第2話 朝食はとろけるチーズと偏愛の始まり
チュン、チュン。
小鳥のさえずりと、テントの隙間から差し込む朝日が私の瞼を優しく叩く。
王城の寝室で、厳しい侍女長に「お時間です、セシリア様!」と叩き起こされる朝とは大違いだ。
「……んん。よく眠れた」
寝袋から這い出し、大きく伸びをする。
背中の痛みもない。私が愛用しているのは、魔導具店で特注した『空気魔法付与のエアマット』だ。地面の凹凸など微塵も感じさせない寝心地だった。
着替えを済ませ、少し乱れた銀髪を手櫛で整えてから、私はテントのファスナーを開けた。
「ふあ……。朝の森の空気って、どうしてこう美味しいのかしら」
深呼吸を一つ。
ひんやりとした清浄な空気が肺を満たす。
今日も最高のキャンプ日和になりそうだ。
さて、昨日の「迷い犬」はどうしただろうか。
食事と酒を提供した後、彼は「恩に着る」と何度も言いながら、少し離れた木の根元で眠りについたはずだ。
怪我もしていたし、私がぐっすり眠っている間にどこかへ消えていても不思議ではない。
そう思って視線を巡らせると――。
「……おはよう、セシリア」
テントのすぐ目の前、昨晩の焚き火跡の前に、彼は座っていた。
まるで忠実な番犬のように。
「……おはよう、アレク。あなた、ずっとそこにいたの?」
「ああ。君が起きるのを待っていた」
アレクは体育座りのような格好で、じっと私を見上げてくる。
昨晩のボロボロだった姿とは違い、近くの小川で顔を洗ったのか、精悍な顔立ちがはっきりと見て取れる。
ただ、その金色の瞳だけは、昨晩ステーキを見た時と同じくらいの熱量で、私を捉えて離さない。
「怪我の具合はどう?」
「問題ない。君のくれた酒と肉のおかげで、魔力……いや、体力が回復した」
彼は左腕を軽く回して見せた。
昨晩、私が応急処置で巻いた包帯がまだ残っているが、顔色は随分と良くなっている。
さすがは冒険者、タフなものだ。
「それで? 仲間を探しに行かなくていいの?」
私が尋ねると、アレクは視線を泳がせ、少しバツが悪そうに口ごもった。
「……実は、はぐれた場所がよくわからないんだ。地図も、荷物も、全て落としてしまった」
「あらら」
「森を出るまで、いや、俺が食い扶持を稼ぐから……しばらく君の旅に同行させてくれないか?」
彼は懇願するように私の目を見る。
その必死さは、迷子の子犬そのものだ。
嘘をついているのはバレバレである。
あんな立派な剣を持ち、所作の端々に気品がある彼が、ただの冒険者であるはずがない。
おそらく、何かしらのトラブルから身を隠しているのだろう。
だが、不思議と嫌な感じはしなかった。
昨晩、彼が料理を食べた時の純粋な表情。あれに嘘はないと料理人の勘が告げている。
それに、ソロキャンプは気楽だが、用心棒がいるに越したことはない。
「……わかったわ。その代わり、私の言うことは聞くこと。あと、食材調達の手伝いもしてもらうわよ?」
「本当か!?」
アレクの顔がパァッと輝いた。
尻尾があったら、千切れんばかりに振っているに違いない。
「もちろん、俺にできることなら何でもする。魔獣討伐でも、薪割りでも、君の護衛でも」
「ふふ、頼もしいわね。じゃあ早速だけど、朝食の準備を手伝って。薪を集めてきてくれる?」
「任せろ!」
アレクは弾かれたように立ち上がり、森の奥へと駆けていった。
元気になったようで何よりだ。
私は苦笑しながら、【時空収納】を開いた。
朝のメニューは決めてある。
キャンプの朝といえば、手軽で温かくて、幸福感のあるアレクのような元気な男性も満足できるアレ、だ。
◇
「なんだ、その変わった形の鉄板は」
薪を抱えて戻ってきたアレクが、私の手元を不思議そうに覗き込む。
私が持っているのは、二枚の鉄板を蝶番で繋ぎ合わせた『ホットサンドメーカー』だ。
「これにパンと具材を挟んで焼くの。見てて」
私は焚き火台に火を熾すと、調理を開始した。
まずは『ホワイトウィート』の食パンの片面に、たっぷりとバターを塗る。
バターを塗った面を外側にして鉄板にセット。
その上に、薄くスライスした『スモークボア』のハムを重ねる。燻製の香りが鼻をくすぐる。
さらに、黄色味が強い『グレートカウ』のチーズを、これでもかというほど山盛りに乗せた。
最後に、もう一枚のパンで蓋をして、鉄板を強く閉じる。
カチッ。
「パンを……潰してしまうのか?」
「これがいいのよ」
私はそれを焚き火の上に置いた。
すぐに鉄板が熱せられ、バターが溶け出す音が聞こえ始める。
パンが焼ける香ばしい匂いが漂う。
時々ひっくり返しながら、両面を均等に焼いていく。
その間に、手回しのミルでコーヒー豆を挽く。
ゴリゴリという音と、深みのある香りが朝の空気に溶けていく。
「……いい香りだ。昨日の肉も凄かったが、この香りだけで腹が減る」
アレクが喉を鳴らす音が聞こえた。
そろそろ頃合いだ。
「はい、焼き上がり」
私は焚き火からホットサンドメーカーを下ろし、留め具を外して一気に開いた。
パカッ!
「おおっ……!」
アレクから感嘆の声が漏れる。
そこに現れたのは、美しいきつね色の焼き目がついたホットサンド。
バターを吸ってカリカリに焼かれた表面が、朝日に照らされて輝いている。
私はナイフでそれを斜めに切り分けた。
ザクッ、というクリスピーな音が響く。
そして、断面が現れた瞬間。
とろり、と熱々のチーズが雪崩のように溢れ出し、スモークハムと絡み合った。
「さあ、召し上がれ。熱いうちが一番美味しいわよ」
皿に乗せて手渡すと、アレクは神聖な儀式のように両手でそれを受け取った。
「いただきます」
彼は大きな口を開け、角の部分にかぶりつく。
カリッ、サクッ。
小気味良い音がした後、彼はハフハフと熱い息を吐きながら咀嚼した。
そして、目を見開いて固まる。
「……!」
「どう?」
「……カリカリだ。パンが、菓子のように香ばしい。なのに中はふわふわで……このチーズのコクと、ハムの塩気が……」
彼は言葉を失い、夢中で二口目を食べた。
噛み切ろうとすると、溶けたチーズがどこまでも長く伸びる。
彼はそれを慌てて舌で絡め取り、至福の表情で飲み込んだ。
「美味い……。こんな朝食、王城でだって食べたことがない」
「ふふ、外で食べるから余計に美味しく感じるのよ。それに、この『グレートカウ』のチーズは加熱すると風味が倍増するの」
私は淹れたてのコーヒーをマグカップに注ぎ、彼に渡した。
「コーヒーもどうぞ。砂糖とミルクは?」
「いや、ブラックでいい」
彼はホットサンドの余韻が残る口に、黒い液体を流し込む。
「……はぁ。完璧だ」
彼は深く息を吐き、しみじみと呟いた。
その視線は、もはやホットサンドではなく、私の方に向けられている。
「セシリア。君は本当に、魔法使いだな」
「生活魔法なら得意よ。攻撃魔法はからっきしだけど」
「いや、そういう意味じゃなくて……。俺の人生で、こんなに満たされた朝は初めてだ」
アレクは真剣な眼差しでそう言うと、残りのホットサンドを大切そうに食べ進めた。
その瞳には、単なる食欲以上の、何か重い光が宿っているように見えた。
まるで、今までモノクロだった世界に色がついたような、そんな執着めいた光。
(……なんだか、すごい勢いで懐かれてる?)
私は自分の分のホットサンドを齧りながら、首を傾げた。
まあ、美味しいものを食べて笑顔になるなら、悪いことではない。
旅の道連れができたことで、退屈はしなくて済みそうだ。
「さて、食べ終わったら出発しましょうか。目指すは隣国の国境よ」
「隣国……ヴァルドリア帝国か?」
「ええ。あそこはご飯が不味いって評判だけど、未開の食材も多いらしいの。料理人として一度行ってみたかったのよね」
私がそう言うと、アレクは一瞬、複雑そうな顔をした。
だがすぐにニヤリと笑い、力強く頷く。
「ああ、いい国だぞ。……飯以外はな。俺が案内するよ」
「あら、行ったことあるの?」
「まあな。庭みたいなもんだ」
彼は最後のコーヒーを飲み干すと、私の荷物をひょいと持ち上げた。
その背中は、昨日よりもずっと大きく、頼もしく見えた。
こうして、私と「自称冒険者」アレクの、奇妙な二人旅が始まったのである。
彼の正体と、帝国料理の恐るべき実態を知るのは、もう少し先の話だ。




