由比ヶ浜ケイの受難─第1章─17話「幽玄の悪夢」
【由比ヶ浜ケイの受難】
幽霊のような、花嫁のような黒と白ドレスに身を包んだ城ヶ崎莉杏がふらりとステージに現れた。
暗転したステージに、不穏なピアノの音がポツリ、ポツリと落ちる。
リズムはない。メロディの法則性もない。
観客が「なんだ?」とざわつき始めたその瞬間、莉杏が歌い出した。
「――アァ……」
その第一声で、世界が塗り替えられた。
由比ヶ浜ケイの秘策、あの「雪解けの微笑み」が残した甘い余韻を、たった一音で上書きし、彼方へと押し流す儚くも力強い「セイレーンのような歌声」。
曲調は、現代音楽とダークオペラを融合させたような、美しくも狂気的な『カオス・アンビエント』。
次にどの音が来るのか、どこで転調するのか、音楽理論を知る者ほど混乱する複雑怪奇な構成。
不協和音の連続なのに、莉杏の声が乗ることで、それが至高の芸術へと昇華される。
耳にこびりつき、脳を直接撫で回されるような、甘美な毒。
そして、ダンス。
莉杏の身体が、ありえない角度で曲がった。
関節が存在しないかのような、あるいは重力の枷を外された軟体動物のような、人間離れしたしなやかさ。
奇妙で、怪奇で、グロテスク。
なのに、どうしようもなく美しい。
指先一本、髪の一筋に至るまで一寸の狂いもなく制御されたその動きは、見る者の平衡感覚を狂わせる。
(……あぁ、これは)
舞台袖でそれを見つめるケイの背筋に、震えが走った。
かつて、神野愛理のライブを初めて見た時に感じた、あの感覚。
人間が立ち入ることのできない、『神の領域』。
努力や計算、理屈で積み上げたものを、天性の暴力で蹂躙する圧倒的な才能の差。
曲の終わり。
混沌とした旋律が唐突に途切れ、静寂が訪れる。
城ヶ崎莉杏は、ゆっくりと顔を上げ――微笑んだ。
「…………」
それは、ケイが見せた「守りたくなる聖母の微笑み」とは対極にあるものだった。
全てを見下ろし、慈しみ、同時に畏怖させる「神々しい威厳」に満ちた笑み。
美しく、恐ろしい。
パフォーマンスが終わる。
数秒間、体育館は真空になったかのように静まり返った。
生徒たちは圧倒されすぎて、反応を忘れていたのだ。
やがて、パチ……パチ……とまばらな音が鳴り始め、それは瞬く間に、体育館の屋根を吹き飛ばすかのような今日一番の爆音の拍手へと変わっていった。
舞台袖。
全てを出し尽くし、幽霊のように戻ってきた莉杏は、呆然とするケイと、魂の抜けた顔で立ち尽くす御空ユミの前で足を止めた。
彼女は、普段の気だるげな表情に戻りつつ、少しだけバツが悪そうに言った。
「……ごめん……あんたらの熱に当てられて………本気、出しちゃった……」
ふにゃりと力なく微笑むと、彼女はふらふらとその場を後にした。
その背中を、ケイは目を丸くして見送ることしかできなかった。
一方、ステージを見つめる御空ユミは、ピクリとも動かなかった。
絶対零度の自信、計算された演出、プライド。
その全てが、遥か高みからの「本気」によって、跡形もなく消し飛ばされていた。
全校生徒による投票結果が、スクリーンに映し出される。
その数字は、残酷なまでの現実を示していた。
・城ヶ崎莉杏:297票
・御空ユミ:41票
・由比ヶ浜ケイ:39票
・その他:97票
城ヶ崎莉杏には、一つの伝説があった。
中学時代、一度だけ「本気」を出して、観客が一生忘れられないほどのライブをしたことがあるという。
しかし、そのライブは小規模で目撃者が極端に少なかったため、実しやかに語られる「幽霊伝説」となっていた。
今日、その伝説は真実となった。
「眠れる美霊」がその瞳を開き、幽玄の悪夢を魅せた冬の一日。
こうして冬季ライブは、由比ヶ浜ケイの『挑戦』は幕を閉じたのだった。




