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─第2章─8話「アイドルになる理由」

【由比ヶ浜ケイの受難】


それは、まだ風が冷たい3月のとある日のことだった。


わたしは自宅の2階にある自室のベッドに寝転がり、大好きなクッキーを齧りながら、スマートフォンで新発売のお菓子に関するネット記事を読み漁っていた。


(……あ、これ。季節限定の桜餅味のチョコだ。お姉ちゃん好きそう……)

今度買っておいてあげようかな。

そんなことを思いながら画面をスクロールしていると、1階の階段から、トン、トン、と静かな足音が聞こえてきた。


お姉ちゃんだ。

今日はお姉ちゃんが出場していた「高校のアイドルの大会」の日。きっと今、帰ってきたのだろう。

わたしはベッドから跳ね起き、部屋を出た。

廊下に出ると、ちょうど階段を上がりきり、隣の部屋の自室に入ろうとする姉の背中が見えた。


「お姉ちゃんお帰り! 大会どうだった?」

いつものように、努めて明るく声をかける。

いつもなら、眠そうな目をこすりながら「……普通……」とか「……まずまず……」とか、他愛もない、気の抜けた返答が返ってくるはずだった。


──が、様子がおかしい。

姉は、立ち止まった。

けれど、振り返らなかった。

その背中からは、今まで感じたことのない、氷のような冷たい空気が漂っていた。


「……不要…………」

「え?」

聞き間違いかと思った。

しかし、姉はドアノブに手をかけたまま、低く、呪詛のように呟いた。


「………妹は、眼中にいらない……」

「……お、お姉ちゃん……?」


意味の分からない言葉に、わたしが戸惑っていると、姉はそのままスッと部屋に入ってしまう。

拒絶の気配。

「……ちょっと待って…!」

わたしは慌てて駆け寄り、ドアノブを掴んで回そうとした。

ガチャガチャッ!

開かない。

中から、鍵がかけられていた。


「お姉ちゃん!? 開けてよ! どうしたの!?」

ドンドン! とノックをする。

しかし、中からは何の返事もなかった。衣擦れの音ひとつ聞こえない、完全な沈黙。

まるで、最初からそこには誰もいなかったかのような静寂だけが、廊下に取り残されていた。


「…………」


意味が分からないまま、ドアの前で立ち尽くす。

あの日、あの一瞬の拒絶。

それが、わたしと姉の、現時点での『最後の会話』となっている。




6月中旬

「うぅ……緊張する……」

ライブ会場の控え室。

ガチガチに震えているのは、城ヶ崎杏樹だ。

彼女が身に纏っているのは、シックでエレガントな黒のドレス。


対して、パートナーの由比ヶ浜ケイは、いつもの深い青に銀のラメが星のように散りばめられたドレス。

並ぶと、まるで「夜空」と「深淵」が調和しているかのように美しかった。


「杏樹。今日のステージは今までより大きなステージだけど、今のあなたなら大丈夫」

ケイは杏樹の背中に手を置き、力強く告げた。

「あの地獄のトレーニングを耐え抜いたんだから。……自信を持って」

「……はい!」


杏樹が顔を上げ、大きく頷く。

この2カ月間。城ヶ崎杏樹の成長速度は凄まじかった。

だが、それは彼女にダンスのセンスがあったからではない。

圧倒的な『努力の量』。そしてその努力によって鋼のように鍛え上げられた肉体によって、センスの無さを物理的にカバーしていたのだ。


(……姉への想い、凄まじいわね……)

ここまで来たら、ケイも感心せずにはいられなかった。

そして、ここまで仕上げたのなら──狙うは、あの「姉」の眼中のみ。



「続いては──ケイ & 杏樹ッ!!!」

司会の声が舞台袖まで響く。

二人のスイッチが入る。

「行くわよ!」

「はい!」


ステージへの階段を駆け上がる。

眩いスポットライト。地鳴りのような歓声。

「みなさん!! よろしくお願いします!!!」

MCを担当したのは杏樹だった。

透き通るような、それでいてよく通る可愛らしい声が会場の隅々まで響き渡る。


ポロン……ダダダダダダッ!!


儚げなピアノのイントロから一転、ドラムンベースの破壊的なビートが疾走する。

由比ヶ浜ケイの代名詞『アートコア』。

二人はメロディに合わせて同時にターンを決め、ステージ中央で交差する。

そして同じ振り付けのダンスを、あえて目を合わさず、背中合わせでシンクロさせて踊っていく。


(……合わせる!)

ケイは、自分のキレをコンマ数秒遅らせ、杏樹のレベルに合わせて調整していた。

しかし、驚くべきことに「合わせる幅」は想定よりも遥かに小さかった。

杏樹のレベルが、2カ月前まで素人だったとは思えないほど向上しているからだ。

割れた腹筋と背筋、走り込みで培った下半身。

その鍛え上げられた肉体は、体幹を一切ブラす事なく、素人の拙さを「力強い美しさ」へと昇華させていた。


疾走感のあるメロディに合わせて、交互に歌詞を歌い上げていく。


『────ッ!』


そしてサビ。

二人の歌声が重なり、会場中を突き抜けていく。

ケイの『聴くものを魅了するために論理的に突き詰められた、ガラス細工のような歌声』。

そして杏樹の『力強く、どこか儚いセイレーンのような天性の歌声』。

その声を聴いた者を釘付けにする「魔力」だけは、確かに姉の『幽玄の魔声』と共通していた。


ジャンッ!!


フィニッシュ。

激しいダンスの後だというのに、二人は息一つ切らしていない。

指先まで神経の通った、美しいポーズで静止する。

一瞬の静寂。

そして──。

ワアアアアアアアアアアッッッ!!!!!

会場が爆発した。

割れんばかりの拍手と歓声が、二人に降り注ぐ。


「…………っ!」

その音を浴びた瞬間、杏樹の身体に電流が走った。


(……楽しい……嬉しい…………!)


大規模なステージでの、初めての拍手喝采。

自分に向けられた、承認と称賛の嵐。

城ヶ崎杏樹は、生まれて初めて感じる高揚感に震えていた。

それは、ただの『姉への想い』だけではない。

彼女の中に、『アイドルになる理由エゴ』が初めて芽生えた瞬間だった。



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