─第1章─31話「由比ヶ浜ケイの葛藤」
【由比ヶ浜ケイの受難】
決勝戦、直前。
ステージ中央で行われたコイントス。
チャリーン……。
高く弾かれたコインが、審判の手の甲に落ちる。
「……表」
「――先攻で!」
神野愛理は迷わず即答した。
「あたしの世界は決して塗り替えられない」。
後攻の有利不利など関係ない。あたしが先に全てを焼き尽くして終わらせるという、絶対王者の絶対的な自信。
二人は無言のまま、互いの手をギリリと音が出るほど強く握りしめ、それぞれの舞台袖へと消えていった。
【先攻:神野愛理】
『元天才子役……劣化……誰かの下位互換……』
その耳にこびりついた呪いのような雑音。
自分に降りかかる理不尽な言葉を、実力という暴力でねじ伏せるべく、神野愛理は全てをぶつける。
バッッッ!!!
黄金と深紅のドレス。豪華なフリルと装飾が施された衣装を身に纏った神野愛理が、ステージに降臨する。
挨拶はない。いきなりイントロが始まった。
ドガガガガガッ!!
明るく、激しく、全てを巻き込む爆発的なアップテンポナンバー。
『ビッグバン・イグニッション』。
ケイが以前、彼女のライブで目撃したあの曲だ。
豪快かつ華麗なターン。
遠心力でスカートが花のように開き、黄金のポニーテールが光の軌跡を描く。
爆発的で情熱的、それでいて優雅。
指先の所作ひとつ、視線の配り方ひとつにまで、計算され尽くした「可愛らしさ」と、生まれ持った天性の「カリスマ」が宿っている。
しかし。
舞台袖で見守るケイは、違和感を覚えた。
(……何かが、おかしい)
確かに会場は盛り上がっている。歓声も地鳴りのようだ。
けれど、『以前のような観客と愛理が調和するような一体感』が感じられない。
今の愛理は、観客と一緒に楽しんでいるのではない。観客を「置き去り」にしている。
あまりにも眩しすぎる光で、全てを焼き尽くし、灰にしようとしている。
「愛理さん……焦ってる……」
こんなちっぽけな大会、圧倒的に優勝しなければならない。
その強迫観念にも似た重圧が、彼女の歯車をわずかに狂わせ、独走させている。
だが、それでも腐っても神野愛理。
そのパフォーマンスは今大会間違いなく最高峰であり、直視できないほどの輝きで観客たちを強制的に熱狂させていた。
ジャァァァァン!!
フィニッシュ。
全く息を切らさず、完璧に美しいポーズを決める。
その瞬間、今大会一番の歓声と拍手が神野愛理に送られた。
「ありがとーーーーー!!!!!!!」
最高の笑顔でファンサービスを済ませ、舞台袖に引いていく神野愛理。
そして、すれ違いざま。
彼女は由比ヶ浜ケイを見て、一瞬だけニヤリと笑った。
『絶望した?』と言わんばかりに。
「…………」
由比ヶ浜ケイの足はすくんでいた。
震えが止まらない。
本当に勝てるのか? 曲は未完成。身体は満身創痍。
そもそも、万全な状態でもあの怪物に勝てる確率は限りなくゼロに近い。
(……そもそも、なんで私はこんなところにいるんだろう)
文化祭での事件がなければ。
本来、この時、この瞬間も、誰にも注目されず、部屋の隅で本でも読んでいたはずだ。
『日陰者』の自分が、本当にこんな大きな事を成し遂げられるのか?
こんな事やる必要あるのか? なぜ自分なんだ?
今さら、どうしようもなく初歩的で、答えのない疑問が湧き上がる。
逃げ出したい。
「後攻!! 由比ヶ浜ケイッ!!!」
MCのアナウンスが無慈悲に響く。
ケイは鉛のように重い足を引きずり、仕方ないという気持ちだけでステージに向かった。
眩しい
視界を埋め尽くすのは、眩しすぎるスポットライトと、海のようなサイリウムの光。
(……ああ)
その光景を見た瞬間、ケイの中にストンと落ちるものがあった。
(……そうだ。もう私は、私だけの『由比ヶ浜ケイ』じゃない……)
自分を信じて曲を書いてくれた人。
特訓をつけてくれた師匠。
涙を飲んだライバルたち。
迷惑だけど自分のために奔走してくれるマネージャー
そして何より、期待と羨望の眼差しでステージを見に来てくれる、5000人の観客。
由比ヶ浜ケイは、どこまで行ってもお人好しだ。
『誰かのため』と言われれば、ため息をつきながら役割をこなしてしまう。
自分のためには頑張れないが、他人のためなら限界を超えてしまう。
だからこそ、『日陰者』として身を隠すように生きてきた。
(……悪くない)
そう思った瞬間。
不思議と、身体の節々を走っていた激痛が消えた。
恐怖によるノイズが消え、思考が一気にクリアになる。
(勝ちたい……!)
由比ヶ浜ケイは静かに目を閉じた。
呼吸を整える。
今の身体の状態、会場の空気、愛理が残した熱量。
全ての変数を計算し、勝つための、そして観客を魅了するための『最適解』を導き出し始める。
目を開けた時、そこにはもう迷える少女はいなかった。
ただ勝利のみを見据える、一人のアイドルが立っていた。




