第9話 断罪は甘く濃厚なガトーショコラと共に
「――聞こえなかったか? その汚い手を離せと言っている」
アレクの一言で、会場の空気がピキリと凍てついた。
黄金のオーラを纏った彼は、幽鬼のような足取りで壇上から降りてくると、私の腕を掴んでいるギルバートの手首を、無造作に握りしめた。
ミシッ。
「あ、が……ッ!?」
骨が軋む嫌な音が響く。
ギルバートの顔が苦痛に歪み、反射的に私の腕を離した。
「い、痛い! 何をする! 無礼だぞ! 私は王国の第一王子だ!」
ギルバートは涙目で喚き散らし、自分の手首をさすった。
その滑稽な姿を、アレクはゴミを見るような冷徹な瞳で見下ろしている。
「王国の王子? それがどうした」
アレクの声は低く、そして重い。
周囲の貴族たちが怯えるほどの覇気。それが『竜の力』を持つ皇帝の本気だ。
「貴様、我が帝国の領土で、我が帝国の法を犯し、あまつさえ……私の『心臓』に触れたな?」
「し、心臓だと……? 何を訳のわからないことを!」
「その女性だ」
アレクが私の肩を抱き寄せ、強く引き寄せた。
温かい体温と、安心させるような香りが私を包み込む。
「セシリアは、ただの給仕ではない。この国の食文化を根底から覆し、民と兵士に活力を与えた『救国の女神』であり――私が唯一愛し、求婚している未来の皇后だ」
「な……ッ!?」
ギルバートとリナが、信じられないものを見る目で私とアレクを交互に見る。
「こ、こいつが皇后だと!? バカな! こいつは可愛げのない、追放された悪役令嬢だぞ!?」
「可愛げがない? 貴様の目は節穴か?」
アレクは鼻で笑った。
「彼女の料理への情熱、食材への慈愛、そして何より……美味いものを前にした時の笑顔。この世の何よりも愛おしい。貴様らには、その価値を理解する資格すらない」
アレクがそう言い放つと、会場にいた帝国の貴族たちが一斉に頷いた。
「そうだそうだ! セシリア様の料理は最高だ!」
「我々の胃袋はもうセシリア様の虜なのだ!」
「あんな素晴らしい手まり寿司を作れるお方が、悪役令嬢なものか!」
会場中から湧き上がるセシリア・コール。
美味しい料理の威力は絶大だ。彼らは完全に私の味方だった。
「ひ、ひぃぃ……」
圧倒的なアウェイ感に、リナがギルバートの後ろに隠れる。
ギルバートは顔面蒼白になりながらも、まだ悪あがきをしようとした。
「だ、だが! 帝国と王国は友好関係にある! たかが女一人で、両国の関係を悪化させるつもりか!」
外交問題を盾にするとは、小賢しい。
だが、相手が悪かった。
「友好? ……勘違いするな」
アレクがスッと目を細めた。
その瞬間、会場の温度がさらに一度下がった気がした。
「セシリアを侮辱することは、このヴァルドリア帝国全土を敵に回すことと同義だ。貴様らがそのつもりなら、我が国は全力で相手になろう。……我が竜騎士団と、セシリアの飯で強化された最強の兵士たちがな」
「ひっ……!」
ギルバートが腰を抜かし、その場にへたり込んだ。
本気だ。この皇帝は、私一人のために国を滅ぼすと言っている。
「衛兵! この無礼者どもを会場から摘み出せ。二度と私の視界に入れるな」
「はっ!!」
待機していた近衛兵たちが、ものすごい速さでギルバートとリナを拘束した。
彼らはさっき『特製パスタ』を食べて活力が溢れているため、動きにキレがある。
「は、離せ! 私は王子だぞ! 覚えてろよセシリアー!!」
「いやぁぁ! デザートまだ食べてないぃぃぃ!」
二人の叫び声は、重厚な扉の向こうへと消えていった。
会場に再び静寂が戻る。
しかし、それは恐怖の沈黙ではない。
邪魔者がいなくなったことへの安堵と、これから始まる『メインイベント』への期待に満ちた静寂だ。
アレクが、私に向き直る。
先ほどの修羅のような顔つきが嘘のように消え、甘く、とろけるような瞳で私を見つめていた。
「……すまない、セシリア。騒がしくしてしまった」
「ううん。ありがとう、アレク」
私は素直に礼を言った。
あそこまで堂々と守られると、さすがに悪い気はしない。というか、心臓がうるさいくらいに鳴っている。
「さて、気を取り直して……。皆様、お待たせいたしました」
私はパン、と手を叩いて空気を切り替えた。
厨房への合図だ。
「本日の宴を締めくくる、特製デザートの登場です!」
私の声と共に、ヴァルゴたち給仕係がワゴンを押して入場してくる。
そこに載っているのは、漆黒のケーキだ。
『大人のガトーショコラ ~ラズベリーソース添え~』
小麦粉を極限まで減らし、カカオ成分80%のハイカカオチョコレートと、新鮮なバター、卵、砂糖だけで練り上げた濃厚な一品。
じっくりと湯煎焼きにすることで、生チョコのような滑らかな口溶けを実現している。
「おおぉ……!」
貴族たちから感嘆の声が漏れる。
一人一人の皿に切り分けられたケーキは、どっしりと重厚感を漂わせている。
横には真紅のラズベリーソースと、純白のホイップクリームが添えられ、色彩のコントラストが美しい。
「アレク、あなたの分よ」
私は特別に大きな一切れを載せた皿を、アレクに手渡した。
「これが……ガトーショコラ」
アレクはフォークを入れようとして、止まった。
「セシリア。手が塞がっていて食べられない」
「え?」
見れば、彼の手は空いている。皿を持っている左手以外、右手は完全にフリーだ。
「……あーん、してくれ」
アレクが真顔で言った。
会場中の視線が私たちに突き刺さる。
公開処刑ならぬ、公開いちゃつきをご所望らしい。
「っ、バカなの!? みんな見てるわよ!」
「構わん。俺は君に甘やかされたいんだ。さっきまで魔王のような顔をして疲れたから、糖分が必要だ」
駄々っ子のような皇帝陛下。
私はため息をつきつつも、観念してフォークでケーキの一角を切り取った。
ずしっ、とした手応え。
中はずっしりと詰まっているのに、ナイフを入れると驚くほどしっとりしているのがわかる。
たっぷりとラズベリーソースを絡め、彼の口元へ差し出す。
「はい、どうぞ。……あーん」
アレクは満足げに目を細め、パクりとそれを口に含んだ。
「…………」
彼がゆっくりと咀嚼する。
濃厚なカカオの苦味と甘みが、体温で溶けて口いっぱいに広がる。
そこにラズベリーの鮮烈な酸味が加わり、後味を爽やかに引き締める。
「……美味い」
アレクが吐息混じりに呟いた。
「苦味があるのに、甘い。濃厚なのに、くどくない。まるで君そのものだ」
「なっ……」
「凛としてクールだが、中身はとろけるように甘く、俺を夢中にさせる」
アレクは私の手からフォークを取り上げると、そのまま皿をサイドテーブルに置いた。
そして、衆人環視の中で、私の前に片膝をついた。
「えっ、ちょっと!?」
会場がどよめく。
皇帝が跪くなど、前代未聞だ。
しかしアレクは気にせず、私の右手を取り、その甲に熱い口付けを落とした。
「セシリア・ローズブレイド。このガトーショコラのように、俺の人生に甘い彩りを与えてくれ」
彼の金色の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。
そこには一切の迷いも、嘘もない。
「甘いのはデザートだけでいい。君への愛はもっと重く、深く、一生消えない熱だ。……俺と結婚してくれ」
会場が静まり返る。
そして次の瞬間、割れんばかりの拍手と歓声が巻き起こった。
「おめでとうございます!!」
「皇后陛下万歳!!」
「美味しいご飯万歳!!」
私は顔から火が出るほど赤くなりながら、それでもしっかりと彼の手を握り返した。
「……食費、かさみますよ?」
「国庫を空にしてでも払おう」
「胃袋、掴んで離しませんよ?」
「望むところだ。一生、君の料理以外は口にしない」
アレクが立ち上がり、私を強く抱きしめる。
拍手喝采の中、チョコレートの甘い香りと、彼の体温に包まれて、私はようやく素直に笑うことができた。
元婚約者へのざまぁも完了し、胃袋も掴み、国ごとプロポーズされた。
これ以上のハッピーエンドはないだろう。
しかし。
物語はまだ終わらない。
これから始まるのは、このメシマズ帝国を「美食大国」へと変えるための、甘くも忙しい新婚生活なのだから。




