第5話 魔王級の襲撃と、絆を深める赤ワイン煮込み
「ふぅ、食べたわね」
唐揚げの山を綺麗に平らげた私たちは、満腹感に浸りながら食後のハイボールを楽しんでいた。
ハンスさんもすっかり毒気を抜かれ、「こんな食事が毎日食べられるなら、国へ戻るのも悪くないかもしれません……」などとブツブツ言っている。
平和な午後。
小鳥のさえずりが心地よい――はずだった。
ズズズズズッ……。
突如、地面が不気味に振動し始めた。
小石が跳ね、マグカップの中の液体が波紋を描く。
「な、なんだ? 地震か?」
ハンスが立ち上がり、剣の柄に手をかける。
次の瞬間。
ドォォォォォォン!!
森の木々をなぎ倒し、巨大な影が私たちの目の前に飛び出してきた。
身長は五メートル優に超えるだろうか。
醜悪な豚の顔に、丸太のような腕。全身が鋼鉄のような筋肉で覆われた魔物――『ジェネラル・オーク』だ。
しかもただの個体ではない。肌がどす黒く変色している。変異種だ。
「ブモォォォォォォッ!!」
オークの咆哮が衝撃波となって吹き荒れる。
テントが吹き飛びそうになり、私は咄嗟に身を屈めた。
「こ、これはジェネラル・オークの変異種!? なぜこんな国境付近に!」
ハンスが顔色を変えて叫ぶ。
魔物はぎらついた目で私たちを見下ろし、巨大な棍棒を振り上げた。
「セシリア様、お逃げください! 私が時間を稼ぎます!」
ハンスが勇敢に前に出る。だが、相手が悪すぎる。あの質量差では、一撃受けただけで即死だ。
「ハンス、下がっていろ」
凛とした声が響いた。
私の隣にいたアレクが、ゆっくりと立ち上がる。
その背中から、先ほどまでの「甘えん坊な大型犬」の気配が消え失せていた。
「へ、陛下!?」
「セシリアに指一本触れさせん」
アレクが右手を掲げる。
その瞬間、彼の全身から黄金色の魔力が噴き出した。
それはただの魔力ではない。空気がビリビリと震え、王者の風格を纏った『竜』の形を成して彼を包み込む。
ヴァルドリア帝国の皇帝に代々受け継がれるという、『竜の力』。
噂には聞いていたが、まさかこれほどとは。
「消え失せろ」
アレクが長剣を一閃させた。
剣速が速すぎて、刃が見えない。
ただ、黄金の閃光が空間を切り裂いただけに見えた。
ズバァァァァァァァッ!!
一瞬の静寂。
そして、巨大なオークの巨体が、斜めにずりと滑り落ちた。
ドサァッ、という地響きと共に、魔物は物言わぬ肉塊へと変わる。
圧倒的だ。
魔法と剣技が融合した、文字通り一撃必殺。
アレクは剣についた血糊を振り払うと、黄金のオーラを霧散させ、ゆっくりと振り返った。
その金色の瞳は、まだ興奮で鋭く尖っている。
ハンスがその場に跪き、頭を垂れた。
「……お見事です、皇帝陛下」
ハンスのその言葉が、決定打となった。
アレクはバツが悪そうに視線を泳がせ、そして覚悟を決めたように私を見た。
「……すまない、セシリア。黙っていた」
彼は私の前に歩み寄り、膝をついて目線を合わせた。
「俺は、ヴァルドリア帝国皇帝、アレクサンドル・ヴァルドリアだ。……冒険者だと嘘をついてすまなかった」
アレクの声は震えていた。
身分を隠していたことを怒られると思ったのか、それとも『人外』じみた力を見せたことで恐れられると思ったのか。
私はため息を一つ吐き、彼を見下ろした。
「……やっぱりね」
「え?」
「ただの冒険者にしては、所作が綺麗すぎるし、装備も一級品。それに何より、その『竜のオーラ』は皇族の証でしょう? 薄々は気づいてたわよ」
「き、気づいていたのか? なら、なぜ……」
「なぜって。あなたが皇帝だろうが冒険者だろうが、私の料理を美味しそうに食べてくれる『アレク』であることに変わりはないもの」
私はニッコリと微笑んだ。
アレクがポカンと口を開ける。
そんな拍子抜けした顔の彼に、私は倒れた巨大なオークを指差して言った。
「それよりアレク。あれ、どうするつもり?」
「あれ? ああ、魔物の死骸か。邪魔だから燃やしてしまおうかと……」
「もったいない!!」
私は思わず叫んだ。
駆け寄って、オークの断面を確認する。
素晴らしい。きめ細やかな赤身に、適度な脂身。変異種だからだろうか、魔力が肉に浸透して熟成肉のような芳醇な香りがする。
「これ、絶対に美味しいわよ。最高級の牛肉にも負けないわ」
「……は?」
アレクとハンスが同時に声を上げた。
魔王級の魔物を前にして「美味しそう」と言う令嬢は、どうやら珍しいらしい。
「ちょうどいいわ。お祝いも兼ねて、今夜はご馳走にしましょう」
私は【時空収納】から巨大な解体用ナイフを取り出し、袖をまくり上げた。
◇
数時間後。
森の中には、濃厚で芳醇な香りが漂っていた。
焚き火の上には、私の持てる最大サイズの寸胴鍋が鎮座している。
中身は、解体したばかりのオーク肉を使った『赤ワイン煮込み』だ。
表面を香ばしく焼き固めたオークのバラ肉を、香味野菜と共に赤ワイン一本丸ごと使って煮込んだ。
さらに、隠し味に蜂蜜とダークチョコレートをひとかけら。これでコクと深みが出る。
私の収納スキルによる時間短縮テクニック(圧力鍋的な原理を応用した魔術)も駆使し、数時間煮込んだかのようなトロトロ具合を実現した。
「できたわよ。オーク肉の赤ワイン煮込み、特製マッシュポテト添え」
深皿にたっぷりと盛り付け、バターと牛乳で練り上げた滑らかなマッシュポテトを添える。
漆黒に近い茶色のソースが艶やかに輝き、湯気が立ち上る。
「……これが、あの魔物か?」
アレクがおっかなびっくりスプーンを入れる。
その瞬間、彼の目が見開かれた。
スプーンの重みだけで、ゴロリとした肉塊がホロホロと崩れたのだ。
「柔らかっ!?」
彼はそのまま肉とソース、そしてマッシュポテトを掬い上げ、口に運んだ。
「……んんっ……!!」
言葉にならない声が漏れる。
アレクは目を閉じ、天を仰いだ。
「なんだこれは……。噛む必要がない。舌の上で肉が解けていく……。赤ワインの酸味と肉の脂が完全に融合して、濃厚なのにくどくない」
「マッシュポテトと一緒に食べてみて」
言われるがまま、彼はソースを絡めたポテトを口にする。
「……凶悪だ。クリーミーなポテトがソースの旨味を吸って、口の中で爆弾のように弾ける」
ハンスの方を見れば、彼はすでに無言で皿を舐めんばかりの勢いで完食し、おかわりを要求する目線を送ってきていた。
「魔力を使うと、お腹が空くでしょう?」
私はアレクにワインを注ぎ足してあげた。
『竜の力』は強力だが、その分カロリー消費も激しいと聞く。彼がいつも飢えたように食べていたのは、そのせいもあったのだろう。
「……ああ。この力は呪いのようなものでな。常に俺の生命力を削っていく。だから、帝国の不味い飯を無理やり詰め込んで命を繋いでいた」
アレクは寂しげに笑い、そして私の手を取った。
その手は大きく、熱かった。
「だが、君の料理を食べると、力が満ちていくのがわかる。単に美味いだけじゃない。君の料理には、俺を癒やす魔法がかかっているようだ」
金色の瞳が、揺らぐ焚き火の光を映して優しく輝く。
「セシリア。改めて頼みたい」
彼は居住まいを正し、真剣な表情で私を見つめた。
「俺の国へ来てくれないか」
それは、ただの料理人への勧誘ではなかった。
「俺は君なしでは、もう生きていけない。俺の胃袋も、心も、全部君に掴まれてしまった。……皇后として、俺の隣にいてほしい」
直球すぎるプロポーズ。
隣でハンスが「ブフォッ」とワインを吹き出したが、アレクは気にしない。
私は少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、グラスを傾けた。
皇后、か。
堅苦しいのは御免だが、この男となら退屈はしなさそうだ。それに、帝国の未開の食材たちも魅力的だし。
「……皇后になるかどうかは、帝国の食材を見てから決めるわ」
私は悪戯っぽく笑って答えた。
「でも、あなたの専属シェフくらいなら、なってあげてもいいわよ?」
「セシリア……!」
アレクが感極まったように私を抱き締めようとする。
「あ、こら! ソースがついちゃう!」
「構わん! 一生離さんぞ!」
「ちょっと、暑苦しいわよ大型犬!」
じゃれつくアレクと、それを呆れならが見守る(そしておかわりを勝手によそう)ハンス。
賑やかな夜が更けていく。
こうして私は、とんでもない男に捕まり、食文化崩壊国家・ヴァルドリア帝国へと旅立つことになったのである。




