第8話 元婚約者たちは、未知の美味に驚愕する
ヴァルドリア帝国の即位記念パーティー当日。
会場となる大広間は、これまでにない熱気と芳醇な香りに包まれていた。
シャンデリアが煌めく広大なホール。
その中央に鎮座するのは、数十メートルにも及ぶ長いテーブルだ。
そこには、私が総指揮を執り、改心したヴァルゴたち厨房チームが徹夜で仕込んだ料理の数々が、宝石箱のように並べられている。
今回のテーマは『立食ビュッフェ』。
好きなものを、好きなだけ、自分のペースで楽しむ。
堅苦しいコース料理が主流のこの世界では、革命的とも言えるスタイルだ。
「よし、配置は完璧ね」
私は会場の隅で、最終チェックを行っていた。
今日の私は、動きやすさを重視しつつも場に馴染むよう、紺色のシンプルなドレスを身に纏っている。髪は邪魔にならないようアップにまとめ、白いエプロン……ではなく、清潔感のあるレースの手袋をはめていた。
視線の先には、今日の目玉料理たちが輝いている。
まずは、メインディッシュの『ロックバイソンのローストビーフマウンテン』。
低温でじっくり火を通した巨大な肉塊を、薄くスライスして山のように積み上げたものだ。
断面は鮮やかな薔薇色。特製のオニオンソースがかかっており、照明を浴びて艶めかしく光っている。
その隣には、『グレートカウのミルクキッシュ』。
サクサクのパイ生地の中に、ほうれん草と厚切りベーコン、そして濃厚なチーズのアパレイユが詰まっている。焼き立ての黄金色が食欲をそそる。
そして、今回最大の挑戦作――『手まり寿司』だ。
帝国の北海で獲れた新鮮な『ジュエルフィッシュ(宝石魚)』や『クリスタルシュリンプ』を、昨日紹介したジャポニカ米の酢飯と合わせた。
一口サイズに丸められた寿司は、色とりどりの輝きを放ち、まるで芸術品のようだ。
「……うむ。素晴らしい眺めだ」
私の背後から、低い声が聞こえた。
振り返ると、正装に身を包んだアレク……ではなく、今日は「皇帝アレクサンドル」としての威厳を纏った彼が立っていた。
黒地に金の刺繍が施された軍服風の礼装が、彼の逞しい体を包んでいる。前髪を上げて整えた姿は、息を呑むほど凛々しい。
「つまみ食いは禁止よ、陛下?」
「わかっている。だが、あの寿司という料理……魚を生で食うというのは、帝国の貴族たちに受け入れられるだろうか」
アレクが少し不安げに寿司を見つめる。
この世界では、魚は火を通すのが常識だ。生食は野蛮だと思われている節がある。
「大丈夫。鮮度管理は私の【時空収納】と氷魔法で完璧だし、臭み消しの処理も徹底したわ。一口食べれば、世界が変わるはずよ」
「君がそう言うなら信じよう。……ああと、そろそろ来賓の到着だ。俺は玉座へ戻る」
アレクは名残惜しそうにローストビーフを一瞥し、そして私にだけ聞こえる声で囁いた。
「今日の君は、いつにも増して綺麗だ。……パーティーが終わったら、二人きりでそのドレスを脱がせたい」
「っ! バカなこと言ってないで、早く行って!」
私は顔を赤くして彼を追い払った。
まったく、このむっつりスケベ皇帝は、隙あらば口説いてくるのだから。
◇
ファンファーレが鳴り響き、重厚な扉が開かれた。
きらびやかな衣装を纏った各国の招待客たちが、次々と会場へ入ってくる。
その中に、見覚えのある――見たくもなかった顔があった。
「ふん、ここが野蛮な武力国家、ヴァルドリア帝国か。城壁ばかり立派で、装飾のセンスが欠片もないな」
金髪をこれ見よがしにセットし、派手な白い礼服を着た男。
我が祖国、王国の第一王子ギルバートだ。
そしてその腕にぶら下がっているのは、ピンク髪の小柄な少女。
「ギルバート様ぁ、なんだか変な匂いがしますぅ。獣臭いというかぁ」
聖女リナだ。
彼女が鼻をつまんで顔をしかめる。
獣臭い? 失礼な。これはスパイスと焼き立ての肉の香りだ。
「リナ、無理もない。この国は食文化が遅れていると聞く。きっと宴の料理も、焼いただけの肉や泥のようなスープが出るに違いない」
「えぇー、やだぁ。私、王国の繊細なフレンチしか食べられなぁい」
二人は周囲の帝国貴族たちに聞こえるような大声で悪態をつきながら、ホールの中央へと進んできた。
しかし、テーブルの前に立った瞬間、二人の動きがピタリと止まった。
「……な、なんだこれは?」
ギルバートが目を丸くして、ローストビーフの山を見上げる。
その圧倒的な迫力と、漂ってくる芳醇な肉の香りに、喉をごくりと鳴らしたのが見て取れた。
「す、すごいお肉……。それに、あっちのキラキラしてるのは何?」
リナが手まり寿司を指差す。
「ふん、どうせ見た目だけのゲテモノだろう。おい、そこの給仕!」
ギルバートが、近くで料理の補充を指示していた私に向かって声を荒げた。
「この得体の知れない料理はなんだ! 説明しろ!」
私は心の中で大きなため息をつき、静かに振り返った。
なるべく関わりたくなかったが、お客様からの質問を無視するわけにはいかない。
「こちらは、新鮮な海の幸を使った『手まり寿司』でございます。帝国北海の恵みを、特製の酢飯と合わせました」
完璧な営業スマイルで答える。
すると、ギルバートとリナが、幽霊でも見たかのように固まった。
「……え?」
「その声、まさか……」
ギルバートがおっかなびっくり近づいてきて、私の顔を覗き込む。
「セシリア……!? セシリア・ローズブレイドか!?」
「お久しぶりでございます、ギルバート殿下。聖女リナ様も」
私は優雅にカーテシー(礼)をした。
元公爵令嬢としての完璧な作法で。
「な、なぜ追放された貴様がここにいる!?」
「見ての通り、働いておりますので」
私は手元のトングを軽く持ち上げて見せた。
すると、ギルバートの顔に、下卑た納得の色が浮かんだ。
「はっ! なるほど、そういうことか!」
彼は扇子で口元を隠し、高らかに笑い始めた。
「国外追放されて行き場を失い、敵国の城で下働きをしていたとはな! 公爵令嬢だった頃のプライドはどこへ行ったのだ?」
「プッ、あはは! ウケるぅ! 元婚約者のお姉様が、給仕係だなんてぇ!」
リナも手を叩いて笑う。
どうやら私が、この料理の「責任者」ではなく、単なる「配膳係」だと勘違いしたらしい。
まあ、紺色の地味なドレスだし、料理をいじっているし、そう見えなくもないか。
「可哀想になぁ、セシリア。王国にいれば贅沢な暮らしができたものを。可愛げのない女の末路というわけか」
ギルバートは勝ち誇った顔で、ビュッフェ台の皿を指差した。
「おい、給仕。喉が渇いた。ワインを持ってこい。最高級のやつだぞ?」
「……」
私は呆れて物が言えなかった。
他国のパーティーで、しかも皇帝主催の宴で、特定のスタッフを顎で使う神経が信じられない。
だが、ここで騒ぎを起こせばアレクの顔に泥を塗ることになる。
「……畏まりました。少々お待ちください」
私が大人の対応で下がろうとした、その時だ。
「うわっ、なにこれ! 美味しーい!!」
会場のあちこちから、歓声が上がり始めた。
「なんだこのローストビーフは! 口の中で溶けたぞ!?」
「この『寿司』という料理、生臭さが全くない! 魚の甘みと酸味のある米が絶妙だ!」
「キッシュも最高だ! ワインが止まらん!」
帝国貴族たちが、目を輝かせて料理を貪っている。
当初は警戒していた「生魚」も、一人が食べ始めると、その美味しさに会場中がどよめき、次々と手が伸びていた。
「な、なんだと……?」
ギルバートが周囲を見回す。
野蛮で不味い食事が出るはずの帝国パーティーが、美食のワンダーランドと化している状況が理解できないようだ。
「リナ、食べてみるか?」
「えー、でもぉ……。じゃあ、あのお肉だけ……」
リナがフォークでローストビーフを一切れ刺し、口に入れた。
「……んッ!?」
リナの目がカッと見開かれた。
「おいしい……! なにこれ、王国のシェフの料理より全然おいしい!」
「なっ、馬鹿なことを言うなリナ! 帝国の料理だぞ!?」
ギルバートも慌ててローストビーフを口に放り込む。
そして、固まった。
(……ふふ、素材が違うのよ、素材が)
私は心の中でほくそ笑んだ。
王国の牛も悪くないが、帝国のロックバイソンは厳しい環境で育った分、旨味が凝縮されている。それを私の調理法で最大限に引き出したのだ。味覚の差は歴然だ。
「くそっ、なぜだ……。なぜこんな下品な盛り付けの料理が美味いんだ!」
ギルバートは悔しそうに皿を睨みつけた。
そして、その苛立ちの矛先を、近くにいた私に向けた。
「おいセシリア! 貴様、何を入れた! まさか、味覚を狂わせる薬でも入れたのではないだろうな!」
「はあ? 何を言っているのですか?」
「とぼけるな! お前のような『悪女』ならやりかねん! 料理に毒を盛った罪で、この場で処刑してやる!」
ギルバートが私の腕を乱暴に掴んだ。
痛っ。
公衆の面前で、他国のスタッフに暴力を振るうなんて、本当に救いようのないバカだ。
「離してください」
「うるさい! 衛兵! この女を捕らえろ! 帝国の皇帝暗殺を企てたテロリストだ!」
ギルバートが大声で叫ぶ。
会場の空気が凍りついた。
美味しい料理を楽しんでいた帝国貴族たちが、一斉に静まり返り、冷ややかな目でギルバートを見つめる。
しかし、ギルバートはその視線の意味に気づいていない。
自分の権威がここでも通用すると思っているのだ。
「さあ、土下座しろセシリア! 今なら俺の慈悲で、側室……いや、奴隷として王国に連れ帰ってやってもいいぞ!」
下卑た笑みを浮かべ、腕を締め上げるギルバート。
私は冷静に、隠し持っていた護身用のナイフを取り出そうかと考えた。
その時。
「――ほう。私の『最愛の婚約者』を奴隷にする、だと?」
地獄の底から響くような、低く、冷徹な声がホールを震わせた。
ビリビリビリッ……!
空気が重く澱み、窓ガラスがガタガタと震える。
圧倒的な威圧感。
誰もが息をするのも忘れ、ホールの入り口を見つめた。
そこには、黄金のオーラを全身から立ち昇らせ、怒りで瞳を赤金色に染めた魔王――いや、皇帝アレクサンドルが立っていた。
「……ギ、ル、バー、ト、殿、下?」
アレクが一歩踏み出すたびに、床の石材にヒビが入る。
ギルバートの顔から、サーッと血の気が引いていくのが見えた。
さあ、断罪の時間だ。
美味しいデザートの前に、少しばかり刺激的なスパイスを味わってもらおうか。




