取り巻き令嬢は取り巻かない
朝、学院寮の自室で髪を結っていた。
二階の窓から中庭がよく見える。
春の柔らかい日差しの中、同じ寮の令嬢たちが色とりどりのドレスを揺らしながら学舎へ向かっていく。
鏡の前で、髪をひとまとめにして飾り櫛を差し込みながら、今日の予定を確認する。
「……温室、温室、あと温室。完璧」
侍女が呆れた顔をしていたが、気にしない。
ここは乙女ゲーム『薔薇色ベール・ロマンティカ』の世界。前世の私が寝落ちするまで遊んでいたアレだ。そして私は悪役令嬢イザベル……様の第一取り巻きになるクラリッサ・ベルネット。のはず、である。
――廊下に少しの騒めき、ノックもなく扉が開く。
「クラリッサ、今日の放課後は空けておきなさい」
主役のような顔で、イザベル様が入ってくる。金糸の髪を揺らし、気高い顎の角度はいつも通り完璧だ。
「新入生のお茶会よ。例の娘に礼儀を教えて差し上げるの。殿方の前で恥をかく前にね」
“例の娘”――平民出の奨学生リディア。ゲーム本編のヒロイン。
本来なら、私はイザベル様の隣に立ち、合いの手を入れてリディアの粗相を針で刺すように論い、イザベル様を援護する。
だが、それをやれば婚約破棄騒動に巻き込まれ、私自身も国外追放まっしぐら。そんなの御免だ。
「イザベル様……っ、突然ですが、お腹が……!」
私は腹を押さえて、その場に膝をついた。演技は堂に入っている。
――こうして私は取り巻かない。
イザベル様は眉をひそめた。
「また? あなた最近、消化器が貴族らしからぬほど繊細ね」
「不徳の致すところで……」
「まあいいわ。後で様子を見に行くから。医務室へ行きなさい」
「(できれば、来ないでください……)」
心の中で祈りつつ、私は温室へと逃げた。
***
学院の裏手、普段から誰もいない温室には、ミントとカモミールがさざめいている。ここなら社交の音も、視線も、刺々しい言葉も届かない。
私は湯を沸かし、ハーブを摘んでポットに落とす。
甘い香りが立ち上り、肩から力が抜けた。
「ドレスは汚れない、立ちっぱなしで腰も痛くならない、そして何より平和」
自分の信条を復唱して、私はティーカップを口に運びつつ読みかけの本を開く。
***
その日の夕刻、温室の扉が軋む。顔を上げると、寡黙な騎士レオンが立っていた。
銀の髪、無愛想な目元。
ゲームでは三番目の攻略対象で、騎士団の星。私とは全く接点がない――はず。
「……ここは、誰でも入っていい場所だっただろうか?」
「申請すれば、です。騎士様は申請なさりましたか?」
「訓練の合間に通りかかっただけだ」
彼は鼻をひくつかせる。
「その香りは?」
「ミントとカモミール。よければどうぞ」
レオンは戸惑ったが、湯気をじっと見つめるうちに頷いた。
私はこっそり首をひねる。
彼は本来、今日のお茶会に同席して、イザベル様の言葉に苦い顔をする担当だったはずでは?
「騎士様は、お茶会に出られなかったのです?」
「……お茶会は、随分あっさり終わったらしい。」
「え」
私の頭の中で、イベントフラグがカラカラと音を立てて倒れる。取り巻きがいなかったせいで、煽りが成立せず、ただの普通の会話になったのだろう。
イザベル様は根が悪人ではない。あの人は“悪役令嬢”の役をやると決めれば完璧に演じるが、台本がなければただのちょっとポンコツ気味な公爵令嬢だ。
「……良いことじゃないですか。戦争より平和、砂糖よりハーブティーです」
「砂糖は関係ないだろう」
レオンは怪訝そうだが、湯気を一口分吸い込むようにしてから、無言でカップを傾けた。
その顔が、ほんの一瞬柔らいだ気がする。
***
翌日、午前の休憩時間。温室で本を開いていると、空気が歪み半透明の……おじさんが現れた。
「やっと見つけたぞ」
半透明のわりにお腹がしっかり出ている。眉間のしわも濃い。どこかで見覚えが――いや、ない。幽霊? 亡霊? 怨霊?
「あの……幽霊ですか?」
「儂はシナリオ管理人じゃ! お前が取り巻かないせいで、話が進まん!」
「……はあ」
「はあ、ではない! 昨日の“お茶会イベント”は『薔薇色ベール・ロマンティカ』第一章の要。そこで王太子アルフレッドがリディアを庇い、イザベルを軽く咎め、イザベルは敵役の輪郭を帯びる。お前は横で“あら、イザベル様は正しいですわ”と油を注ぐ。ここまでが、物語の骨格!」
「骨格のわりに胃に悪そうですね」
「悪役令嬢は必要悪なんじゃ!」
管理人は胸を張った。半透明のせいで偉さが半減している。
「観客――いや、神々が退屈しておる。恋愛ルートも未解放だ。お前が所定の位置に立たぬからだ。今すぐイザベルの取り巻きに戻れ」
「嫌です」
即答すると、管理人は絶句した。
「理由は?」
「面倒だからです」
「……他には?」
「ドレスが汚れるのが嫌。立ちっぱなしは腰に悪いし、社交場はうるさい。甘いお菓子は苦手。あと、悪役令嬢の職場はブラック」
「最後のは概念として正しいが、物語としては不都合だ!」
「不都合でも、平和なのは良いことです」
管理人はしばらく口をぱくぱくさせた後、天を仰いだ。
「神々よ……私の苦悩をどうか知って頂きたい……」
そのまま、半透明の肩を落とし、空気に混ざって消えた。
私は淹れ直したミントティーを啜る。平和は液体だ。喉を通って落ち着きになる。
***
それから数日。
世界は壊れなかった。むしろ滑らかになった。
イザベル様は、リディアと図書室で推薦図書の話をする仲になった。
アルフレッド殿下は「イザベルが丸くなった」と王宮で微笑んだらしい。
授業で組まされたペアワークも、誰も怒鳴らないし、机の角で誰も袖を引っかけない。
ゲーム内で発生するはずの“小さなイベント”が、どこもかしこも取り払われている。
その影響は、私の温室にも来た。
最初に通い始めたのはレオンだ。
彼は訓練帰りに「母が弱っていて、寝つけないらしい」と言い、カモミールを連日持っていく。
次に来たのはリディア。彼女は恥ずかしそうに焼き菓子を差し出し、「ここでお茶、してもいいですか」と言った。
三人で静かにお茶をしていると、今度はひらひらとビロードの裾を揺らしてイザベル様が来た。
「――クラリッサ」
「はい」
「あなた、最近、私のそばにいないわね」
「はい」
「だからね……」
「はい」
「……寂しかったわ」
リディアの手がひくりと震え、レオンが不器用に咳払いをする。
私は席を少し詰めた。
イザベル様は当然のように座り、リディアとレオンを“観察する”目をしたが、すぐに緩んだ。
「ふふ、ここのミントはよく香るのね。クラリッサがここに入り浸る理由が少しわかったわ」
「ここなら、誰も誰の役をやらなくていいので」
私の言葉に、イザベル様は一瞬きょとんとし、それからカップを唇に当てた。
「――ねえ、クラリッサ。あなた、私のことを“悪役令嬢”だと思っている?」
「少なくとも、台本があるときは」
「じゃあ台本を燃やしてしまえばいいのよ。あなたの温室で」
イザベル様は悪戯っぽく笑った。
私は笑い返す。ここでなら、燃やしても湿気で延焼しないだろう。
「ダメじゃダメじゃダメじゃ!」
天井から降るような声。
次の瞬間、管理人が温室の真ん中に落ちてきた。ポン、と湿った音がして、ミントの葉がふるふる震える。
「何ですか。ハーブが驚くでしょう」
「驚いているのは儂じゃ! お前の温室が“交流イベントのハブ”になっている! イザベル殿、リディア嬢、レオン殿、その他の攻略対象まで通い、会話し、仲良くなり、トラブルが解消され……」
「素晴らしいことですね」
「物語が、退屈なんじゃ!!」
管理人は地団駄を踏んだ……踏めるのか半透明で? と思ったが、足元の土が少しだけぼこっとして、私の敗北である。
「戦争イベントも消えた。外交の火種が、ことごとくハーブティーで鎮火されていく。国は平和、王家は安定、神々は居眠り。これでは“薔薇色ベール・ロマンティカ”ではなく“薄緑色カモミール”じゃ!」
「いい響きですね」
「よくない!」
イザベル様が立ち上がり、管理人に向き合った。
「あなた、誰?」
「管理人じゃ!」
「そう。で、あなたは私に、また悪役令嬢の役をやれと?」
「その通りじゃ!」
イザベル様は顎を傾けた。「でも、私、クラリッサの温室が好きなの。ここでは、殿方も淑女も、身分も役割も置いていける。面白いでしょう?」
管理人は言葉を失い、助けを求めるように私を見た。
私は肩をすくめる。
「観客が退屈するなら、観客を変えれば? 神々の趣味も、たまには刷新が必要です」
「神々の趣味は神々が決める!」
「じゃ、あなたが変わればいい」
管理人は口をぱくぱくさせ、最後に大きく息を吐いた。
「……もう無理じゃ。お前らは“物語の破壊者”じゃ」
「違いますよ。物語の影板です」
そう言うと、イザベル様とリディアが同時に笑った。レオンも、目尻だけで微かに笑った(珍しい)。
管理人は膝に手を置き、敗北の姿勢でうなだれた後、ふいと顔を上げた。
「――わかった。降参じゃ。もう、お前中心で新しい話を作る。タイトルは『温室日誌』……いや、『取り巻き令嬢は取り巻かない』。舞台はここ。登場人物はお前ら。儂は……儂は観察者じゃ」
「最初からそうすればよかったのに」
私はミントの葉をもう一枚摘み、ポットに落とした。香りがふわりと広がる。
「ただし一つ条件がある」
「何でしょう」
「神々向けに、たまには事件を起こせ。花壇の配置替えでも、レシピの失敗でも、恋の進展でもいい。静寂にも起伏がいる」
「努力します」
私は適度に曖昧な返事をしておいた。努力はするが、面倒ごとは避ける――その原則は揺るがない。
管理人はふらふらと立ち上がり、半透明の袖で目元をこすった。
「では、儂は“シーズン改編”の準備を……」
言い終える前に、空気に薄まって消えた。
***
それから、温室はいつも賑やかだった。
リディアは新しい焼き菓子を持ってきて、私のハーブと相性を確かめる。
レオンはカモミールを束にして買い、ついでに水やりを手伝う。
アルフレッド殿下まで時々顔を出し、「公務の合間に癒やしが必要でね」と言って、ミントティーを二杯飲む。
イザベル様は“悪役令嬢”の台本を本当に持ってきて、火鉢で炙って私に見せた。
「ね、燃やすと紙が丸まって面白いわよ」
「温室で火遊びは控えてください」
「はい」
素直に頷くイザベル様は――やっぱり根が良い人だ。
たまに、彼女は私の腕にそっと自分の腕を絡めてくる。
「あなた、私を見捨てた罰で、これからも一緒にお茶してちょうだい」
「重い罰ですね」
「甘い罰よ」
私が笑うと、彼女も笑った。
リディアはその様子を微笑ましく見つめ、レオンは空になったカップを静かに置く。
温室の外では、季節が巡る。
けれどここでは、いつも誰かが湯を注ぎ、誰かが椅子を引き、誰かが笑う。
事件も時には起きる。花壇の配置で小競り合いがあったり、砂糖の分量を間違えて全員が渋い顔をしたり、アルフレッド殿下がこっそり鉢を倒して土まみれになったり。
管理人はそのたびに現れて、ちまちまと記録を取り、満足そうにうなずいて消える。
神々がどう思っているかは知らない。少なくとも、私たちは退屈していない。
***
ある日の夕暮れ、ふと気づいた。
温室の椅子が足りない。いつの間にか、通いの人間が増えすぎたのだ。
「椅子、増やします?」
リディアが尋ねる。
イザベル様は私の腕に絡めたまま、あごを上げた。
「立ち見でもよくってよ」
レオンが新しい椅子を無言で運び入れながら、私を見た。
視線が少しだけ柔らかい。
アルフレッド殿下は「王宮から持ってこよう」と言い出し、私は慌てて止めた。
(王宮から椅子を持ち出すな)
「……ところで」
私はポットを持ち上げながら、ぽつりと言う。
「これ、私が一番モテてない?」
一瞬、沈黙。次いで、イザベル様がむっとして周りを見回す。
「いったい誰が私のクラリッサを狙っていますの?」
「いえ、え?私のクラリッサ?」
リディアは笑いを堪え、レオンは咳払いで誤魔化し、アルフレッド殿下は曖昧に笑った。
管理人が天井からひょこっと顔だけ出して、「その台詞、たいへん良い」とメモを取る。やめろ、天井を貫通するな。
私は肩をすくめて、湯を注いだ。
湯気はやわらかく立ち上り、夕日の色を吸って金色に揺れた。
取り巻かない、関わりすぎない、面倒を避ける。
それでも人は、香りに集まり、温度に寄ってくる。
「ほら、冷めないうちに」
私はカップを配って回る。
平和は、今日も液体だ。喉を通って、笑い声になる。
――そして、物語は、私の温室を中心に、勝手に回り続けるのだった。
影板、観客から見えない場所で出番を待つこと。この物語は、そんな舞台裏でしか見られない、どこかゆったりとした平坦な物語。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
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