─第2章─7話「呼び捨て」
【由比ヶ浜ケイの受難】
6月上旬
放課後のレッスン終わり。
ケイは汗を流した杏樹を労うため、学校近くのファミリーレストランへ夕食に誘っていた。
「……杏樹ちゃん、本当にそれだけでいいの……?」
ケイの目の前には、ドリンクバーのメロンソーダと、チーズがたっぷり乗ったドリア。
対して、杏樹の元に届けられたのは――タレのかかっていない無味のブロッコリーサラダ、ただ茹でただけのパサパサの鶏むね肉、そして申し訳程度の小さなパンのみ。
「はい! この店では、これが食物繊維・タンパク質・炭水化物のベストな組み合わせなんです!」
杏樹は目を輝かせながら、フォークで鶏肉を突き刺す。
この城ヶ崎杏樹という少女。
お菓子を愛する普通の女子高生だったはずが、だんだんと減量期のプロボクサーみたいな精神性になりつつある。
姉への執着が生んだストイックさに、ケイは一抹の不安を覚えた。
そんな頭を抱えているケイに、杏樹はもじもじしながら、とある提案をした。
「あの……ケイさん……」
「ん?」
「今さらなんですけど……『杏樹』って、呼び捨てでもいいですよ……? その、一応パートナーだし……」
「……え?」
由比ヶ浜ケイにとって、それは目から鱗の提案だった。
生粋の「日陰者」ゆえに、これまで学校で仲の良い後輩などできた試しがない。
ましてや「後輩を呼び捨てにする」という強者の発想など、彼女の辞書にはなかったのだ。
(……呼び捨て。……同級生ならともかく、ハードル高いわね)
だが、杏樹の瞳は真剣だ。ユニットとしての絆を深めたいという意思表示。
先輩として、それに応えないわけにはいかない。
「……じゃ、じゃあ……よろしくね……杏樹!」
「はい!」
杏樹が嬉しそうに微笑む。
いつものケイなら、ここで会話は終わる。気まずい沈黙が流れてスマホをいじりだすところだ。
だが今回は違う。ケイは移動中からシミュレーションしていた、一番気になっていた疑問を投げかけた。
「あのさ……杏樹。お姉さんとは普段、どんな会話をしてたの?」
杏樹は飲んでいた水をトンッと置いた。
「えっと……他愛もない会話ですよ? 今日の天気の話とか、コンビニの新発売のお菓子の話とか……」
「へ、へぇ……」
(……あの幽霊(莉杏)に、『他愛もない話』をする能力があるのか……)
ケイは驚愕した。
「不協和音」「軟体動物」「幽玄の悪夢」。
そんな単語で構成された莉杏が、「今日はいい天気ね」などと会話する姿が想像できない。
「……お姉さんとの会話は、楽しいの?」
「はい! とっても!」
即答だった。
その曇りのない笑顔を見た瞬間、ケイの胸がチクリと痛んだ。
(……ごめんね)
そもそも、莉杏がおかしくなったのは、準決勝で『ケイが城ヶ崎莉杏を倒してしまった』事が原因だ。
彼女たちの平穏な日常を壊したのは、他ならぬ自分自身。
ケイは深い罪悪感を覚えた。
「……なら、また話せるように、練習頑張らなくちゃね」
ケイは罪悪感を必死に押し殺し、先輩としての笑顔を作った。
「はい! 頑張ります!」
杏樹は元気よく返事をし、再び無味の鶏肉を口に運んだ。
そして今度は、杏樹がケイに質問を投げかける番だった。
「そういえば……ケイさんは、なんでアイドルチャンピオンなのに普通科なんですか?」
「うっ……」
痛いところを突かれた。
普通なら、これだけの実績があればアイドル科に転科するのが自然だ。
「あぁ……それはね。アイドル科に入っちゃったら、芸能活動での欠席が『公欠扱い』になる制度があるから……」
「公欠?」
「そう。私は学校を休みたくないし、そもそも土日以外働きたくないっていうか……」
「へぇ……?」
不思議そうに相槌を打つ杏樹から目を逸らしながら、ケイは深い溜め息をついた。
(……それに、普通科に籍を置いていれば、まだワンチャン、『普通の生活』に戻れる可能性が……)
まだ諦めていないのだ。
いつかほとぼりが冷めたら、また図書室の隅で本を読む「日陰者」に戻れるはずだという、儚い希望を。
だからアイドル科という「引き返せない場所」には行かない。
それは、ケイなりの往生際の悪さであり、最後の抵抗だった。
そんな言い訳のように思考を巡らせる由比ヶ浜ケイをよそに、杏樹は鶏むね肉をもぐもぐと食べ進めていた。
大会まで、残り約1ヶ月。
準備期間は、もう折り返し地点を過ぎていた。




