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由比ヶ浜ケイの受難─第1章─10話「ねぎらい」

【由比ヶ浜ケイの受難】


放課後。由比ヶ浜ケイは、マネージャーである瓦幸慈を呼び出した。

瓦の暴走には常に胃を痛めているが、どんなに方向性が間違っていようとも、彼女がケイのために尽力してくれているのは紛れもない事実だ。

根がお人好しなケイは、何か労いをしてあげなければと義務感に駆られたのだ。

「瓦さん。いつもありがとう。お礼に何か奢るわ」

「えっ!? デート!? ケイちゃんとデート!?」

「……ただの食事よ」

ケイは適当なファミレスか牛丼屋で済ませようと考えていたのだが、瓦は目を輝かせて主張した。

「スタバ! スタバ行きたい! 新作のフラペチーノ飲みたい!」

「……ス、スタバ?」

あのお洒落ヒエラルキーの頂点に君臨する魔窟か。

ケイは一瞬怯んだが、彼女の熱意に押し切られ、駅前の店舗へと足を踏み入れることになった。


店内はキラキラした女子高生やカップルで溢れ返っていた。

その空気に飲まれそうになるケイを尻目に、瓦は手慣れた様子でカウンターへ向かった。

「えーと、キャラメルフラペチーノのトールサイズで、ホイップ増量、ソース多め、あとチョコチップ追加で!」

流れるようなカスタム注文。

意外にも瓦幸慈は、ケイさえ絡まなければ普通に友達と遊ぶような『ごく普通の少女』なのだ。

そして、ケイの番が回ってきた。

(落ち着け。ネットで調べた通りに頼めばいい……『スターバックスラテの……』)

「ご注文はお決まりですか?」

店員さんの眩しい笑顔に向けられた瞬間、ケイの脳内のメモ帳が白紙になった。

「あ……えっと……」

後ろに並ぶ客の視線が痛い。早くしなきゃ。何か頼まなきゃと焦燥感が募る。

「……コーヒー。ホットで。一番小さいやつ」

「ドリップコーヒーのショートですね。以上でよろしいですか?」

「は、はい」

逃げるように会計を済ませた。

渡されたのは、何の飾り気もない、ただの黒い液体。いわゆる「裸のコーヒー」だ。

席に着くと、瓦がケイのカップを見て目を丸くした。

「うわぁ……何も入れないの? ブラック?」

「……ええ、まあ。素材の味を楽しみたいから」

「すごい! 硬派だねケイちゃん! クールでカッコいい~♡」

震え声での言い訳だったが、瓦は頬を染めて身悶えした。

ケイは引きつった笑いを浮かべるしかない。ただの敗北も、信者のフィルターを通せば「あえての無骨」に変換されるらしい。

「私、こういう店初めて来たのよ。注文の仕方、よく分からなくて」

ケイが素直にこぼすと、瓦は極彩色のフラペチーノをかき混ぜながら、悪気なく言い放った。

「まあね~! ケイちゃんこういうとこに縁なさそうだもんね! 仕方ないよ!」

「…………ッ」

直球が胸に刺さった。

自覚はある。あるが、他人に、しかも部下のマネージャーに面と向かって言われると腹が立つ。

「あ、それでねケイちゃん! 今後のスケジュールのことなんだけど~」

瓦が仕事モードに入ろうとした。

ケイは疲弊していた。学校帰りくらい、仕事から離れたい。

「待って、瓦さん」

ケイは彼女の言葉を遮り、ふっと息を吐いて言った。

「今日は仕事の話はなし。……たまには瓦さんと、他愛もない話がしたいな」

その瞬間、瓦の動きが止まった。

彼女の顔がみるみる赤くなり、口元がだらしなく緩む。

「ひゃ……ケイちゃん……それ、イケメンすぎ……」

(……よし。これで平穏なティータイムが過ごせるわ)

ケイは自分が無自覚に「タラシ」のテクニックを使ったことに気付かず、ただ話題を変えられたことに安堵した。


しかし、ケイは致命的なミスを犯していた。

彼女には「他愛もない話」をするスキルが皆無だったのだ。

「え、えっと……! じゃあね、この前のテストどうだった!?」

瓦が話題を振ってくれた。

「……まぁまぁよ」

「…………」

会話終了。

「まぁまぁ」の先に何もない。具体的な点数も、難しかった教科の話も出てこない。

沈黙が流れる。

「あ、あはは! そ、そうだよね! ……あ、見て! 今日天気いいね!」

瓦が窓の外を指差してリカバーを図る。ケイは窓を見た。

「そう? ……予報だと下り坂だし、ちょっと曇ってるわよ」

「…………」

再びの沈黙。

事実を述べただけだ。しかし、会話のキャッチボールとしては「剛速球で受け止めて地面に叩きつけた」に等しい。

ストローでズズズ……と最後の一滴を啜る音が、気まずく響く。

瓦は空になったカップを置き、無邪気な、本当に悪気のない笑顔でケイを見つめた。

「あのさ、ケイちゃん」

「な、なに?」

「ケイちゃんって、顔もいいし才能もあるし素敵だけど……」

「……うん」

「つまんないよね!」

「うっ……………」

頭上からタライが落ちてきたような衝撃だった。

「つまんない」。そのシンプルな五文字が、直球でケイに突き刺さる。

ショックで固まるつまらない女を置いて、瓦は「じゃあ帰ろっか!」と元気に席を立った。

スタバの甘い香りの漂う店内に、ブラックコーヒーよりも苦い由比ヶ浜ケイの敗北感だけが残された。


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