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The One

作者: Futahiro Tada

 いつか運命の人が現れて、私を幸せにしてくれる。

 御伽噺に出てくるような王子様が、私の前に現れる。十代の頃の私は、そんなファンタスティックなことを、半ば本気になって考えていた。恋に恋する年代だった。そして、周りの女の子たちが、次々に彼氏を作るのを見て、どこか羨ましいと思っていた。

 それでも出会いに妥協したくなかった。自分の中の王子様。そんな人間と付き合いたい。大真面目に考えていたのである。でも、そんな人間はずっと現れなかった。

 これは後述するけれど、私は過去に一度だけ告白された経験がある。でも、その時は気持ちに応えなかった。私の告白した人間は、運命の人と呼ぶには、あまりに幼すぎたのだ。だから、私は当然のように断った。あくまでも丁寧に……。

 運命を信じた十代が終わり、私は二十三歳になった。二十三歳と言えば、大学を卒業して社会人として一歩を踏み出す時期である。私は新潟県の新潟市出身であるが、大学を進学したのを機に、神奈川県に引っ越し、そこで一人暮らしを始めた。

 大学を卒業し、テキスタイルという洋服の生地を扱う会社に入社したのであるが、合っていないと感じ、僅か半年で退職してしまった。それからは、何となく就職活動をする気が起きなくて、WEBライターという、よくわからない仕事に手を染め始めた。

 私は女性のファッションブログの記事を担当し、いそいそと原稿を執筆し、雀の涙ほどの給料で働いていた。そんな生活が一年間ほど続いたのだが、ある日、私の担当しているファッションブログが突如閉鎖され、私は仕事を失ってしまう。

 WEBライターの世界では、こうした突然の失職がよくあるのだ。だが、ネット社会であるし、ネット上の記事を書く機会は無数に存在する。だから、仕事を失っても、別のブログを書けばいい。それでも、この時私には力が残っていなかった。

 そのまま無職になり、貯金もあまりなかった私は、両親の説得を前に、新潟に帰ることになった。つまり、都落ちという形である。意気消沈した私は、実家である新潟市に戻り、ただフラフラと生活していた。

 仕事もせず、ただ、毎日ぶらぶらとするだけ。朝はずっと寝ていて、午後になったら起きて、朝ご飯と昼ご飯を兼用した食事をして、また眠る。そんなだらけた日々を送っていたのである。

 何のために生きているんだろう。こんなはずじゃなかったのにな……。

 周りの人間はどんどん成長していく。それなのに、私は一人取り残されて、こうして自堕落な日々を送っている。いつまでもこんな生活を送っているわけにはいかない。それはわかっている。だけど、どうしても力が入らない。何をすれば、自分はここから解放されるのか? それがわからなかった。

「美沙。ハローワークへ行ってみたら? 若者向けの就職相談しているんですって」

 午後になって起きて、リビングをうろうろしていると、母に呼び止められた。私の母は介護職をしていて、いつも忙しく働いている。だけど、今日はたまたま休みだったようである。嫌な時に会ってしまったな……。私は頭を擡げる。

「うん、そうだね。時間があれば行ってみるよ」

「お母さんも一緒に行ってあげようか? 今度仕事が休みの時に、行ってみましょうか?」

「いいよ。そのくらい一人で行けるから」

「でも、あなたそう言っていつまでもダラダラしているだけじゃないの……」

「わかってるけど」

 母は私に普通に働いてほしいと考えている。それが普通の親の当然の気持ちだろう。それは、私にも痛いくらいにわかっている。それでも身体が動かないというか、何をする気にもなれないのだ。

 だらけた日々を送る私に、母はハローワークと精神科をよく進める。やる気が起きないのは、今流行りの鬱病だと思っているらしかった。

 確かに、鬱の気配はある。やる気が出ないし、何かこう、常に不安に襲われているような気がするのだ。それでも精神科は行きたくない。行けば鉄格子の部屋に拘束されてしまう。そんな恐怖があったのである。もちろん、実際の精神科はそんな真似をしないであろうが、私は行きたくなかった。

 自殺願望があるわけではないし、放っておけばいつかよくなるだろう……。と、楽観的に考えている。仕事だって、その気になればすぐに決まる。働き手が不足して、喘いでいる企業が多いようである。だから、若い私ならば、面接に行けばすぐに採用されるだろう。

 でも今はまだゆっくりしていたい。それ故に、動かなかった。

 ある日、私は夕方になり、近くを散歩していた。ずっと寝て過ごしていると、身体がなまってしまうので、一日一度は、少しでもいいから歩くようにしている。その日は、新潟駅から、東大通を歩き、そのまま古町の方まで向かって行った。

 新潟は万代と古町という二つの拓けた街が存在している。その華やかな繁華街を何もせずぶらついて、飽きたら戻ってくる。そうすると、大体日が暮れてきて、夕食の時間になるのだ。

 いつも通り、散歩を終えて、家の前の通りに出た時、私はある人間と邂逅する。

 上条優希。十七歳の男子高校生。近所に住む幼馴染といってもいい人間である。

「あ、美沙さん。こんにちは」

 と、優希は挨拶する。

 新潟に帰って来てから、早一カ月。近所に住んでいるとはいえ、今まで一度も会わなかった。

「うん。久しぶり」

「元気だったんですか? 今、こっちに帰って来てるんですか?」

「うん。ちょっと色々あって」

「そっかぁ、こっちに帰ってきたんなら言ってくれればよかったのに……」

「だって、あんた学校あるでしょ」

「それはまぁありますけど、美沙さんだって会社行くでしょ?」

「否、私今無職だし……。ニートってやつ」

「え? そうなんですか? それならよかった。今週の週末、ちょっと付き合ってもらえませんか?」

 付き合う? 一体何を言っているんだろう。私、そんな軽い女じゃないのに……。

「私たち、六歳も年が離れているのよ、それなのに付き合うなんて、何を言っているのよ」

 私は、必死に抵抗する。

 しかし、それが私の勘違いであると判明する。

「いや、付き合うってそういう意味じゃなくて、一緒に来て欲しい所があるんです」

「え? あ、そうなの。まぁ別にいいけど」

「運動できる格好で着てください。ランニングシューズがあれば一番いいんですけど、なければスニーカーでも大丈夫だと思います」

「は? 何をするの?」

「それは行ってから説明します。土曜日の朝八時に迎えに来るんで、待っていてください。絶対約束守ってくださいよ」

「えぇぇ。ちょ、ちょっと、勝手に決めないで……」

 すべてを言う前に、彼は走り出していた。あっという間に見えなくなる。

 どうやら、勝手に約束をされたみたいだ。仕方ない、まぁ付き合ってやるか。どうせ暇なんだし……。


 土曜日の朝――。

 優希は朝八時に迎えに来ると言っていた。私はその約束をキチンと覚えていて、今日だけは早く起きていた。なんというか、こんなに早く起きたのは、久しぶりである。

 WEBライター時代、私は普通の社会人と同じ時間軸で働いていた。つまり、朝九時頃から執筆を始めて、十二時になったらお昼休みを取る。その後再び執筆を始めて、大体五時くらいまで働いていた。

 あの頃は、何かに必死になっていた。WEBライターという職業が、自分にとって最後の砦だと思っていたのだ。だから、懸命になって書いた。私の書いた記事は、きっと多くの人間に読まれなかったかもしれない。

 とてもではないが、私は腕のいいライターではなかった。むしろ、筆力は低く、どうしてライター何てやっているんだろうと、自分で思っていたくらいなのだから。

 久しぶりの朝日を浴びて、心地いい気持ちになっていた。今日は七時には起きて、トーストとヨーグルトという簡素な食事を摂った後、ひたすらに優希を待っていた。私は、何を期待しているのだろう? 優希は私の幼馴染というか弟みたいな存在である。

(そうよ。これは何でもない。ただ付き合うだけなんだから……)

 久しぶりに見た優希は、かなり大人っぽくなっていた。確か最後に見たのは、彼が高校生に上がった時だったと思う。その頃、私は大学生をしていて、丁度実家に帰省した時に出会ったのである。

 あの頃は、もっと幼い顔立ちをしていたというか、少年のような雰囲気があった。それが今ではしっかり大人の男の顔になっている。もちろん、まだ十七歳だから、少年の雰囲気も同時に纏っている。何というか、神々しいというか、そんな感じだ。

 アレ? 私何を想っているんだろう。優希はただの幼馴染なのに、妙に意識してしまう。私が、彼を意識する理由は確かに存在している。

 その理由――。

 私は昔、優希に告白されている。

 少し前に、私は告白された経験があると告げたけれど、その相手は優希なのである。あの時の光景を、今でも鮮明に思い出すことができる。あれは、私が中学生で、優希が小学生の時の話。

 当時、私たちは普通に会っては会話するような間柄であった。私は高校受験を控え、思春期真っ盛りの中だった。そして、優希は小学三年生。そんなまだまだ少年である彼が、妙に神妙な顔立ちをして、私の前に現れたのである。

(あの頃……。懐かしいなぁ……)


          *


「美沙ちゃん。好きな人いる?」

 と、唐突に優希が告げた。

「好きな人。いたらどうするの?」

 私は、訳もわからず答える。

 好きな人。そんな人間がいればいい。だけど、その時の私には丁度好きな人なんていなかった。というよりも、人を好きになったことが多分なかったのである。だからこそ、優希の神妙な言葉に、妙にざわついてしまったのだ。

「僕は好きな人がいるんだ」

「クラスメイト?」

 優希は顔を左右に振る。

 夕焼けの明かりが、彼の顔を照らし出し、くっきりと影を作っていた。

「違う、もっと年上」

「はぁ? あんた年上が好きなの?」

「うん」

「それって学校の人?」

「学校に通ってるけど、違う学校」

「他校か? どこで会ったの?」

「会うって、毎日会ってるよ」

 そこで、私はビクッと反応した。

 優希が毎日会っている年上の女の子なんて、恐らく私以外考えられない。そこで、私は彼の想いに気づいてしまった。だけど、それをそのまま言うと恥ずかしいから、あえて気づかないフリをしていた。

「そう……なんだ。どうしてその人が好きなの?」

 私の問いかけに、優希は困ったような顔を浮かべた。

「よくわかんない。ただ、その人を考えると、胸が痛くなるんだよ。美沙ちゃんはそんな経験ないの?」

 昔、『赤い実はじけた』という国語の教科書に載っている小説を読んだことがある。あれは確か、恋愛の話だったと記憶している。恋愛の甘く切ない一幕を、赤い実に例えて表現しているのだ。

 んんん……。

 私にそんな経験あるだろうか?

 少なくとも、私は男子を見てときめいた経験がなかった。ないにも拘らず、運命の人というか、私にぴったりの王子様がどこかにいると、本気になって信じていたのである。

「私は経験ないかな」

「僕、どうしたらいいの?」

「どうって……、そんなこと言われても」

 私は正直困惑した。優希の想い人が私でなければ、率先して応援してやってもいいけれど、相手が私となると、話は別である。今、優希に告白されても、私にはそれを受け入れることができない。私は、優希を男として見ていないし、本当に、弟のような存在なのである。そんな可愛い弟に告白されたからと言っても、私はときめかないし、困惑するだけである。

「好きって言えばいいのかな?」

「ダメよ」

「どうして?」

「だって、その人が好きじゃなかったら断られちゃうんだよ」

「それはそうだけど、僕、もう我慢できないんだ」

「だけど、我慢しないと……」

「無理だよ」

 優希の顔がスッと赤くなる。そして、燃えるような目つきで私を見つめている。

 あぁ、そんな目で私を見ないで欲しい。なんというか、情が移るというか、微妙な気持になってしまうではないか。

 私が一人焦っていると、とうとう優希は禁断の言葉を放った。

「僕が好きなのは、美沙ちゃんなんだ」

「んんん。私……。でも私はダメだよ。だって私は優希のお姉さんだもん」

「確かに美沙ちゃんは、僕のお姉さんみたいなところがあるけど、本当のお姉さんじゃないよね?」

「それはそうだけど。でもダメよ」

「なんで? 僕が嫌い?」

「嫌いじゃないよ。でも、私にとって優希は弟みたいなもので、……その、恋人として見られないっていうか。だからゴメンね」

 私は正直に答えた。

 もしかすると、これで優希との関係が終わってしまうかもしれないと思った。それは少し寂しい。でも優希は正直に気持ちを話してくれた。それは純粋に嬉しかった。人に告白されると、確かに動揺するのだけれど、何かこう温かい気持ちになる。人の内面に触れたような気がして、ドキドキと胸が高鳴る。

「美沙ちゃん、僕が子供だからダメなの?」

「まぁ、そんな感じ。だって私と優希は六つ歳が離れているんだよ。もっと、同世代で優希にあった人がいると思うし……」

「そんなことないよ。僕が好きなのは、美沙ちゃんだけだよ」

「嬉しいけど……。その気持ちには答えられない」

 私がそう言うと、優希はシュンとしょげたような顔つきになった。でも、直ぐにキッと顔を切り替えて、ニコッと笑みを浮かべた。

「ゴメンね、美沙ちゃん。迷惑だったよね。でも、僕どうしても自分の気持ちを押さえられなくて……。だから勢いで言ってしまったんだ。ねぇ、僕がこうして告白しても、今まで通り、接してくれる?」

 今まで通り……。

 それは不可能であると感じた。

 私は優希の気持ちを知ってしまった。それを知りながら、今後も同じように接するのは難しい。どこか意識してしまうし、肩身が狭い思いをする。それに優希自身が嫌なんじゃないかなって思えてくる。

「私はいいけど、優希は辛くないの?」

「辛い? どうして?」

「だって、好きな人にフラれたわけだし、その人と一緒にいるのって精神的に辛いかなって思って」

「辛くないよ。むしろ、このまま変な感じになって、美沙ちゃんが離れて行ってしまうのが怖い」

「……そっか。なら一緒に居てもいいけど」

「ありがとう。美沙ちゃん」

 優希はそう言い、最高の笑顔を私に向けた。

 ただ、その日から少しずつ私は優希を避けるようになった。毎日会っていたのが、週に五回になり、それがその内、三回になり、少なくなっていったのだ。私は受験生だったし、このまま優希と付き合っていても、勉強の妨げになると思ったから、あえて避けていたのかもしれない。

 今思えば、優希には酷なことをしたと思っている。だけど、仕方なかったんだ。どんな顔をして優希に会えばいいのか、徐々にわからなくなっていったんだから……。


          *


 以上、回想終わり――。

 時刻は八時を迎えようとしている。

 私が部屋で寝転んでいると、来客を告げるインターフォンが鳴り響いた。

「美沙。優ちゃん来てるわよ」

 と、母の声が聞こえる。彼女は、優希を優ちゃんと呼んでいるのだ。私は、指示された通り、運動できる格好で彼の元へ向かった。

 優希はTシャツのジャージ素材の短パンという軽装である。足元は、ランニングシューズらしきものを履いている。確か、ランニングシューズを用意するように言われたはずだ。だけど、私はランニングシューズ何て持っていない。精々、スニーカーがいいところである。

「美沙さん。おはようございます」

 と、元気よく優希は告げた。

 にっこりと微笑み、年相応のあどけなさがある。彼は決してイケメンというわけではないが、それなりに顔立ちは整っており、どこか中性的だ。今風の線の細い男子と言えるかもしれない。

「ねぇ、何をするの?」

「まぁ行けばわかります。うん、ちゃんと運動できる服装をしていますね。それじゃ行きましょうか」

 私は渋々彼に従って、そのまま家を出た。

 私の家は、新潟市の万代という繁華街に近い場所に建っている。普通の一軒家だけど、繁華街が近いから、どこに行くのも基本的に便利である。

 運動できる格好となると、何か運動でもするのだろうか? 私は悶々と考え、優希の後に続いた。優希は足取り軽やかに進んでいく。季節は八月。高校生は夏休みなのだろう。だから、こうして午前中から外に出かけられるのだ。

 それにしても、暑い。八月の新潟は普通に暑い。内陸というわけではないけれど、中途半端に暑くなるのが新潟の特徴である。台風の影響を受けて、フェーン現象なんかになると、四〇度近くにもなるから注意が必要だ。

 優希は万代橋を超えて、やすらぎ提という、土手に出る。やすらぎ提は、信濃川沿いにある河川敷の総称であり、道が舗装されていて、ランニングしたり、サイクリングしたりできるようになっている。

 また、出店なども出ており、飲食も楽しめるようになっているのだ。ただ、まだ朝早い時間帯だから、店はやっておらず、夏の容赦のない陽射しが燦々と降りしきっている。

「やすらぎ提で体操でもするの?」

 と、私は尋ねる。

 Tシャツのジャージという姿だけで、既に額には汗が浮かび上がっている。運動すると聞いていたから、メイクはしてこなかってけれど、正解かもしれない。この暑さで運動したら、化粧なんてすぐに崩れてぐちゃぐちゃになってしまう。

「体操じゃないです」

「じゃあ、何をするの?」

「走るんですよ」

「はぁ、あんた何言ってんの? こんな暑い中で走ったら死んじゃうって」

「美沙さんも僕もまだ若いから大丈夫ですよ。とにかく走りましょう。万代橋から、関屋の方まで走って行って、ぐるっとやすらぎ提を一周回って終了です。多分、八キロくらいだと思います」

「八キロ? 馬鹿言わないで、そんな距離走れるわけ」

「疲れたら歩いてもいいですから……。とにかく行きましょう」

 私の文句も聞かず、優希はストレッチし始めた。そして、少しだけ身体を伸ばすと、直ぐに走りだした。

 私は、過去に箱根駅伝を見た経験があって、その時のランナーの走りを知っている。テレビで見ると、ゆっくりと走っているように見えるが、実際のランナーはとても速い。風を切るように、あっという間に走っていくのだ。

 それに比べると、優希の走るスピードは物凄く遅い。ランニングとウォーキングの中間くらいのスピードである。だけど、今の私にとっては十分速いスピードである。

 そもそも、私はランニングなどしたことがない。学生時代は文化部だったし、運動とは無縁の生活を送っていたのである。大学の時も、サークルに入ってテニスをしたことがあるが、走ってはいない。疲れたらダラダラ休み、何となく暮らしていたのである。

 社会人になってからは、ますます運動から離れて行った。テキスタイルの会社にいた時は、夜遅くまで働いて、運動の時間なんてなかったし、WEBライターは、薄給であり、たくさんの記事を書かないとまとまったお金にならないから、それなりの時間執筆に当てていた。そうなると、当然だけど走る時間なんてない。

 第一、走るという行為に、そこまで魅力を感じない。確かに健康にはいいし、ダイエットや体型維持には効果があるかもしれないけれど、とても疲れてしまう。ランニングよりも楽しい運動は数多くあるだろう。つまり、私はランニングなんてしたくない。

 優希はゆっくりだが、少しずつ私との距離が開いていく。私は一キロも経たずに、根を上げて、歩き始めた。とてもではないが、この猛暑の中走るのはしんどい……。死んでしまう。

 それからは、まさに地獄のような時間が流れた。歩いていても、気温は三〇度を超えるのである。滝のように汗が流れ、脚が重くなる。なんでこんな目に遭っているのか、全くわからない。私が何をしたというのだろうか? 私はただ、実家に都落ちし、傷心中なのだ。夢や希望もなく、何となく生きている。このままではダメだとわかっていながら、どうしようもできないのだ。

 とにかく走るのはしんどい。確か、優希は万代から関屋までの区間のやすらぎ提を一周すると言っていた。それで大体八キロになるのだという。

 とてもではないが、今の私には八キロは辛すぎる。歩いても到達できないだろう。そこで、私は来た道を引き返し始めた。一周回ってくるのなら、スタート地点で待っていれば、その内優希はやってくるはずだ。それを待っていればいい。

 私はスタート地点に戻り、近くにあったベンチに腰を下ろした。それでも、日を遮るものがないから、かなり暑い。早くエアコンのある部屋で休みたい。考えるのはそればかりであった。

 一体、どうして優希は私をランニングになんて誘ったのだろうか? 全くよくわからない人間である。

 休み始めて四十分くらい経った。すると、遠くの方から優希がトロトロ走ってくるのが見えた。こんなに暑いのに、よく走る。その心意気だけは認めてやろう。だけど、私を巻き込まないで欲しい。優希はスタート地点にいる私に気づいたようである。どういうわけか手を振り始めた。そして、そのままゴールする。

「美沙さん早かったですね」

 肩で息をする優希は、物凄い量の汗を掻いていた。

「だって、私走ってないし。途中で引き返してきちゃった。こんな暑い中走るのっておかしいよ」

「そうですか? じゃあ、今度は夜走りますか? 朝なら気温もまだ高くなくていいと思ったんですけど」

「私は走りたくないの。そもそもなんでランニングになんて誘ったの?」

「僕、美沙さんが帰ってきたのを知っていたんです。でも働いていないみたいだから、何か悩んでいるのかなって思って。そういう時、走ると気分がよくなるんです。脳がしゃっきりするというか、前向きになれます」

「私に同情しているの?」

 私はキッと優希を睨みつけた。

 すると、優希はニコッと笑みを浮かべ、

「そんなことありません。ただ、協力したいんです」

「協力って何よ?」

「つまり、美沙さんの社会復帰をお手伝いしたいんです」

「あんたに協力されなくたって、何とかできるわよ……。馬鹿にしないで」

「馬鹿になんてしていません。ただ、一緒に居たいんです。僕、東京の大学に進学する予定なんです。だから、新潟に居られる間は、美沙さんに協力したい」

「大学に進学するのなら、受験勉強しなきゃダメじゃない」

「大丈夫です。僕、指定校推薦で進学するんで、センター試験とかは受けないんです。面接試験だけですよ」

「高校生のあんたに、ニートの私の気持ちはわからないわよ」

「そうでしょうか? 美沙さんって東京にいたんですよね?」

「厳密には横浜だけどね……」

「何の仕事していたんですか?」

「言ってもわからないわ」

「教えてくださいよ」

「WEBライター」

「ライターって記事を書く仕事ですよね? 凄いじゃないですか。 どうして辞めちゃったんですか?」

「稼げないからよ。拘束時間の割に、賃金が安すぎるの……。それに究極的に不安定。だから辞めて新潟に戻ってきたの……」

「でもパソコンとかはできるわけでしょ?」

「まぁ、それなりにね」

「なら、パソコンを使った仕事に就けばいいんじゃないですか?」

「そんなに簡単に言わないでよ。あんたはわかんないかもしれないけれど、就職活動って意外と大変なのよ」

「そうですか。それでもこのままニートってわけにはいかないでしょう?」

「それはそうだけど……。とにかく余計なお世話、自分のことは、自分で何とかするから」

「僕、美沙さんの役に立ちたい」

「どうして?」

「苦しんでいる美沙さんを見るのが辛いから……」

 確かに私は苦しんでいる。

 深い闇の中にいるような感じだ。

 どこで間違ってしまったんだろう。私はもう二十三歳なのである。世間の二十三歳は普通に働いている。私のように、実家でダラダラなんてしていない。こうしている間にも、同世代との差は広がっていく。それが、堪らなく辛い。身が引き千切られるほどの苦痛だ。

 それなのに、私はどうしていいのかわからない。この苦境から救ってくれる人を、どこかで待っていたのかもしれない。それが、優希だった。彼なら私を救ってくれるのではないか? 六歳も年下の男の子に縋るなんて、奇妙な話だと思うけれど、その時の私には、何か優希が希望の象徴のように見えたのである。


 走り終えた優希は、近くにあった自動販売機でアクエリアスを買って、それをベンチに座って飲んだ。私も彼の隣に座って、熱い陽射しを浴びていた。あぁ、今日だけで一気に日焼けするだろうな。日傘も持っていないし……。

 ふと、優希を見つめる。

 これだけの猛暑の中を走っていたのだから、彼は汗だくになっていた。大量の汗が浮かび上がり、それが太陽の光に照らされてキラキラと輝いて見えた。

「ねぇ、覚えてる?」

 と、私は告げる。

 すると、優希は目をきょとんとさせて、コチラを見つめる。

「覚えてるって何をですか?」

「あんたがまだ小学生の頃の話よ。私に告白してきたでしょ?」

 その言葉を聞き、優希は恥ずかしそうに首元を掻いた。

「そんなこともありましたね」

「あれって正気だったの?」

「もちろんマジですよ。美沙さんは、僕にとっての憧れなんです。ずっと好きだったから、あんなことを言ってしまったのかもしれません」

 ずっと好きだった……。

 では、今はどうなんだろう??

 どういうわけか、今の優希の気持ち知りたくなった。今でも私を好きでいてくれるのだろうか? 仮に好きだった場合、私はどう行動すればいいのだろう。優希は高校三年生で、指定校推薦で、ほぼ進路が決まっている。

 なんでも東京の大学に進学するらしい。それに比べて、私は都落ちした状態である。それに無職で何もしていない。何かしようとは思うのだけれど、全くやる気にはならないのだ。まだまだ、モラトリアムの中にいる、出来損ないの人間である。

 そんな私と、未来が拓けている優希では、あまりに立場が違いすぎる。優希には、もっと相応しい女の子がいるはずである。私なんかを好きでいるよりも、新しい人間を好きになった方が、ずっと建設的である。

 だけど……。

 けれど……。

 どういうわけか、猛烈に寂しい。私は、ずっと、後悔していた。あの日、優希の告白を断ったこと……。本当は王子様なんていない。運命の人なんていうものは、すべて後付けだ。そもそも、付き合ってから始めて知ることが多いはずである。そして、付き合っていく中で、お互いに成長して、認め合っていく。ある程度付き合って、ふと振り返った時、この人が運命の人だったのかもしれない。そんな風に思うのではないだろうか?

 つまり、最初から運命の人など存在しない。そんな人間は幻想だ。まやかしだ。だけど、思春期の私はそれを理解できなかった。だからこそ、優希の告白を断ってしまったのだ。

 もしも……。

 もしも、あの日、私が彼の告白を受け入れていたら、未来は変わっていたかもしれない。もしかすると、私はこんな風にニートになっていなかったかもしれない。優希と付き合うのなら、きっと都会の大学には進学しなかった。恐らく、新潟市内の大学や専門学校に進学したはずである。

 そもそも、私は何かやりたいことがあって大学に進学したわけではない。ただ、なんとなく進学したに過ぎない。周りが進学するから、自分もそれに合わせて進学する。丁度、自分の学力で行ける大学があったから、そこを選んだだけだ。それ故に、私の大学生活は、そんなに充実したものではなかった。ただ、漫然と生きている。ダラダラとしていたわけではないけれど、酷く浮き沈みのない日常。

 変に傷つかない分、大きな喜びもない、そんなつまらない人生。だから、きっと就職にも失敗したのかもしれない。どこか、自分のいる場所はここではない……。そんな変な感覚があって、あっという間に仕事も辞めてしまっていた。

 その後は、よくわからないWEBライターという仕事をして、細々と生きていきた。そして、今その道も断たれている。新しい道を探さなければならない。だけど、何をすればいいんだろう。何がしたいのかわからない。未来は暗黒に包まれている。私は頭を擡げながら、優希を見つめた。

 優希はペットボトルのアクエリアスをすべて飲み切り、Tシャツの裾で額の汗を拭った。

「もしも、僕が今でも美沙さんを好きだって言ったらどうします?」

 その声は決して冗談には聞こえない、真剣な響きがあった。

 私はハッと我に返り、その言葉を何とか飲み込み、脳内をフル活動して回答を考える。一体、どう答えたらいい? そもそも私は優希をどう思っているんだろう。

 ずっと、弟のような存在だと思っていた。けれど、あの告白以降、私が彼を見る目は少しずつ変わっていった。つまり、弟を見る目から、異性を見る目に変化していったのである。だけど、年下だし、あまりに近すぎる存在だから、答えを曖昧にして、今まで生きてきたのである。

「私なんてダメな女よ。ろくに働けないし、何をすればいいのかわからないし。きっと、このままダラダラと生きて、新潟で死ぬんだと思う」

「死ぬなんて言わないでくださいよ。それに答えになっていません。もう一度聞きます。今でも僕が好きだって言ったら、受け入れてくれますか?」

「そ、それは……。無理だよ。だって優希はこれから東京の大学に行くわけでしょ。いきなり遠距離恋愛になったら、上手くいかないと思う」

「まだ進学したって決まったわけじゃありませんよ。新潟の大学に変更することだってできます」

「止めなよ。私のために自分の人生を滅茶苦茶にしないで」

「僕は、あの日告白してからも、ずっと、あなたのことが忘れらませんでした。でも、どこかで諦めないとって思っていたんです。そうしないと前に進めない。なのに、ダメなんです。どうしても美沙さんの姿がチラついて、想いを捨てられないんです」

「は? 今でも好きなの?」

「そうです。僕は今でも美沙さんが好きです。僕と美沙さんは六歳年の差がありますけれど、そんなの全く問題ありません。僕は春から大学生になります。そして、大学生が社会人の女性と付き合っていても、全然不思議ではないですよ」

「私、ニートだし……」

「じゃあ、僕と結婚して専業主婦になればいいじゃないですか? 僕が大学に通って勉強して、卒業したら働きますから、そうしたら結婚すればいい。それならいいでしょ?」

 いきなり結婚とは、話が飛躍し過ぎである。そもそも私のようなどうしようもない存在と結婚したところで、幸せになれるわけないのだ。私にとって、優希は家族のような存在だ。そんな大切な存在だからこそ、彼には幸せになってもらいたい。

「結婚なんて無理だよ。優希、私を好きでいてくれてありがとう。その気持ちは嬉しいよ。でも、私なんて止めた方がいい。不幸になるだけだから」

「どうして、そんなに悲観的になるんですか? 好きな人と一緒になる。それが幸せなんじゃないですか?」

 確かに好きな人と結ばれれば嬉しい。だけど、好きだけではやっていけない大きな壁もある。今の私は自分のことで精一杯だ。付き合うなんて無理かもしれない。

 私が黙り込むと、優希は言葉を続けた。

「美沙さんは、どう思っているんですか?」

「どうって何が?」

「だから、美沙さんは僕が好きですか?」

「嫌いじゃないよ。でも好きかって言われるとよくわからない」

「…………」

 優希はグッと下唇を噛み締めた。

 そして、哀愁の漂った表情で私を見つめる。あぁ、そんな顔で私を見ないでほしい。私が虐めているみたいじゃないか。

「美沙さん。少し考えてくれませんか?」

「考えるって何を?」

「つまり、僕との関係です。僕はあなたが好きだ。でもいきなり告白されても、美沙さんだって困惑すると思いますから、少し時間をあげます。美沙さんには、今十分な程時間がある。だから、その時間を使って、僕を好きになってもいいから考えてください。僕はあなたを幸せにさせます。……だから、お願いします……」

 優希はそこまで言うと、再びTシャツの裾で汗を拭った。汗は拭いても拭いても湧き出してくる。しつこいくらいに暑い夏の陽射しだった。


 私は優希と別れ、一人自宅に戻った。久しぶりに午前中に起きて、困惑したまま、ランニングじみたことをさせられる。おまけに、その後に再び告白されたのである。私は冷たいシャワーを浴びて、心地よい室温が保たれた室内で、彼について考えていた。

(ダメだよ……。私が優希を好きなっても、彼を不幸にさせるだけ……。最初から結婚に逃げる恋愛なんて、絶対うまくいかない。それに、私はこの新潟という土地で、もう一度再起をかけて戦わないとならない。このままいつまでもダラダラと生活はできない。タイムリミットは刻一刻と迫っている。つまり、早く仕事を決めなければならないのだ)

 私の職歴は絶望的な程何もない。テキスタイルの会社は半年で辞めているから、全く経験にならないだろうし。その後のWEBライターの仕事は、アピールポイントが見つからない。ほとんど、社会人経験のない、女性を雇ってくれる環境を探さないとならないのだ。そんな場所、あるのだろうか?

 今は、優希との恋愛を楽しんでいる時間はない。私がこんなダラダラしていると、きっと優希にとってもプラスにはならない。倒れそうになったら、寄り添って支え合える関係は理想だ。だけど、最初からズルズル倒れ掛かっていると、相手にとっても不安になるだけだ。

 もちろん、最初は付き合い始めた高揚感で、何もかもが愛おしくなるかもしれない。でもそんな時間は本当に些細なものだ。直ぐに現実に戻る時がやって来る。

 アイニージュ―。

 私は今、優希を必要としているかもしれない。でもダメなんだ。今のままでは絶対に……。


 週明けの月曜日――。

 重苦しい一週間が始まろうとしている。私は働いておらず、家でダラダラと過ごしているから、本当ならば、そんなにストレスはないはずなのだ。しかし、それは間違いである。働いていない環境は、それだけで大きなストレスを発生させる。

 私はまだ引きこもりというわけではないけれど、今なら何となく引きこもりの気持ちがわかるような気がする。ダラダラ過ごしているように見えて、実は苦しんでいる。周りの人間がバリバリ働いているのを見ると、それだけで気持ちが鬱屈としてくる。

 あぁ、私は一体何をしているんだろう?

 あぁ、私は何のために生まれてきたのだろう?

 本当に謎だ。どこから生き方を間違ってしまったんだろうか? テキスタイルの会社を辞めた時か? それともWEBライターを辞めた時か? 否、それとももっと前の話になるのか?

 こんなはずじゃなかった。

 何度考えただろう。このままじゃ駄目だとわかっているのに、どうしても自分が変えられないのである。

 そんな中で、私は優希に再び告白された。彼はまだ、私を好きでいてくれたのだ。その気持ちは純粋に嬉しい。この世界のどこかで、自分を必要としてくれる人がいる。それは、私の中で大きな力に変わっていき、この鬱屈した気分の中に、一筋の光を与えてくれた。

 だけど、私は優希の気持ちには応えられない。何しろ、ニートなのだ。もちろん、この先はしっかり働くつもりである。今は充電期間だ。何度もそう言い聞かせて、私は必死に自分を奮い立たせる。これは、本当の私じゃない。本当の私は、きっと私の中のどこかに隠れている。それを引き出せないだけなのだ。

 漫画の主人公が、圧倒的な敵を前に、隠された力を出すように、私の中にも、きっと何か隠れた能力があるはずなんだ……。と、そんな中二病的なことを考える。

 バカ! 止めなよ! そんなわけあるか。何かあるのだとしたら、こんな風に苦しんでいない。もっとスムーズに物事は進んだはずだ。私に何かしらの才能があれば、恐らく、今頃その道で輝いていはずなんだ。

 それがないのは、つまり、私には何の才能もないということ……。それはわかっている。人は誰でも特別な才能を持っているわけではない。天才は本当に一握りだ。多くの凡夫がいるから、天才が光り輝くのである。

 私にはそんな輝かしい能力はない。せいぜい、パソコンを使って文章を書くのが速いくらいで、このくらいの能力を持つ人間は、それこそ腐るほどいるだろう。特に、タイピングのスピードは、毎日書けば書くほど上がっていく。私程度の力なんて、多分、一カ月程度で得られるのだ。だから、私は特別ではない。

 特別ではない人間は、どうやって生きていけばいいのか? そんなのは簡単だ。どこでもいいから、仕事先を見つけて、そこで一生懸命になって働くだけだ。多くの人間が……。否、ほとんどの人間がそうやって生きている。当たり前のように……。

 大学を卒業し、企業に入社して、それから定年まで勤めあげる。もちろん、年功序列で、定年まで働ける保証はない。大企業だって、簡単に潰れる時代である。自分の勤める会社が突然倒産する可能性だってあるのだ。

 だけど……。

 そう、だけど、そんなのは稀というか、頻繁に起こるわけではない。多くの場合、自分の選んだ会社で、ずっと働ける。私だって、一度はテキスタイルの会社で働いた。その時は、合っていないのと思って直ぐに辞めてしまったけれど、今はずっと続ける覚悟がある。私はやればできるはずなんだ。

 ただ、そのチャンスがないだけである。

 チャンスさえくれれば、私はきっと輝ける。普通の会社に入って、普通に働く。そんな普通ができるはずなんだ。

 なのに……。

 なのに、今の私は、その普通にすら届かない。暗黒の中を彷徨っている。

(ハローワーク……行ってみようかな?)

 今日は月曜日、時刻は午後一時。ハローワークという場所には、ほとんど行ったことがないけれど、確かああいう場所は、五時くらいまでやっているはずである。つまり、今行けば何か仕事が見つかるかもしれない。

 私は、この新潟という地で、働かないとならない。今は、実家に寄生しているけれど、何れは再び一人暮らしを始めて、何とかやっていきたいのだ。そのためには、まず一歩を踏み出す。それしかないだろう。

 そう。

 わかっている。そんなに迷うなら、今すぐハローワークへ行けばいい。それなのに、どうしても身体が動かない。何故? 何故なの? どうして身体が動いてくれないの。私は奇妙な感覚に囚われて、その場で蹲ってしまう。激しい吐き気を覚え、ぐったりとベッドに崩れ落ちる。

 駄目だ。本当にダメ人間。何もできないんだ。あぁ、本当に情けない。死にたくなってくるよ……。

 

 夕方――。

 夕食まで時間がある。私が部屋で悶々としていると、インターフォンが鳴った。まだ、父は帰って来ていない。なら、母が出るかもしれない。否待てよ、母だっているかわからない。居留守を使うか? そう考えたけれど、インターフォンは鳴りやまなかった。

 仕方なく身体を起こして玄関に向かう。

 そして、トビラを開ける。

「はい、どちら様?」

 私の視界に、意外な人物が飛び込んでくる。

 それは優希だった。

「あ、美沙さん、いたんですね。ちょうどよかった。話があるんです」

「話って何よ?」

「美沙さん、今働いていないですよね?」

「そうだけど」

「よかった。実は一つ仕事がありまして」

「はぁ? 仕事って何よ」

「今度、駅前に本屋がオープンするんですけど、そこに本を搬入するんです。それができる人を探しているんですけど、美沙さんやりませんか?」

「なんで私がそんなことをしなきゃならないのよ」

「だってどこかで働きたいって言っていたから。あ、でも、この仕事は単発なんで、長く働くわけじゃないです。でも、給料はいいですよ。八時間働いて八千円です。なかなかいいでしょ?」

「時給千円か。そんなに高いわけじゃ」

「新潟じゃ破格ですよ。とにかくやってみませんか? 僕も一緒に行くんで、話し相手ならいますから」

「え? あんたも来るの?」

「そうです。夏休みなんで、何かバイトしたくて」

「……まぁ、付き合ってもいいけど」

「そうですか? なら先方には僕から話しておきます」

「ちなみにいつ働くの?」

「えっと、明後日です? 大丈夫ですか?」

 諄いようだけど、私は全く働いていない。だから、毎日スケジュールは空いている。当然、明後日だって何もしない。ただ寝ているだけなのだ。だから、問題なく働ける……。

「大丈夫だけど」

「時間は朝の十時から夜の七時までです。途中、休憩が一時間あります」

「駅前のどこ?」

「駅南です。プラーカの中なんですけど」

 新潟駅の近くはそれなりに栄えていて、駅南にプラーカという商業施設がある。どうやら、そこに大型の書店ができるらしい。その荷物の搬入を、日雇いのアルバイターたちが行うのだ。私もその一人に交じり、働くことになるのである。

「わかった。じゃあ明後日ね」

「あ、後。この間のこと考えてくれましたか?」

「え? この間のことって……」

 それはきっと愛の告白についてだろう。

 私は答えを出せずにいる。否、答えは出ているかもしれない。私には、優希は相応しくない。つまり、一緒に居るべきではないのだ。「答えなら出てるわ」

「え?」

「私を追うのは止めなさい。あんた、不幸になりたいの?」

「どうして美沙さんを追うと、不幸になるんですか?」

「そ、それは、その、つまり、私がダメな人間だからよ」

「美沙さんはダメな人間じゃないですよ。ちゃんと生活していますし。……そりゃ、今は働いていないかもしれないですけど、ちゃんと働ける日が来ます」

「あんたって変わってるね」

「僕が変わってる?」

「そう。だって告白して、二度も断られているのに、まだしつこく迫ってくるんだもん」

「それだけ、僕は美沙さんが好きなんですよ」

「悪質なストーカーとかにならないでよね」

 私がそう言うと、優希はフッと笑みを浮かべた。緊張感から解放されたような笑顔だった。

「まさか……。そんな風になりませんよ。あれ、でも僕フラれたんですか?」

「え、うん。だって今私断ったじゃない」

「本気で言ってるんですか?」

「本気だよ。あんたにはもっと相応しい女の子がいるから、その人と幸せになりなさい」

「僕が好きなのは、本当に美沙さんだけなんです」

 そう言うと、優希は一歩歩みを進めた。

 そして、私の瞳を見つめると、そのまま顔を近づけてきた。

 え、何々……。何をするの?

 私は咄嗟に身構える。しかし、すべて遅かった。

 なんと、優希は私にキスをしてきたのである。唇同士が触れるだけの、些細なキス。私の心臓の鼓動が、ドクン跳ねた。

 一瞬、私は何をされたのか理解できなかった。だけど、数秒遅れてキスをされたのだとわかった。キスを終えた優希は顔を真っ赤にさせながら、コチラを熱い瞳で見つめてくる。

 夕暮れの光に照らされた彼の表情は、なんというか独特で、私は思わず息を呑んだ。

「な、何? 今の……?」

「僕の気持ちです。それじゃ明後日また迎えに来ます。絶対に来てくださいよ」

 それだけ言い残すと、彼は颯爽と去っていった。その表情は、どこか安堵しており、恍惚としていた。

(私……、キスされたんだ)

 茫然自失としながら、夕暮れの空を見上げた。

 空は少し赤くて、後は闇に染まり始めている。もう夏も終わりに近い。少しずつ、日も短くなっている――。


 何、ドキドキしてるんだろう。

 優希は年下だ。それも六歳も違うのである。なのに、徐々に惹かれている。

 正直な話、私はキスをした経験がない。もちろん、セックスもない。笑えるかもしれないけれど、私は二十三歳で処女なのだ。結構レア? わからない。いつか運命の人がやってきて、私を幸せにしてくれる。そう思っていたら、そんな人は全然現れなくて、いつの間にか、二十三歳になっていた。

 キスもセックスも……、そして、異性と手を繋いだことだってない。でも、別にそれで構わないと思っている。思春期の頃、周りは競って性体験をしようと躍起になっていたが、私はそうはならなかった。もっと、自分を大切にしろよって言いたくなるのだ。

 けど、二十三歳で処女というのは、結構恥ずかしい。多分、今のままだと、暫く処女である時間が続きそうである。

 優希は……。

 彼は、セックスしたことがあるんだろうか? 年頃の男の子は、皆エッチなことが好きだから、しているかもしれない。優希はそれほどルックスは悪くないし、同姓代の女の子とそういう関係になっていたところで、何ら不思議ではない。

 まぁ、優希がセックスを経験してようが、していまいが、私には関係のない話なんだけど。どういうわけか気になってしまう。そもそも、彼はどうして私にキスをしたんだろう。確かに、私は彼の告白を断った。

 それも二度も……。

 なのに、彼は全くめげずに突っ込んでくる。溢れ出るパワーを止められない感じだ。きっと、何度断っても、きっと私がOKを出すまで告白してくるかもしれない。何か、迷惑に感じるかもしれないけれど、実はそんなに嫌じゃない。どこかこう、認められたような気がして、私をホッとさせる。

(優希と付き合ったら、私、どうなるんだろう?)

 ふと、考えてみる。

 けれど、答えは出ない。

 何しろ付き合った経験がないのだ。普通のカップルが何をしているのか、よくわからないのである。何でもいいのかもしれない。どこかに遊びに行くのもいいし、自宅で映画を見てもいいかもしれない。つまり、一緒に居るのが大切なのだ。

 一緒に居るから、お互いがよくわかるようになる。付き合う前はわからなかったことが、見えてくるかもしれない。それはきっと、すべていいことではないだろう。悪い所も見えてくるから、それで苦しくなるかもしれない。でも、それを含めて恋愛なのだ。

 仮に私の前に、運命の人が現れても、その人が百パーセント、私の理想通りであるわけがない。人は、長所があれば短所もある。完璧な人間などいないのだ。最も、完璧であるのは、きっとつまらない。人は、足りない部分があるから努力をしようとする。そして、それができるようになると嬉しくなる。苦手を克服していく。同時に、長所も伸ばしていく。それを連続してやっていくと、人は自ずと成長していくのではないだろうか?

 となると、恋愛も人を成長させる薬になるだろう。恋愛とは究極の人間関係だと思う。友達とは違う。発展すれば一生を共にするかもしれないのだ。

 私にとっての運命の人。王子様。それがどこにいるのかはわからない。そんな人間はきっと幻想で、ありえない妄想だと思う。それでもどこかでそんなありえない人間を求めてしまう。まだ何かある。明日出会うかもしれない。そんな夢みたいな妄想を考え続けている。

 私はスピッツの「運命の人」をかけた。これまで何度も聞いた曲である。独特の歌詞と、爽やかなメロディが、脳内に流れ込んでくる。

 運命の人。

 それなら、近くにいるではないか?

 それは誰か?

 優希だ。

 彼が、私にとっての運命の人なのではないか。ありえない妄想が広がっていく。考えれば、私たちは、小さい頃から一緒だった。歳の差はあるけれど、ずっと一緒に居たのである。私が高校を卒業して大学に進学するために神奈川県の横浜市に引っ越すまでは、長い間一緒だったのである。

 これは、運命と言えるのではなかろうか?

 そもそも、幼馴染がいるって人ってあんまりいないし、小さい頃から一緒だった人と、結ばれたら、それはそれで運命を感じさせる。だけど、私は顔を真っ赤にさせて寝転んだ。

 仮に優希が運命の人ならば、私は彼の告白を受け入れた方がいいのかもしれない。だって、運命だし……。でも、今の私にはとにかく自信がない。彼は、私に求婚もしてきた。自分が大学を卒業したら働くから、そうしたら専業主婦になればいいと言ってくれたのである。

 確かに、それも一つの生き方だろう。女性の幸せは結婚であると考える、古い世代の人間もいる。多分、私の母親も似たようなことを考えているかもしれない。働け働けというけれど、心のどこかでは男を捕まえてきて、結婚してほしいと思っているかもしれない。

 結婚すれば、子供ができるかもしれない。そうすれば、私の両親は祖父、祖母になる。それも幸せの一つかもしれない。多分、相手が優希だったら、両親も文句は言わないだろう。彼がどこの大学に行くのかはわからないけれど、指定校推薦で進学するのだから、ある程度の大学に行くのだろう。

 ならば、その後の就職活動だって優位に進めるかもしれない。新卒してから数年は大変かもしれないけれど、この国は年を重なれば賃金が上がっていく。もちろん、今はその神話も崩れつつあるけれど、多分大丈夫だろう。私は、パートでもしながら、優希を支えればいい。そうすれば、ささやかだけど、普通の生活ができるのは目に見えている。倒れそうになったら、支えていけばいいのだ。それが恋人……否、夫婦というものだろう。

(ううん、ダメだよ。やっぱり……)

 冷静になって考える。

 私は、普通に働きたい。今度就職する時は、自分に合ったところを探して、しっかり一人で暮らせるようになりたい。ずっと一人がいいわけではないけれど、こんなダラダラとした女と一緒になったら、きっと優希だって駄目になってしまうだろう。

 私は優希には幸せになってもらいたい。彼に相応しいのは、私ではない。もっといい相手がきっといる。大学に行けば、今まで以上に出会いが増えるはずである。そうなれば、私なんて忘れるだろう。今は、単に出会いがないから、手近な私に好意が向いているだけだ。そうだよ、きっとそう。私は手を引くべき……。自重しろよ、私。


 日曜日――。

 本屋の搬入の仕事が始まる。

 事前に確認したところ、服装は動きやすければ何でもいいとの話だった。だから、私は白いTシャツにデニムを合わせて向かった。

 朝九時に優希が迎えに来て、十時から仕事がスタートする。本の搬入は基本的に台車を使ってやるのだけれど、実際に本棚に移す時は手作業である。本は意外と重たいし、今回オープンする書店はかなり大きな店舗だから、とにかく本の数が膨大だった。だから必然的にやる作業も多くて、とてもしんどかった。

 だけど、黙ってできる作業だし、黙々とできるので、気分的には楽だった。基本的に男性と女性は別々の仕事になっていて、優希は主に、段ボールに入った本を台車に乗せる仕事としているようだった。だから、仕事中、私は優希と話さなくて済んだ。

 これは、私にとってはプラスであった。先日キスをされたこともあって、どうやって彼を見ていいのかわからなかったのだ。対する優希はあっけらかんとしていて、迎えに来た時も普通の対応をしていた。私だけが、一人オドオドしていて、何か辛くなる……。

 午前中の仕事が終わる。

 プラーカの中には、社員用の休憩室があって、そこで昼食を摂れるようであった。近くにはコンビニもあるので、私はそこでおにぎりを二つ買って、それを昼食にした。しばらく一人で食べていると、そこに優希がやって来た。ドキッと胸が高鳴る。私、何意識してるんだろう……。

「美沙さん、お疲れ様です」

「うん」

「仕事、どんな感じですか?」

「まぁ人と話さなくていいから楽かな。そっちは?」

「男性陣は力仕事が多いですね。これで給料が一緒なんで辛いですよ」

「そっか、大変だね」

 いつもとは違い、会話が直ぐに終わってしまう。私が変に意識しているから、どうしても上手く話せないのである。

「美沙さん、調子悪いんですか?」

「え、どうして?」

「何か口数少ないから」

 それはあんたが私にキスをしたからだよ。

 と、心の底から叫びたかった。私の初キスを、彼は奪っていったのだ。

「何でもないわ」

「そうですか。まぁ、午後からも頑張りましょう。そうだ、今日仕事が終わったら、一緒にご飯でも食べませんか?」

「家で食べるからいい」

「いいじゃないですか。奢れとか言いませんよ。僕が出してもいいですから」

「年下にご馳走にはなれないわ」

「ならきっちり割り勘にしましょう。それならいいでしょ?」

「え、で、でも」

「とにかく仕事が終わったら勝手に帰らないでくださいよ。約束です」

 強引に約束してしまった。

 はぁ、私の気も知らないで、なんでこの人は、こんなに強引なんだろう。私なんか相手にしないで、もっと別の出会いを探せばいいのに。私なんてダメ人間だし……。

 とにかく、私は自分に自信がない。仕事も長続きしないし、神奈川県での一人暮らしも途中で止めてしまっていた。実家に寄生して、ダラダラとしているだけだ。自信を持つためには、何をしたらいいんだろう。普通に働けばいいのかな? でもハローワークへ行く力も今はない。つまり、何もできずに悩んでいる。状況を変えたいのに、今の自分の居場所が心地よくて、いざ動こうとすると、無理ってなってしまう。これを変えないとならないのだけれど、どうしてもダメなのだ。どうしようもなく、やるせなくなる。

 午後の仕事も同じ作業の連続であった。でも少しずつ、本棚に本が埋まって行って、段々本屋らしくなっていく。ふと、暫くは日雇いの仕事でもいいかなという気持ちが湧き出してくる。とりあえず何でもいいから働いて、状況を変える。働くのに慣れれば、きっとその先の道も拓けてくるだろう。

 けど、日雇いって不安定なんだよなぁ。私は実家で暮らしているから、まだお金について考えなくてもいいけれど、ずっと日雇いは厳しい。年齢を重ねれば、雇ってくれる会社は途端少なくなる。今はまだ、二十三歳だから、仕事は無数にある。選ばなければ直ぐに決められるだろう。

 午後五時。仕事が終わる。

 どうやら、明日もあるようだったけれど、私たちは、今日だけの契約であったため、本日で作業は終わりである。もう少しやってもいいかなって思えたけれど、仕方ない。夏が終わったら、仕事を探そう。ゆっくりでいいのだ。地道に探せば、きっと自分に合った仕事が見つかるはずだよ。

 休憩中、優希に夕食に誘われていたから、私は休憩室で待っていた。どうやら私の方が先に仕事が終わったようで、優希は少しだけ残業していた。二十分ほど遅れて、優希が休憩室にやってきた。その顔は幾分か疲れているように見えた。

「美沙さん。すみません、待たせてしまって」

「いや、いいけど。ホントに食事に行くの?」

「そうですよ。どこでもいいですか?」

「まぁいいけど」

「なら付いてきてください」

 私は言われるままに、彼の後に続いた。

 私たちが向かったのは、駅の中にある中華レストランだった。金額もそれほど高くなく、幸いお店も混んでいなかった。

 ウエイターに案内されて、私たちは、奥のテーブル席に座る。

「お疲れ様でした。今日はどうでしたか?」

 優希はチャーハンセット。私は麻婆豆腐を頼んだ。

「まぁ、疲れたけれど、久しぶりに働いたから新鮮だったよ」

「それはよかったです。これを機会に、美沙さんも働けるようになりますよ」

「だといいけど……」

 優希の目を見るのが辛い。

 どうしてもキスされた時の映像がフラッシュバックしてしまう。

 私がこんなにもドギマギしているのに、どうして優希は平気なんだろう? あのキスは何だったのか。そればかりが頭を過り、私を苦しめる。

「ねぇ、一つ聞いていい?」

 と、私は切り出す。

「何ですか?」

「この間のこと……」

「この間?」

「あんた、私に、その、キスしたじゃない。あれって本気?」

 その言葉を聞くと、優希の顔がスッと真剣なものになった。

「もちろん本気です。僕の愛の証ですよ」

「どうして? どうして私なの」

「ずっと好きだから。憧れだったんです。理由はよくわかりません。そもそも、人を好きになるのに理由なんているんですか?」

 私は、今まで本気になって人を好きになったことがないのかもしれない。どこかで、運命の人を求めていたけれど、そんな人間はどこにもいなくて、ただ漫然と生きていた。だから、本気になって人を好きにならない。本当に、人を好きになるって何なんだろう?

「理由はいらないかもしれないけど……」

「そうでしょ。僕は美沙さんが好き。それでいいじゃないですか」

「でも、優希はこれから大学に行くわけでしょ。そこで新しい出会いがあるかもしれない。私なんて、もういい年だし、魅力ないよ」

「そんな風に自分を卑下しないでください。美沙さんは十分魅力的ですよ。それに、僕が好きなんだから、別にいいじゃないですか? 美沙さん、僕と付き合いましょう。きっと、後悔はさせませんから」

 また告白された。

 正直、どう答えればいいのか迷ってしまう。けれど、確実に言えるのは、どういうわけか、私も少しずつ優希に惹かれ始めていることだ。何故なんだろう。ついこの間まで、全く意識してこなかったのに、それがどうして、こんな風に彼を考えるようになったんだろう?

 あの、キスがきっかけ? 否、それよりも前かもしれない。私自身、ずっと優希が気になっていた。でも、それに気づかないふりをして、今まで過ごしていただけなのかもしれない。

「私、そんなにイイ女じゃないわ……」

「僕には十分イイ女に見えますけど。どうして、美沙さんはそんなに自分に自信がないんですか?」

「わかんないよ。だって、働いていないし、一人暮らししてもダメだったし……。ダメ人間じゃん」

「本当にダメな人間は、こうやって本屋の仕事をしないですよ。でも、美沙さんはこうして働いている。十分じゃないですか」

「私の中で、働くっていうのは、週に五日、朝から晩まで働くのを意味してるんだけど」

「なら、そういう仕事を探せばいいじゃないですか? 今、探している途中なんですよ。だから、全然ダメじゃないです」

「私と付き合ったって、何のメリットもないよ」

「付き合うのに、メリットもクソもないです。ただ、好きだから一緒に居る。それだけですよ。美沙さん、僕がキスした時、抵抗しなかったですよね? それって、つまり僕を認めてくれたって意味じゃないですか?」

 確かに私はあのキスを抵抗しなかった。驚いてそれどころじゃなかったけれど、どこか頭がフワフワとしてしまい、包み込まれるような快感を覚えたのである。

「困る。私困るよ」

「どうして困るんですか? 美沙さんは僕が嫌いですか?」

「嫌いじゃないけれど、付き合うってなると、そんなに簡単に『うん』って言えないよ」

「じゃあ、三日間時間をあげます。その間に答えを決めてください。僕はもう、ずっとあなたを好きでいるんです。もし、あなたが本当に拒絶するのなら、それで僕は諦めますよ。だから、よく考えてください……」

 三日。

 長いようで、短い期間。

 その間に、私は答えを出さないとならない。

 結局、私たちは食事を終えて、そのまま別れた――。


 翌日――。

 朝起きて、ご飯も食べずにぼんやりとしていた。仕事の疲れがあるわけではない。ただ、優希の告白が頭から離れず、動くに動けないのである。答えを決めないとならない。

 私が断れば、優希は諦めると言っている。なら、いっそのこと、あっさりと断ってしまえばいい。でも、そうなると、今まで積み重ねてきた優希との関係が崩れてしまいそうで、怖くなってしまう。

 一旦男女の関係になったら、多分友達には戻れない。否、男女の友情なんてものは、本当はないのかもしれない。それは幻想だ。私は、心のどこかで優希が気になっていた。でも、関係が崩れるのが怖くて、今まで答えを出せずにいた。

 だけど、今回は答えを出さないとならない。優希はずっと私に告白してきたのだ。私はそれを曖昧にして避け続けた。それって告白する側からすると、かなり迷惑な話かもしれない。断るのなら、真剣に断らないとダメなのだ。私はそうしてこなかった。もしかすると、悪戯に優希を苦しめていたのかもしれない。

 一歩踏み出せ。

 前へ……。

 私が一歩踏み出せない理由は、まさに就職にある。中途半端な立場から、その状態で、付き合うのが嫌になってしまうのだ。なら、働いたら、私は優希と付き合えるのか? 彼は、大学に進学する。大学に進学するために、この地を離れるのだ。

 なら……。

 それならば……。

 私も彼に付いていって、新しい土地で、心機一転頑張ってみてもいい。また新たに一人暮らしを始めるには、資金が必要だ。私は大学の費用も出してもらったし、親には迷惑をかけてばかりだ。これ以上、お金を出してもらうわけにはいかない。つまり、自分で何とかするんだ。

 幸い、優希が進学するまでに、まだ何カ月か余裕がある。その間にお金を貯めて、私は彼と一緒になろう。そうすれば、新しい私になれるような気がした――。

 三日経ち、私は優希と一緒にやすらぎ提を歩いていた。八月も終盤になり、日が落ちるのも早くなった。

 薄暗くなったやすらぎ提は、静かにライトの明かりに照らされて、しんみりとして見えた。時折、ランニング中のランナーや、犬を散歩させる中高年に会ったが、それ以外は平和な一面が広がっている。

 私たちは、空いたベンチに座り、空を見上げた。新潟の空には星は見えない。全体的にどんよりとしている。

 まず、切り出しのは優希だった。

「答えは出ましたか? 美沙さん」

「うん」

「聞かせてください」

「私のことを好きでいてくれるのは嬉しい。それでね、私もよく考えたの。私も優希が好きだって。……でも今すぐには付き合えない。私、今の状態をなんとかしたいの。しっかり働いてお金を貯めて、それで再び一人暮らしができるようになったら、その時は私、優希についていく」

「それは、僕が大学に進学したら、一緒に来てくれるってことですか?」

「うん。そうだよ」

「あ、ありがとうございます。僕、嬉しいですよ。なら、これからは美沙さんが働けるようにサポートします」

「大丈夫だよ。これは私の問題だから……」

「でも」

「とりあえず、明日ハローワークへ行くつもり、そこで、春までの期間限定できる仕事を探して、働くつもり。だから優希、もう少し待ってて。私の生まれ変わった姿を見て欲しいから」

「もちろんですよ。待ちますとも」

「ありがとう」

 二人の間に穏やかな空気が流れる。

 優希は照れているのか、首元をポリポリと掻いている。私も心の底から嬉しくなる。これが人を愛するってことなんだ。人を好きになると、無限のようなパワーが出てくる。

 今まで自堕落に生きてきたけれど、そこから脱却できそうな気がする。愛っていうのは、そこまでの強い力があるんだ。私は優希を好きになってもいい。そして、好きになって、愛し合って、そうやって、暮らしていくんだ。ずっと一緒に居られればいい。そうすれば、もっと幸せなれるだろう。

 とにかく私は「愛」により、一歩前に進めた。優希に感謝するべきなんだろうか? 優希は何度も私を救ってくれた。ダメな私だけど、優希を支えて行けるのかな? 不安だけど、やっていけば、なんとかなるだろう。愛の力はそれだけ偉大なのだから。

「優希、目を閉じて」

 と、私は言った。

 優希は言われるままに、目を閉じる。

 それを確認した私は、顔を近づける。そして、そっとキスをする。ぷちゅっと唇同士が重なり、私は蕩けるほど、嬉しくなる。私たちの愛は、こうして始まったのである――。

〈了〉

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