由比ヶ浜ケイの受難─第1章─13話「美霊」
【由比ヶ浜ケイの受難】
「はぁ……どうしてこうなるのよ……」
御空ユミからの理不尽な宣戦布告を受け、由比ヶ浜ケイは廊下をトボトボと歩いていた。
普通科のド素人が、アイドル科の精鋭たちと同じステージで票を争う。それは公開処刑以外の何物でもない。
キリキリと痛む胃を押さえながら、角を曲がろうとした、その時だった。
「………あなたが……ケイ……?」
「わっ!?」
突如、眼前に白い顔がぬっと現れた。
ケイは驚き、心臓を跳ねさせながら一歩後ずさる。
そこに立っていたのは、幽霊のように気配のない一人の女子生徒だった。
色素の薄い銀髪のロングヘア。目鼻立ちは整っているが、それを台無しにするほどの気だるさが全身から漂っている。
覇気のない灰色の瞳は半開きで、目の下には濃いクマ。
まるで三日徹夜したゲーマーか、重度の低血圧を患った吸血鬼だ。
「……城ヶ崎 莉杏……アイドル科2年……よろしく………」
彼女は、今にも寝落ちしそうなスローテンポで自己紹介をした。
「はぁ……よろしくお願いします……(この人がアイドル科……?)」
ケイは困惑しつつ頭を下げた。
キラキラしたオーラの愛理や、凛とした美しさの御空とは全く違う。
どちらかと言えば、教室の隅で一日中突っ伏して寝ているタイプに見える。これがプロの卵なのか?
莉杏は、その虚ろな瞳でじっとケイを見つめ、ボソリと言った。
「……ユミに、喧嘩売った……」
「いや……喧嘩は売ってないです……」
ケイは即座に否定した。
(売ったのはあの狂犬マネージャーであり、私は巻き込まれたただの被害者だ)と心中で必死に弁解する。
「……それ……アイドル科に喧嘩売ったも……同じ………」
「え? いや、ちが……」
「……世間は、そういう……認識………」
その言葉に、ケイはハッとした。
(……世間は、そういう認識?)
目の前の少女は、世間体などを気にする雰囲気ではない。
だが、その言葉の意味を咀嚼した瞬間、ケイの背筋に悪寒が走った。
客観的に今の状況を見てみよう。
『普通科の無名アイドル(ケイ)が、アイドル科のエリート(ユミ)に挑む』。
この構図は、周囲からどう見えるか。
もしケイが、「どうせ勝てないから」と適当にやって、手も足も出ずにボロ負けした場合――。
『身の程知らずの素人が、調子に乗ってプロに喧嘩を売って、返り討ちに遭った』
『喧嘩売ったくせに、実力差も分からないダサい奴』
『所詮は一発屋』
そんなレッテルを貼られることになるだろう。
ただでさえ「生意気だ」「調子に乗ってる」と思われているのに、これに「無様な敗北者」という属性が追加されれば、由比ヶ浜ケイの平穏な高校生活は完全に終わる。社会的死だ。
(……まずい。これは、ただの参加じゃ済まされない)
勝たなければ――いや、せめて「互角の勝負」、「普通科だけどやるじゃないか」と観客に思わせなければ、私はただのピエロだ。
追い込まれた。逃げ道だと思っていた「適当にやって負ける」という選択肢すら、封じられていたのだ。
ケイの顔色がみるみる青ざめていくのを見て、莉杏は口元をわずかに歪めた。
「…………楽しみね……フフ………」
不気味な含み笑いを残し、彼女はゆらりとその場を去っていった。
足音もなく歩く姿さえ、どこか亡霊めいている。
「……瓦さん」
ケイは、自身の背後で「あのアンニュイな感じもイイ!」と猛烈な勢いでメモを取っているマネージャーに尋ねた。
「あの人、何者?」
「城ヶ崎莉杏先輩だよ! 御空さんほどじゃないけど『美霊』の異名を持つ実力者! あの人には『幽霊伝説』があってね……」
「美霊……ねぇ」
(確かに、綺麗だったな……)
何かを熱く語る瓦の声をBGMに聞き流しながら、由比ヶ浜ケイは去っていった城ヶ崎莉杏の後ろ姿に思いを馳せた。
アイドル科には、まだあんな底知れない怪物が潜んでいるのか。
前門の絶対零度、後門の美しき亡霊。
由比ヶ浜ケイの「冬季ライブ」への道は、前途多難などという言葉では生温いほどの茨の道だった。




