─第1章─25話「開戦」
【由比ヶ浜ケイの受難】
3月・決戦の朝
「いよいよね……」
3月某日。『朝陽ノアイドルチャンピオンシップ』当日。
学校近くの大型ライブホールを貸し切って行われるこのイベントには、生徒のみならず一般客も含め5,000人を超える観衆が詰めかけていた。もはや一高校の行事ではなく、興行として成立している規模だ。
楽屋のパイプ椅子に座り、由比ヶ浜ケイは冷たい感触とプレッシャーに耐えていた。
身に纏っているのは、深い青を基調とし、銀のラメが天の川のように散りばめられたドレス衣装。
スポットライトを浴びれば、まるで夜空そのものを着ているかのように輝く、「クール系アイドル・由比ヶ浜ケイ」の完成形だ。
(……坂本雅さんとの地獄の3日間。そして、御空ユミとの2カ月にも及ぶ共同レッスン)
鏡の中の自分を見つめる。
そこには、もう「逃げ腰の素人」はいなかった。
基礎を叩き込まれ、エリートと競い合い、技術と自信を武装した「戦士」の顔があった。
「……でも、結局間に合わなかった……というか、最後まで形にできなかったわね……決勝用の曲は」
ケイは独りごちた。
そう、瓦が持ってきた4曲目。あの「シンフォニック・アートコア」は、ケイにとってあまりにも難易度が高すぎたのだ。
BPM200越えの高速ビート、転調の嵐、そして酸欠必至のロングトーン。
坂本雅の基礎レッスンと御空ユミとの特訓を経てもなお、あの曲を「踊りながら完璧に歌う」領域には到達できなかった。
結果、未完成のまま当日を迎えてしまったのである。
(……ま、いいわ)
ケイは軽く肩をすくめ、ボトルの水を一口飲んだ。
(そもそも決勝まで行くつもりなんてないし。……曲は他にもあるんだから、大丈夫よね)
無理して自爆するより、完成度の高い既存曲で堅実に戦う方が賢い。
ケイはそう結論づけ、思考を切り替えた。
「よしっ!」
ケイは頬を両手でパンっ! と叩いて気合を入れる。
その音を合図に、マネージャーの瓦幸慈がタブレット端末を提示した。
「じゃあ、最終確認だよケイちゃん」
画面には、アイドル科の精鋭15人と、唯一の普通科枠であるケイを含めた計16人のトーナメント表が表示されている。
勝敗は、会場の観客による専用アプリでのリアルタイム投票で決まる。人気と実力が可視化されるシビアなシステムだ。
「まず、逆側のブロックを見て。……優勝候補の神野愛理、そして御空ユミはこっちにいる」
「……怪物たちの巣窟ね」
「うん。順当にいけば、この二人は準決勝で激突する。事実上の決勝戦だね」
瓦は指をスライドさせ、ケイがいるブロックを指し示した。
「一方、こっちの山には『美霊』こと城ヶ崎莉杏先輩がいる。もしケイちゃんが勝ち進めば、準決勝で当たることになるよ」
「勝ち進めば……ね」
あの幽霊のような、幽玄の悪夢を魅せた『神の領域』。
想像するだけで胃が痛くなるが、まずは目の前の敵だ。
「ケイちゃんの1回戦の相手は、2年生の南 美香先輩」
画面に、愛らしい正統派アイドルの写真が映し出される。
「ずば抜けた個性はない。けれど、歌、ダンス、MC、ファンサ……全てのパラメータが高いレベルで安定している。いわゆる『プロフェッショナルなスタンダード』だね。ミス待ちじゃ絶対に勝てない相手だよ」
隙のない中堅実力者。
奇策や一発芸で乗り切ってきたケイにとって、最も相性の悪い「地力の差」が出る相手だ。
瓦はタブレットを下ろし、真剣な眼差しでケイを見据えた。
「相手は格上。……ケイちゃん、作戦は?」
ケイは不敵に顔を上げた。
その瞳には、ギラリとした鋭い光が宿っていた。
「作戦?」
ケイは静かに、しかし力強く答えた。
「正面突破。……真っ向から、叩き潰すわ」
1回戦が幕を開けた
【先攻:南美香】
「こんにちはーー!!! みんな、盛り上がっていきましょーー!!!」
MCの紹介と共に、弾けるような笑顔と可愛らしい声がホールに響き渡った。
舞台袖から飛び出してきたのは、2年生の南 美香。
彼女がマイクを握ると同時に、会場のサイリウムが一斉にピンク色に染まる。
流れたのは、BPM170越えの王道アイドルソング。
キラキラしたシンセ音に、キャッチーなサビ。誰もが「これぞアイドル」と頷くような、教科書通りのナンバーだ。
「ハイ! ハイ! ハイ!」
南のパフォーマンスは完璧だった。
指先まで意識の行き届いたダンス、決してブレない笑顔、そして観客を煽るタイミング。
ずば抜けた個性はない。だが、その「減点箇所が一つもない」という完成度の高さこそが彼女の武器。
観客たちは安心して彼女の世界に身を委ね、コール&レスポンスを楽しんでいた。
「ありがとーー!!! 大好きだよーー!!!」
曲が終わり、南が大きく手を振って舞台袖に戻る。
会場の空気は完全に温まりきっていた。いや、彼女の愛らしさによって『支配』されていたと言っていい。
誰もが「やっぱり南美香は凄い」「これは勝負あったか?」と思ったことだろう。
だが。
舞台袖で控えていた由比ヶ浜ケイの瞳は、少しも揺らいでいなかった。
勝つ気はないが、『負ける気もない』。
なぜなら、今の私には最強の師と、最強のライバルの血が流れているからだ。
「後攻! 由比ヶ浜ケイ!!!」
【後攻:由比ヶ浜ケイ】
MCの声を聞き、ケイはゆっくりとステージへ歩みを進める。
愛想は振りまかない。手も振らない。
ただ、夜空のドレスを翻し、ステージの中央に立つ。
ケイは一言も発さず、静かに構えに入った。
会場が水を打ったように静まり返る。
ポロン……ポロン……
流れ出したのは、悲しげで美しいピアノの旋律。
観客が「バラードか?」と思った、次の瞬間。
ダダダダダッ!! ズガガガガッ!!
激しいドラムンベースと、切り裂くようなシンセサイザーが疾走する。
由比ヶ浜ケイの代名詞となりつつある「アートコア」だ。
ケイが動く。
大きく振った腕は、鋭く、それでいて空気を撫でるように繊細な軌道を描く。
そのまま音を感じさせない、氷の上を滑るような滑らかなターン。
(……見える)
派手なアクロバットも、過剰なファンサービスもない。
だが、その一つ一つの所作が、見る者の視線を釘付けにする。
坂本雅から叩き込まれた「体幹と呼吸」。
御空ユミと競い合って磨いた「キレと表現力」。
それらが融合し、ケイの武器である「柔のクール」は、極限まで研ぎ澄まされていた。
そして、歌声。
激しいビートの波間を縫うように、透き通るような、それでいて5000人の鼓膜の奥まで届く優美な高音が響き渡る。
それは「歌」というより、一つの「楽器」のような美しさだった。
ジャンッ……
フィニッシュ。
ケイは息一つ切らさず、静かに、そして優雅にポーズを決めた。
南美香が作った「熱狂」を、一瞬にして冷たく美しい「静寂」で上書きし、そして――。
ワアアアアアアアアアッ!!!!!
次の瞬間、爆発的な歓声と拍手が会場を包み込んだ。
「すげぇ……」「鳥肌立った……」「あの子、化けたな」
どよめきが止まらない。
【投票結果】
スクリーンに、リアルタイム集計の結果が表示される。
南 美香:32%
由比ヶ浜ケイ:68%
圧勝。
小細工なし。奇策なし。
純粋なパフォーマンスの技術と世界観だけで、実力者の先輩をねじ伏せた完全勝利だった。
舞台袖。
「……ふふ、完敗ね」
戻ってきたケイに、南美香が苦笑しながら近づいてきた。
その目には悔しさはあれど、憎しみはなかった。
「ナイスパフォーマンスだったわ、由比ヶ浜さん。……悔しいけど、見惚れちゃった。決勝まで頑張って!」
「……はい!」
差し出された手を、ケイはギュッと握り返した。
先輩の手は温かく、そして震えていた。その震えを感じ取り、ケイは改めて「勝負の世界」の重さを知る。
こうして、朝陽ノアイドルチャンピオンシップ1回戦。
由比ヶ浜ケイは、誰もが認める実力で初戦を突破した。
しかし、これはこれから始まる激戦の序章に過ぎなかった…。




