─第1章─21話「伝説のレッスン」
【由比ヶ浜ケイの受難】
1月上旬の放課後。
底冷えするレッスン室に、信じられない人物が立っていた。
「よろしくね、由比ヶ浜ケイさん」
坂本 雅。51歳。
かつてトップアイドルとして一世を風靡し、クール&ビューティーの始祖と呼ばれた伝説の存在。
芸能界を引退し、長い隠居生活を送っていたはずの彼女が、目の前で優しく微笑んでいる。
男性のように短い黒髪のショートヘアに、品のある顔立ちの淑女。未だにその美貌は衰えておらず、現役時代を知らないケイですら息を呑むオーラがあった。
雅はニコニコと続けた。
「あ、お金の事は本当にごめんなさいね〜! 引退した身だから断ろうと思ったんだけど……提示された額がすごくて。ほら、ギャラって信頼の証だから」
「い、いぇ……」
緊張と絶望で、ケイの声が小さくなる。
(あのマネージャーは、私の口座を空にする気か…!)
「由比ヶ浜ケイ!」
バンッ!
レッスン室の扉が勢いよく開かれ、冷気を纏った少女が颯爽と登場した。
御空ユミだ。
「あたしもそのレッスンに参加させて。……今のままでは、神野愛理と城ヶ崎先輩には勝てない」
彼女は真剣な眼差しで、真っ直ぐとケイ、そして伝説の講師を見据えた。
冬季ライブでの敗北が、彼女のプライドに火をつけたのだろう。
「私はいいけど、お金は大丈夫かしら? 個人レッスンだから割高よ」
雅が穏やかにたずねる。
「大丈夫です。あたしもアイドル、稼いでますから」
フッ……!
御空はドヤ顔で答え、胸を張った。腐ってもエリート、資金力には自信があるようだ。
すると坂本は「頼もしいわね」と微笑み、ポケットから一枚の紙――明細書を取り出し、手渡した。
「っ……!?」
紙を見た瞬間、御空の動きが停止した。
数秒。十数秒。
彼女の美しい顔が凍りつき、脂汗が滲み、眉間に深いシワが刻まれていく。
「…………分かりました」
絞り出すような声だった。
エリートでも躊躇し、数秒の葛藤を要するほどの大金。
(……一体どれだけ注ぎ込んだんだ、あのバカマネージャーは……)
ケイは顔を引きつらせた。
そこから3日間、トップアイドルの技を叩き込まれる地獄の特訓が始まった。
坂本雅は今でこそ柔和な淑女だが、かつては「クール&ビューティー」な立ち振る舞いとパフォーマンスで世間を熱狂させたカリスマ。
そんな彼女のレッスンメニューに、小手先の飛び道具は一切なかった。
「背筋。呼吸。目線。……アイドルは立ち姿だけで語るの」
徹底的な基礎。
地味だが、ごまかしの利かない「核」の部分を、容赦なく鍛え上げられる。
「はいっ! 坂本さん!」
御空は憧れのレジェンドを前に、常に宝石でも見るかのようなキラキラした目で見つめ続けていた。
あの狂犬のような御空ユミが、忠実な弟子になっている。
一方、ケイは持ち前の「観察眼」をフル稼働させていた。
坂本の教えはもちろん、隣で踊る御空の動きも盗む。
(……なるほど。御空さんの動きには「タメ」がある。だから力強く見えるのね)
一度教わった技や動作を理屈で分解し、即座に自身の体へインストールする。
この3日間で、ケイは御空が持つ「剛のクール」のエッセンスをも掴みつつあった。
そしてレッスン最終日。
「お疲れ様! 二人とも、本当によく頑張ったわね!」
坂本から修了のエールが送られる。
「ありがとうございました」
深々と礼をするケイに、坂本は感心したように言った。
「あなたは飲み込みが早いわね。教えたことを自分の色に変換する才能がある。絶対伸びるわよ、今度は応用に挑戦してみたら?」
(……伸びたら困るんです。目立ちたくないんです)
ケイは内心で悲鳴を上げつつ、完璧な愛想笑いで対応した。
一方の御空は、感極まって涙目だ。
「ありがとうございました。……必ず、優勝します」
「あら、いい心意気ね! 頑張って! あなたは誰よりも向上心と意志が強いから、きっと凄く良いアイドルになれるわ!」
坂本は優しい聖母のような笑みを浮かべ、二人の頭を撫でた。
だが。
ふと、彼女の表情が曇った。
何か、言いづらそうに、申し訳なさそうに視線を落とす。
「ただ……ごめんなさいね」
「え?」
伝説のアイドルは、遠くを見るような目で呟いた。
「神野愛理ちゃんは……全盛期の私でも、勝てるか怪しいわ」
「…………」
衝撃の一言に、場が凍りついた。
あのプライドの高い御空ユミすら、言葉を失っている。
「それじゃあ、二人とも頑張ってね! 応援してる!」
坂本雅は再びニコニコとした笑顔に戻り、颯爽とレッスン室を去っていった。
残されたのは、重すぎる事実。
「……」
ケイは震えた。
普段、無責任に笑い、自分に大型犬のようにまとわりついてくる友人。
彼女は「天才」などという言葉では片付けられない、歴史上の特異点なのかもしれない。
神野愛理という底知れぬ深淵を覗き込み、由比ヶ浜ケイは恐怖すら覚えていた。




