第3話 雨音とニンニクの香り、それから急接近
ポツリ、ポツリ。
頬に冷たいものが当たったかと思うと、瞬く間に空が暗転した。
森の木々を激しく打つ雨音が、ザアザアと周囲を包み込む。
「セシリア、こっちだ! 岩場に洞窟がある!」
「わかったわ、急ぎましょう!」
突然のゲリラ豪雨に見舞われ、私たちは泥濘む地面を走った。
先導するアレクの背中を追いかけ、岩肌にぽっかりと開いた横穴へと滑り込む。
「ふぅ……。危機一髪だったわね」
フードについた雫を払いながら、私は荒い息を吐いた。
外はもう白い霧がかかったような豪雨で、しばらく止みそうにない。
「濡れてないか? 寒くないか?」
アレクが心配そうに覗き込んでくる。
自分はずぶ濡れになって私の荷物を庇ってくれていたくせに、この男はどこまでも世話焼きだ。
「私は大丈夫。それよりアレク、あなたこそ風邪を引くわよ」
「俺は頑丈だから平気だ。それより……腹が減ったな」
アレクは濡れた髪をかき上げながら、少し照れくさそうに腹をさすった。
その仕草に、思わず笑みがこぼれる。
この短期間ですっかり理解した。この男の行動原理の八割は食欲だ。
「そうね。雨で気温も下がってきたし、体が温まるものにしましょうか」
私は【時空収納】を開き、焚き火道具を取り出す。
洞窟の中は湿気ていて少し肌寒いが、こういう閉鎖空間でのキャンプ飯もまた乙なものだ。
今日のメニューは、このジメジメした空気を吹き飛ばすような、パンチの効いた一品。
そして、お酒好きにはたまらない『おつまみ』の王様だ。
◇
「なんだ、その大量の油は。揚げ物か?」
焚き火の上で熱せられたスキレットを見て、アレクが目を丸くする。
鍋底から一センチほど満たされたオリーブオイルの中に、私は刻んだニンニクと赤唐辛子をたっぷりと投入した。
「違うわ。これはオイルで『煮る』料理よ。アヒージョっていうの」
じわじわと油の温度が上がり、ニンニクから小さな泡が立ち上る。
と同時に、強烈に食欲を刺激する香りが洞窟内に充満し始めた。
「――っ! なんだこの匂いは。暴力的なまでに美味そうだ」
「ふふ、ニンニクの香りは正義だからね」
香りが立ったところで、具材を投入する。
まずは森の宝石と呼ばれる『フェアリーマッシュルーム』。肉厚で、加熱するとアワビのような食感になるキノコだ。
そして主役は、清流で獲れる『クリスタルシュリンプ』。透き通った青い身は、熱を通すと鮮やかな紅白に変わる。
ジュワァァァ……!
水分を含んだ食材が熱い油に入り、賑やかな音を立てる。
油の中でエビが踊り、キノコが旨味を吸い込んでいく。
仕上げに岩塩を振り、乾燥パセリを散らせば完成だ。
「よし。あと、これには欠かせない相棒が必要ね」
私は収納から、細長いパン『バゲット』を取り出し、一口サイズにスライスして軽く炙った。
さらに、よく冷えた白ワインのボトルも抜栓する。
「さあ、アレク。熱いうちに食べて」
私はグツグツと煮えたぎるスキレットを、焚き火から少し離した平らな石の上に置いた。
アレクは待ちきれない様子で、フォークを突き出す。
「いただきます!」
彼は真っ赤に茹で上がったクリスタルシュリンプを刺し、フーフーと息を吹きかけてから口へと運んだ。
「……はふっ、熱っ! ……うんまッ!!」
「どう?」
「プリップリだ! エビの甘みが凄い。それに、このニンニクの効いた油が絡んで……酒だ、酒をくれ!」
彼が催促するので、私はグラスに注いだ白ワインを渡した。
彼はそれを一気に流し込む。
冷たい白ワインが、熱く脂っこくなった口の中をさっぱりと洗い流す。
「最高か……」
「まだ終わりじゃないわよ。この料理の真骨頂はここから」
私は炙ったバゲットを手に取り、スキレットの底に溜まったオイルに浸した。
エビとキノコの旨味が溶け出した黄金色のオイルを、パンがスポンジのように吸い込んでいく。
「はい、あーん」
「……あーん」
素直に口を開けたアレクに、オイルをたっぷり吸ったバゲットを放り込む。
ザクッ、ジュワッ。
「!!!」
アレクが目を見開き、言葉を失った。
「これ……パンだよな? なのに、エビよりもエビの味がするぞ」
「具材の旨味が全部オイルに移ってるからね。このオイルこそがご馳走なの」
「天才だ。セシリア、君は食の女神の生まれ変わりに違いない」
アレクは感動に打ち震えながら、自らバゲットをオイルに浸し、猛烈な勢いで食べ始めた。
外の雨音も気にならないほど、私たちは熱々の料理と冷えたワインに没頭した。
スキレットの中身が半分ほど減った頃、アレクの手がふと止まった。
焚き火の炎が、彼の端正な横顔を赤く照らしている。
少し酔いが回ったのか、金色の瞳がとろんと潤んで、私をじっと見つめていた。
「……なぁ、セシリア」
「ん? 何?」
私はワイングラスを揺らしながら聞き返す。
「君は、どうしてそんなに料理が上手いんだ? 元公爵令嬢なんだろう? 貴族の娘が包丁を握るなんて聞いたことがない」
「ああ……それはね」
私は苦笑いを浮かべ、焚き火の中に薪を一本くべた。
「現実逃避よ」
「現実逃避?」
「そう。王妃教育が厳しくてね。勉強、ダンス、礼儀作法……毎日毎日、完璧を求められたわ。息抜きの時間なんてなかった。だから夜中にこっそり厨房に忍び込んで、見よう見まねで料理を作ってたの。美味しいものを作って食べている時だけが、私が『私』でいられる時間だった」
昔を思い出し、少し自嘲気味に笑う。
「でも、婚約者の殿下には不評だったわ。『君は可愛げがない』『料理人の真似事なんて下品だ』ってね。結局、もっと華やかで甘え上手な聖女様の方が良かったみたい」
私がそう言うと、ドンッ、と鈍い音がした。
見ると、アレクが拳を地面に叩きつけていた。
「……見る目のない男だ」
アレクの声は低く、怒りを孕んでいた。
「その男は盲目なのか? 君の料理はこんなにも人の心を動かすのに。それに、君は……」
彼は言葉を切り、焚き火越しに身を乗り出してきた。
洞窟という狭い空間のせいか、それともお酒のせいか。
彼の顔が、息がかかるほど近くにある。
「俺にとっては、君こそが最高だ。可愛げがないなんて、一度も思ったことはない」
「アレク……?」
「俺がその男なら、君を絶対に手放さない。厨房ごと城を与えて、一生美味いものを食わせてやる」
真剣な眼差し。
そこには、単なる食欲を超えた、熱い執着が見え隠れしていた。
心臓がトクリと跳ねる。
彼の瞳に吸い込まれそうで、私は慌てて視線を逸らした。
「……ふふ、あんな偏屈な国より、アレクの方がよっぽどいい男ね」
照れ隠しにそう言うと、アレクは嬉しそうに、けれど少し切なげに微笑んだ。
「なら、俺にしとけばいい」
「はいはい、酔っ払いはそこまで。残りのアヒージョ、食べちゃって」
私は彼の口にバゲットを押し込んだ。
彼は「むぐっ」と声を漏らしたが、すぐに咀嚼し、幸せそうな顔に戻った。
外の雨はまだ降り続いている。
けれど、洞窟の中はニンニクの香りと、焚き火の温もり、そして名前のつけられない甘い空気で満たされていた。
この時の私は、アレクの言葉を「酔った勢いの冗談」だと受け流していた。
彼が本当に一国の皇帝であり、その言葉通りの権力を持っているなんて、まだ現実味を帯びていなかったのだから。




