから……もしケイちゃんがアイドルやめちゃったら、私、生きる希望を失って死んじゃうかも……!」
「死……っ!」
ケイの言葉が詰まる。
死ぬ? 私が辞めたら、この子が死ぬ?
大袈裟だ。絶対に大袈裟だ。
けれど、幸慈の目は本気だった。狂気的なまでに澄んだ瞳が、「貴女だけが私の光です」と訴えている。
(……見殺しには、できない)
由比ヶ浜ケイは、致命的なまでにお人好しだ。
自分の平穏と、他人の命(と生きがい)。
天秤にかけるまでもなく、彼女の倫理観は後者を選んでしまう。
「…………はぁ」
ケイは、この世の全ての諦めを凝縮したようなため息をついた。
「……分かったわ。とりあえず、その1ヶ月分は……やるわよ」
「本当!? やったぁーー!! ありがとうケイちゃん!! 愛してる!!」
「はいはい、声が大きい……」
抱きついてくる小柄なマネージャーを剥がしながら、ケイは遠い目をした。
マネージャーの命を救うため。
その崇高な(?)理由により、彼女のアイドル引退は無期限延期となったのだった。




